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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
二章 永劫の理想郷
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理想郷の汚物


「大人しくしてろよ」


 頭上から降ってきたのは、事務的な排斥の宣告。

 背中に乗せられていた質量が消えたと思った直後、左右から太い腕が伸び、両脇を乱暴に抱え上げられる。


 引きずられる足先が、石畳の地面の上で無様に音を立てた。

 抵抗する力など、ない。ただ、遠ざかっていく人混みの隙間を、血走った目で必死に睨みつけ続けることしかできなかった。


 あいつらは、一度も振り返らなかった。

 その残酷な事実だけが、胸の奥底に鋭く突き刺さって抜けない。


「手枷を忘れないで下さい。暴れると面倒です」


 ガチリ、と重苦しい金属音が響き、手首が冷たい鉄の輪で固定される。


「とっとと移動するぞ。こいつがいるだけで街の景観が悪くなる」


「行きましょう」


 そのまま、引きずり回される。

 道をゆく上品な住人たちが、泥を撒き散らす俺を避けるようにして、一歩、また一歩と美しく統率された足取りで距離を取っていくのが見えた。


 誰も、俺を見ない。見ていない。


 そこにいるのは、ただの汚物を視界から排除するためだけに動く、機械の群れなのかもしれない。


 だから、もう――


「バカだな。俺」


 その声は、誰にも聞こえなかった――



 ――馬車だ。馬車が見えてきた。


 馬車に近づくと、乱暴な衛兵が告げる。


「入れ。お前のようなやつが行く場所は、もう決まっている」


 背中を強く押され、荷物を放り込むようにして中へと突き飛ばされる。


 直後、背後で重い扉の鍵が閉まる。

 窓一つない内部は、外の光を遮断している。

 ガタガタと不快な振動が始まり、馬車が動き出した。


 車輪が跳ねるたび、割れた爪や全身の傷に鋭い痛みが走り、脳の奥をめちゃくちゃにかき乱していく。


 ボロ布のような衣服の隙間から、石畳の冷たさとはまた違う、孤独の冷気がじわじわと這い上がってくる。


 傲慢。自分の話しかしない。


 衛兵の嘲笑混じりの言葉が、暗闇の中で何度も何度も繰り返す。


 違う。俺はただ、あの日歩んだ温もりを信じたかっただけだ。


 それすらも、この理想郷では排除されるべき大罪だと言うのか。


 ガタ、と大きく車体が跳ね、俺の身体が容赦なく床板に叩きつけられた。


 痛い。痛い痛い痛い痛い。

 割れた爪の隙間に詰まった砂利が肉を抉り、引きずられた膝の生傷が木の床に擦れて、じっとりと生温かいものが溢れ出す。


 けれど、そんな肉体の悲鳴なんて、今の俺にとってはただのノイズでしかない。


 目を閉じる。


 目に見える情報がすべて消え去ったせいで、脳味噌が勝手に、さっきまでの光景を何度も何度も、精巧な嫌がらせみたいに再生し始める。


 踏みにじられた手首。破壊された尊厳。

 上空から降ってきた、虫ケラを見るような住人たちのクスクスという嘲笑。


 そして――リシェラとゼクフィスの、冷え切った背中。


 思い出すたびに、心臓の奥がどろどろに溶けた鉛を流し込まれたみたいに熱く、狂いそうなほどに痛んだ。喉の奥からせり上がってくる身悶えするような悔しさと惨めさに、手枷で縛られた両手を必死に自分の胸元に押しつける。


 引きちぎってやりたかった。


 あいつらの服を掴んで、こっちを向かせて、なんでだと、どうしてだと、狂ったように叫んで胸ぐらをつかみ合いたかった。


 なのに、現実に俺がしたのは、地面に顔をこすりつけて、ただ泥を舐めることだけ。


「う、」


 声にならない嗚咽が、狭い木箱の中に虚しく響いては消える。


 自分がどれだけ喚こうが、この馬車は止まらない。あいつらには届かない。


 置いていかれた。捨てられた。


 要塞都市を出たあの日、確かにあったはずの繋がりが、指の隙間からサラサラと音を立ててこぼれ落ちていく。何も残らない。俺の手には、もう自分の血と、醜い執着しか残されていない。


