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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
二章 永劫の理想郷
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価値


「ほら、止まるな。足を動かせ」


 抵抗する間もなく、背中を容赦なく蹴り飛ばされる。

 まともに上がらない足を引きずりながら、松明の灯りが不気味に揺れる一本道を進むしか選択肢はない。カビと、湿った鉄の匂いがどんどん濃くなっていく。


 やがて、鉄格子の重い扉の前で行進が止まった。


 衛兵の一人が鍵をガチャガチャと鳴らしながら、俺を薄汚い空間へと無造作に投げ込む。


「開廷までそこで這いつくばっていろ」


「こんなやつに構ってんじゃねぇよ。行くぞ」


「了解です」


 ガチャン、と重苦しい金属音が響き、外側から頑丈な錠が下りる。


「どこで失敗したんだ……?」


 遠ざかっていく衛兵の足音を聞きながら、俺は冷たい岩肌に囲まれた狭い牢屋で一人、ぽつりと呟いた。


 壁の隙間からじわじわと染み出す水滴が、床に落ちては寂しく音を立てている。


 手枷のせいで自由の利かない身体を丸め、汚れた床の上にただ横たわった。

 静かすぎる空間のせいで、脳味噌の嫌がらせがまた始まりそうになる。

 

 裁判。

 あいつらは、俺をどうするつもりなのだろう。

 何を裁くというのか。俺が何をした。ただ、信じただけだったのに。

 

 傷口にべったりと張りつく血混じりの泥が、時間の経過とともに乾いて皮膚を突っ張らせていく。その不快感すら、俺にすれば自分がまだ生きていることを突きつけてくるだけの不条理でしかなかった――



 身体が、重い。

 空腹と渇き、そして終わりのない自己嫌悪のせいで、時間の感覚はとうに消え失せている。 

 冷たい岩の床が、俺の体温を容赦なく奪い、心まで凍りつかせていくだけの時間が流れた。


 どれだけ待とうが、どれだけ耳を澄まそうが、鉄格子の向こうから俺を呼ぶ声が響く気配は微塵もない。


 馬車の中で燃え盛っていた世界への憎しみも、二人に対する悔しさも、時間が経つにつれてサラサラとした砂のようになっていく。


「くそ……!クソクソクソクソ……!」


 そう結論づける思考回路が暴走を始めると、奥歯がガタガタと音を立てて震えるほどの凄まじい惨めさが押し寄せてくる。掴みかかって理由を問い詰める気力すら、今の俺には、ない。


 手枷の冷たさがじわじわと皮膚を麻痺させ、手首の感覚を完全に奪っていく。

 感覚の消えた両手を見つめていると、まるで自分の存在そのものが、この世界の隅っこから少しずつ消去されているような、そんな得体の知れない錯覚さえ覚えて恐ろしい。


「嫌だ……!」


 お前なんか最初からいなかった。誰の記憶にも残っていない。そんな世界の悪意が、四方の壁からじわりじわりと染み出してくる。


 傷口の痛みは、時間の経過とともに鈍い重みへと変わっていく。

 乾いた泥が皮膚を引き裂くように突っ張るけれど、それすらも他人事のように思えるくらい、脳の機能が停止しかけている。


 胃袋が悲鳴を上げ、喉が焼けるように乾いても、それを満たすものは床に落ちる汚れた水滴しかない。指先を伸ばしてその滴を舐めとるだけの執着すら湧かない。生きるためのあらゆる欲求が、この冷たい監獄の空気の中に吸い込まれて霧散していく。


