死にたくない
だが、現実は残酷だ。笑みを浮かべたところで、全身を苛む激痛が消えてくれるわけではない。
手枷は外れた。しかし、床についた両手はガタガタと情けなく震え、身体からは、未だに肉の焦げるような痛みが脳髄を焼き続けている。
「はぁ、っ……っ」
一度上がった息が、うまく吸い込めない。肺がひび割れたように熱い。
床に血と脂汗を滴らせながら、俺は四つん這いのまま、自分のボロボロの肉体を呪うように歯噛みした。
こんな無様な身体で、本当に逃げ切れるのか。
外に出たところで、何が出来るのか。
これ以上みっともなく生き延びて、一体何になるというのか。
正論が、頭の中で何度も何度も俺の心をへし折ろうと囁きかけてくる。
このままここに倒れ伏し、数日後の処刑を大人しく待てば、これ以上の痛みを味わうこともない。その方が、ずっと、ずっと楽なはずだった。
「――うるさい。うるせえよ……!」
喉の奥から、血の混じった咆哮が漏れる。
楽に死ぬ?冗談じゃない。そんなものは、俺を裏切り、嘲笑い、都合の良い悪者に仕立て上げた世界にとって、最高に都合のいい結末でしかない。
どんなに惨めでも、どれほど無様でも構わない。他人の足にすがりついてでも、俺はまだ、ここで呼吸を止められたくなかった。この都市のやつらの敷いたレールの上で、何もかも奪われたまま終わるなんて、絶対に、死んでも嫌だ。
「まだ、終わって、たまるか……!」
壁のざらついた岩肌に爪を立て、血を滲ませながら、俺はゆっくりと身体を起こした。
膝が笑い、視界が激しく明滅する。それでも、生き延びて世界に一矢報いてやるという獰猛な本能だけが、無理やり俺の身体を立ち上がらせた。
ふらつく足取りで、目の前にある独房の鉄扉へと歩み寄る。
手枷の鍵の束から、扉の鍵穴に合いそうな古びた一本を選び出し、震える指先で差し込んだ。
カチリ、と重々しい金属音が静寂の独房に響く。
力を込めて取っ手を押し込むと、錆びついた扉がギィ……と、まるで地獄の門が開くような低い軋み声を上げた。
扉の隙間から流れ込んできたのは、理想郷のぬるま湯のような空気ではない。冷え切り、湿り気を含んだ、未知の風だった。
その肌を刺すような冷気すらも、今は自分が檻の外へ出られたという、生々しいまでの現実として俺の五感を震わせる。
「早く……行くんだ……」
濁った瞳に執念の火を灯し、俺は独房の敷居をまたいだ。
裏切りと絶望に満ちた檻に決別を告げ、俺は自らの足で、暗い地下通路の深淵へと最初の一歩を踏み出した。
――踏み出す。踏み出す。踏み出す。踏み出す度に、骨の軋むような衝撃がボロボロの肉体を突き抜ける。
自由になったはずの両手は血と冷や汗にまみれ、湿った地下の壁を伝うことしかできない。
「どこまで続いてんだよ……」
視界の端がチカチカと明滅し、脳が悲鳴を上げている。
天井の隙間から滴り落ちる冷たい水滴が、首筋を伝うたびにゾクリとした寒気が走った。
ここがどこなのか、どの方向に進めばいいのかすら分からない。
エサマの言っていた「下水道へと繋がる古い網」とやらは、この暗闇のどこに隠されているというのか。
頼れるものは、もはや何もない。
ただ、この奥からかすかに吹き込んでくる、生臭く湿った空気の流れだけが唯一の道標だった。
右へ、左へ。
迷路のように入り組んだ地下の分岐路を、壁を這うようにして進み続ける。
時折、自分の足音とは違う、何かが動くような幻聴が聞こえては、心臓が跳ね上がる。
もしここでエサマ以外の衛兵に見つかれば、今度こそ弁解の余地なくその場で突き殺されるだろう。その恐怖が、限界を迎えた足を引きずり動かす燃料になっていた。
――暗闇を彷徨う。
不意に、指先で探っていた壁の感触が途切れた。
「……っ、これ、は……」
目を凝らす。
通路の突き当たり、闇の奥に鈍く光る鉄格子の影――それこそが、エサマが口にしていた古い網だった――
網の隙間を無理やりこじ開け、ボロボロの身体を滑り込ませる。
その向こうに広がっていたのは、鼻を突くような悪臭と湿気が立ち込める、薄暗い下水道のような場所だった。足元には濁った水が静かに流れており、一歩進むたびにベチャリと冷たい音が響く。
「――っ。ここを真っ直ぐ行けば、本当に外に出られるんだよな……」