 今の俺に、これからの俺に、誰が優しさなんてみせるだろうか。


 もう、全てを終わりにしたかった。


 そうか。いっそ、このまま死んでしまえばいい。


 心臓の音がうるさい。全身を巡る血が温かくて気持ち悪い。こんな惨めな肉体、もう一秒だって維持していたくなかった。


 手枷をつけられた両手を、自分の喉元へと持っていく。

 鉄の輪が喉仏を圧迫し、気道が狭まる。けれど、自分の腕の力だけで喉を完全に押し潰して窒息することなんて、構造的に不可能だった。 

 どれだけ力を込めても、手が滑って鈍い痛みが走るだけだ。


 じゃあ、息を止めよう。

 吸わなければいい。吐き出したきり、二度と肺を動かさなければ、それで終わりにできるはずだ。


 ――ひゅっ、と口から全ての空気を吐き出し、喉の奥を完全に閉じる。

 最初の十秒は、何も感じなかった。静寂が、ただ少しだけ深まったような気がした。


 二十秒。三十秒。

 じわじわと、胸の奥が熱くなっていく。肺が、酸素を求めて内側から小さく痙攣を始めた。


「……っ、…………」


 死ぬんだ。止めろ。動かすな。

 頭の中で必死に命令を出す。リシェラとゼクフィスの冷たい背中を思い浮かべ、自分を怒りで満たして、呼吸を完全に遮断しようと歯を食いしばる。


 だが、一分を過ぎた頃、世界が一変した。

 熱い。胸が、肺が、まるで内側から爆発しそうなほど猛烈に熱い。


 脳が恐怖でパニックを起こし、視界の暗闇が激しく明滅し始める。心臓がドカドカと肋骨を内側から殴りつけ、耳の奥で、警報のような耳鳴りがうるさく鳴り響いた。


 やめろ。吸うな。吸ったらまた、あのクソみたいな現実に戻るんだぞ。

 そう思っているのに、俺の意志とは全く関係なく、限界を迎えた肉体が勝手に生存のための暴走を始める。


「――っ、は、あ、あぁぁぁっ!!」


 喉のロックが強制的に弾け飛び、引き裂かれるような音を立てて空気を貪り吸った。


 喉が、気管が、急激に流れ込んできた酸素の冷たさに耐えかねて激しく拒絶反応を起こす。


「ごほっ、げほっ!ぉ、……が、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 激しく咳き込み、床板に何度も額をぶつけながら、よだれと涙をボタボタと撒き散らす。


 痛い。苦しい。酸素が全身に回る感覚が、狂いそうなほどに不快だった。


 死ねない。

 自分で自分の息の根を止めることすら、人間の身体は許してくれない。


 どれだけ心が、もう終わりたいと絶叫していても、肉体という名の醜い獣が、泥水を啜ってでも生きようと、浅ましく酸素を求めてフゴフゴと鼻を鳴らしている。


 なんて、みっともないんだろう。

 死ぬ覚悟すら本物になれない。俺は、自分の命を自分で終わらせる権利すら持っていない、ただの出来損ないだ。


「……は、はは……っ」


 暗闇の底で、ドロドロになった顔のまま、声にならない笑いが漏れた。


 狂いそうだ。いや、もうとっくに狂っているのかもしれない。


 ガタガタと、馬車は何事もなかったかのように走り続けている。


 生きろと、この世界は俺に強要する。

 この生々しい痛みと、消えない絶望を、一秒でも長く味あわせるために――



 見当もつかないくらい、時間が経った。

 ただじっと、冷たい木の床に額を押しつけ、自分の浅い呼吸の音だけを数えていた。


 不意に、馬車の速度が落ちる。

 完全に車体が停止すると同時に、外を支配していた喧騒が、嘘のようにピタリと止んだ。


 静寂。

 それも、ただの静けさじゃない。防壁に遮られた外の空気とは明らかに違う、肌にねっとりとまとわりつくような、重苦しい静けさだ。


 遠くで、ゴゴゴ……と巨大な石の扉が閉まるような地鳴りが響いた。

 

 何も見えていない。窓のない暗闇に閉じ込められたままだ。外の光景なんてこれっぽっちも分かりはしない。


 けれど、肌を刺す空気の密度と、反響する車輪の軋みだけで、嫌でも察してしまった。


 ――どこか、別の場所に入ったのだろう、と。


 それも、日の光すら届かない、深部へ。

 ガチャリ、と外側から鍵が外される重い音がして、馬車の扉が開かれた。


 だが、差し込んできたのは救いの光なんかじゃなかった。


 松明の、煤けた赤黒い炎の揺らめき。


「そいつを引きずり出せ」


「了解です」


 また、あの事務的な声だ。

 両脇を掴まれ、乱暴に床の上を滑らされる。ボロ布が擦れて、膝の生傷がまた新しく血を吐き出す。

 

 そのまま地面に放り出されたファイが触れたのは、綺麗な石畳ではなかった。


 湿って、冷え切って、カビと鉄の匂いが立ち込める、ただの岩の床。

 暗い影が、俺を見下ろすように立ち塞がっている。


 その視線には、怒りも、憐れみすらもない。


「さっさと歩け。貴様にはこれから、裁判を受けてもらう」


 裁判。

 その単語が耳に届いた瞬間、濁った瞳がかすかに拒絶の光を帯びて痙攣した。

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