「ぁ……ぁ……」


 もう、自分が何に対して怒っているのか、何に対して絶望しているのかさえ分からなくなってきた気がする。


 ただ、暗闇が静かに、俺の生きる気力を根こそぎ吸い尽くしていく。

 思考が濁り、意識が遠のき、自分がファイという人間であることすら、どうでもいい。


 呼吸をすることさえ億劫になり、肺が小さく震えるのをただ他人事のように見つめるだけの、死人一歩手前の時間がどこまでも引き延ばされる。


 もう、いっそこのまま忘れ去られた方がマシかもしれない。

 そんな諦めが頭をよぎった瞬間、通路の奥から騒がしい足音が響き渡り、俺の牢屋の前でピタリと止まる。


「時間だ、出ろ」


 乱暴に鍵が抉じ開けられ、二人の衛兵が狭い牢内に流れ込んできた。


「薄汚いな。お前はそっちを持て」


 金髪の勇ましい風格の男が毒を吐くように喋る。


「仕方ありませんね」


 滑らかな紺色の髪を横に流した男が、面倒臭そうに答える。


 動かない俺の身体を、二人はまるで使い古した雑巾でも回収するかのように、力任せに掴み上げて牢屋の外へと引きずり出す。


「自力で歩け!引きずるのは骨が折れるんだよ!!」


 怒号とともに背中を強く小突かれ、よろめきながらも足を前に進める。


 いくつかの角を曲がり、緩やかな傾斜の階段を上っていく最中も、全身の傷口が悲鳴を上げ続けている。乾きかけた生傷が再び破れて、生温かいものが流れる感覚が気色悪い。


「ほら、すぐそこだ。前を向け」


 階段を上りきった先には、質素な木製の扉が立っていた。


 衛兵が扉を押し開くと、生ぬるい地下の空気から一転して、ひんやりとした香水のような匂いが鼻腔をくすぐる。

 窓から差し込む容赦のない光に、思わず目を細めた。


 どこか別の場所に出たのは分かる。だが、日の光を遮る高い天井と、足元に敷き詰められた目の粗い絨毯の感触から、ここがまだ完全な外ではないことだけが辛うじて伝わってくる。


 白を基調とした、どこまでも広がる長い回廊。


 等間隔に並ぶ巨大な柱と、そこにはめ込まれた美しい細工の窓からは、見たこともないほど洗練された街並みが遠くに見えた。


「おい、キョロキョロしてんじゃねぇ」


 金髪の男が俺の肩を強く掴み、前方へと押し出す。

 

 俺には、ここがどこなのか分からない。

 だが、それを教えてくれる親切な人間など、この場には一人も存在しなかった。


 すれ違う、きらびやかな衣装を纏った住人たちが、泥と血にまみれた俺を見て露骨に眉をひそめる。


「不浄な存在め。よくもこんな神聖な場所に……」


「見なさんな。汚らわしい」


 ひそひそと囁かれる侮蔑を含む声が、まるで壁に反響する足音のように聞こえる。聞こえる。聞こえ続ける。


 彼らにとって、俺という存在はただの汚物であり、同じ空間にいるだけで腹立たしい生き物だろう。


「お前みたいな底辺が、二度と来られないような綺麗な場所だ。ありがたく目に焼きつけておけよ。つっても、お前が明日まで生きてるとは限らないけどな!」


「口を慎んで下さい」


 紺色の髪の男が、感情の消えた薄い唇を動かして冷たく囁いた。


 進むにつれて、空間の圧迫感が増していく。

 やがて回廊の突き当たり、周りのそれとは一線を画すほど巨大な、装飾の施された両開きの扉の前にたどり着く。


「着いたぞ。神聖なる審判の場だ」


 金髪の男がそう告げた瞬間、俺の心臓がドクリと大きく跳ね上がった。


「大人しくしていろよ。お前のこれからは、全てあの扉の向こうで決まる」


 重厚な扉に衛兵たちの手がかけられ、厳かに、ゆっくりと開かれていく。

 その隙間から溢れ出してきたのは、数多の人間の憎悪に満ちた熱気と、押し殺したような地鳴りのようなざわめき。

 そして――


「罪人の入場である!」


 俺を呼ぶ、容赦のない怒号のような声が、開け放たれた空間からブワリと吹き抜けてきた――

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