反響する自分の荒い息遣いを聞きながら、俺はただひたすらに前へと歩いた。理想郷の華やかな表舞台の真下に、こんな薄汚い空間が広がっているなんて皮肉なものだ。壁に手をつき、濁流に足を足を取られないよう、慎重に、しかし必死に歩みを進めていく。
下水道の緩やかな傾斜を上っていくにつれ、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。
壁の至る所から、大小様々な金属製のパイプが顔を出し始めたのだ。
さらに奥へ進むと、それは数本どころではなくなった。天井から、壁から、のたうち回る蛇のように、大量のパイプが通路全体を埋め尽くすようにして伸びている。不気味な熱気と、機械の低い駆動音が狭い空間に充満していた。
パイプの隙間を縫うように、身を屈めて進む。だが、次第にパイプの密度は狂ったように増していき、ついに前方の空間を完全に覆い尽くしてしまった。
「嘘、だろ……」
息を呑み、目を凝らす。
無数のパイプが複雑に絡み合い、まるで巨大な鉄の壁のように通路を完全に塞いでいた。その隙間から先へ進むことなど、到底不可能。
――ただの、行き止まりだった。
「ふざけんな……っ!エサマ……!!」
喉の奥から、行き場のない苛立ちがせり上がってくる。
あいつは網を抜ければ外に出られると言っていたはずだ。なのに、歩いた先がこんな場所なんて話が違う。
騙されたのか?やっぱりあの男は、俺を檻から出して、ぬか喜びさせた後に絶望させるためだけにあの鍵を置いていったのか?
「くそっ、クソが……ッ!!」
やり場のない怒りと激しい焦燥感に駆られ、俺は拳を、目の前の冷たいパイプへと強く叩きつけた。
ガン、と鈍い音が響き、叩きつけた拳から鋭い痛みが走る。
いくら殴ったところで、目の前の鉄の壁が退いてくれるわけではない。冷たい金属の感触だけが、俺の愚かさを嘲笑うように拳に残った。
「……っ!」
荒い呼吸のたびに、錆と油の混じった悪臭が肺を跳ね返る。
ここで立ち尽くしていても、エサマが言っていた一時間の猶予が削れていくだけだ。あいつにはめられたのだとしても、ここで絶望して足を止めたら、それこそあの男の思う壺だ。
「戻る……戻るしか、ない……」
奥歯を噛み締め、血の味を感じながら、俺は今来たばかりのパイプの森へと無理やり身体を反転させた。
来た時よりも一層重く感じる身体を引きずり、のたうち回るパイプの隙間をくぐり抜けていく。下水道の濁流が流れる、あの薄暗い一本道へと引き返すために。
――バシャバシャッ、と。
引き返す足元で、突如として俺の足音とは違う、不気味で素早い水音が弾けた。
「誰だ――!」
心臓が跳ね上がり、反射的に壁へと背中を打ちつける。
ひび割れた視界を凝らして水面の暗闇を睨みつけると、そこにいたのは衛兵ではなかった。
ぬめり気のある灰色の毛並みを泥水に濡らし、丸々と太った数匹のドブネズミが、赤い目をギラつかせながら俺の足元を横切っていく。
キィキィと不快な鳴き声を上げながら、彼らは俺という存在など歯牙にもかけない様子で、濁流の奥へと消えていった。
「なんだ……ネズミ、かよ……」
緊張が一気に抜け、壁に寄りかかったままずるずると崩れ落ちそうになる。
ドサクサに紛れて、ネズミの跳ね上げた汚水がボロボロの衣服や肌に容赦なく降りかかった。鼻を突くえぐ味のある臭いと泥の臭いが、いや応なしに俺の鼻腔を支配する。
あぁ、そうだ。ここは、下水道なんだ。
理想郷のやつらが排泄した汚物や、目を背けたいゴミがすべて流れ着く、文字通りの最底辺。
そんな汚泥のなかを、俺は今、必死になって這いずり回っている。
今の俺は、あの薄汚いネズミたちと何一つ変わらない。いや、あいつらの方がまだ、この泥の中での生き方を知っているだけマシかもしれない。
「惨めだな……俺、何やってんだろ……」
今の俺は、ネズミに怯えながら糞尿の混じった水を浴びている。情けなくて、みっともなくて、胸の奥が焼き切れるように悔しかった。
だけど――
「……それでも、死んでたまるかよ」
袖で乱暴に顔の汚れを拭い、泥水を浴びた膝に再び力を込める。
こんな最悪な場所で、ネズミに笑われたまま終わるなんて絶対に御免だ。
俺はネズミが走り去った暗闇を見据え、別のルートを探すべく、再び濁流のなかへ足を一歩踏み出した――




