空虚の果て
どこまでも広がる笑い声が、やがて呼吸を塞いで、ただの耳鳴りに化けていく。
視界の端で、淡い朝の光が石畳の地面を白く白く焼きつけていた。二人の影は、もうその光の粒の中に溶けて、輪郭すら残っていない。
なのに、身体だけがまだ、あの二人のいた方向を覚えている。
ずるりと重い塊を動かすようにして、膝を前に進めた。
手のひらが泥を噛み、割れた爪の隙間に容赦なく砂利が食い込んでくる。痛いのかどうかもわからない。ただ、ここで止まったら、本当に世界から押し出されて、永遠に迷子になることだけが、確信として脳の底にへばりついて離れなかった。
「ま、だ……!まだ、ちゃんと、話して……」
引きずり出した声は、血と唾液に塗れて地面に染み込むばかりだ。
一歩。もう一歩。
顔面を蹴られた衝撃で、世界がぐにゃりと二重にブレる。それでも、残った視界の全てをかき集めて、二人が消えた人混みの隙間を睨みつけた。
まだ、近くにいるはず。
あいつらが俺を忘れるはずがない。だって、あの要塞都市を一緒に旅立ったあの日、確かに笑い、話し、歩んだ。あの温もりまで、全部嘘だったなんて、そんなこと信じられるわけがない。
狂ったように頭を振り、血を撒き散らしながら、なおも這い進もうと指先を伸ばした、その時。
「――動かないで下さい」
理想郷の静謐を切り裂くような、硬い金属の音が響く。
地面を荒々しく踏み荒らす、統率された複数の足音。反射的に顔を跳ね上げると、眩しい朝光を背負って、白銀の鎧を纏った男たちがこちらへ殺到してくるのが見えた。
この美しき街の秩序を守る、衛兵たち。
「騒ぎを起こしているのは貴方ですか。理想郷に見合わない喚き声を出し、醜く醜態を晒す。……救いようがないですね」
「ちが、違う……!俺は、ただ、あいつらに会いに来て……」
必死に弁明しようと喉を鳴らすが、彼らの目にあるのは、やはり住人たちと同じ、害獣を検分するような冷たさだけだった。
「さっきの会話を聞いて貴方に同情する人なんていませんよ。いい加減にしたらどうですか?」
「俺の、俺の話を聞いてくれ!」
「俺の話……ですか。それだけですね。貴方は自分の話しかしない」
「は?」
喉から声が漏れる。
「そうでしょう?自分の言いたいことだけ言って他人の話は何も聞かない。随分と傲慢ですね」
紺色の髪を横に流した衛兵の男は、片目を瞑ると、こちらに軽蔑の目線を向ける。
「違う、あいつらが全部――」
「ほら、またですね」
「――ッ!!」
言葉が、言葉が出ない。
どうにか反論を、どうにか説明を、どうにか、どうにかしたい。この状況を。
でも――
話してたのとは別の衛兵が、腰の長剣の柄に手をかける。
「問答無用だ。不審者め、ただちにその場へ伏せろ!」
突きつけられる明確な敵意。
「やめて、くれ」
白銀の鎧たちが俺を包囲していく。
すれ違う上品な住人たち――いや、この街のお人形共は、遠巻きにこちらの様子を眺めながら、品定めをするようにひそひそと笑っていた。
その視線が、衛兵の言葉が、冷たい毒のように俺の身体に回っていく。
傲慢。自分の話しかしない。
違う。俺は、俺はただ、あの二人に、もう一度だけ――
「伏せろと言っているのが聞こえないのか!」
弁明の余地すら与えられないまま、無骨な鉄甲冑のブーツが、細い手首を容赦なく踏みにじった。
「や、め……っ」
「次動いたら殺すぞ!」
勇ましい風格の男が叫ぶ。
「……しかし、ひどい有り様ですね。理想郷でよくもまぁこれだけの騒ぎを起こせたものです」
割れた爪に容赦なく体重がかけられ、地面の冷たさが頬にべったりと張りつく。
逃がさないようにと、もう一人の衛兵が容赦なく俺の背中に膝を突き立て、全体重を乗せて押し潰してきた。肺の中の空気が強制的にすべて搾り出され、口からゴボリと赤黒い泡が溢れる。
「暴れるな、大人しくしろ!」
「離せ……ッ!俺が行かなきゃいけないんだッ!」
「まだ言っているのですか。往生際が悪い」
泥にまみれた顔を必死にのけぞらせ、二人が消えた人混みの向こうを見ようと目を血走らせる。
だが、視界を遮るように立ち塞がった衛兵は、哀れなゴミを見るような目でこちらを見下ろす。
「見苦しいですね。追ったところで、あの二人は貴方のことなど一瞥もしなかった。それが現実ですよ」
「う、るさ……い!!」
「黙りませんよ、これが事実なんですから。貴方がどれだけ叫ぼうが、あの二人にとって貴方は知らない変質者でしかない。いい加減、その頭の悪い妄想から覚めたらどうですか?」
「違う、違うんだ……!俺たちは一緒に旅を……あいつらは俺を知ってるんだ……っ!」
「はいはい、分かったから静かにしてください。誰も貴方の可哀想な戯言につき合う暇はないんですよ」
狂乱のままに腕を震わせ、拘束を振り払おうと無様にのたうち回る。
しかし、鍛え上げられた衛兵たちの力には少しも抗えない。ただ石畳に顔を擦りつけ、自ら傷口を広げて泥を舐めるだけの、無意味で醜悪なダンスだ。
「動くなと言ってんだろうが!」
苛立った衛兵の手によって、俺の髪が乱暴に掴み上げられる。
「痛っ……!やめろ、放せ……っ!」
「おい、この男の懐を探れ。何か盗んでるかもしれん。こんな薄汚い格好で理想郷をうろついているんだ、まともな訳がない」
「触る、な……ッ!」
「黙れ!大人しくしてろ!」
乱暴に身体を探られ、泥まみれの身体を衆目の前に晒される。
無理やり上を向かされた視界の先、遠くの街頭のガラスに、ぐしゃぐしゃになった自分の顔が映っていた。
鼻血と唾液、色々な汚液でドロドロに汚れ、髪には砂利がつき、衛兵の足元で虫のように這いつくばっている。
周囲からは、いよいよ隠そうともしない、明確なクスクスという嘲笑が漏れ聞こえてきた。
「何だよあれ」
「本当に、気持ち悪いわね」
「理想郷に紛れ込んでくるなんて、身の程を知らないのかしら」
上空から降ってくる声。
そのあまりの惨めさに、心臓がじりじりと焼けるように痛む。
あぁ、なんだこれ。
俺は、こんなところで何をしているんだ。
要塞都市を出たあの時、俺の隣には確かに二人がいて、俺は一人じゃないはずだったのに。
繋ぎ止めるべき世界の全てを失い、プライドも、名前も、存在すらも剥ぎ取られて、俺はただの理想郷を汚す異物として、冷たい地面に押しつけられ続けていた。




