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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
二章 永劫の理想郷
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空虚の果て

 どこまでも広がる笑い声が、やがて呼吸を塞いで、ただの耳鳴りに化けていく。


 視界の端で、淡い朝の光が石畳の地面を白く白く焼きつけていた。二人の影は、もうその光の粒の中に溶けて、輪郭すら残っていない。


 なのに、身体だけがまだ、あの二人のいた方向を覚えている。

 ずるりと重い塊を動かすようにして、膝を前に進めた。


 手のひらが泥を噛み、割れた爪の隙間に容赦なく砂利が食い込んでくる。痛いのかどうかもわからない。ただ、ここで止まったら、本当に世界から押し出されて、永遠に迷子になることだけが、確信として脳の底にへばりついて離れなかった。


「ま、だ……!まだ、ちゃんと、話して……」


 引きずり出した声は、血と唾液に塗れて地面に染み込むばかりだ。


 一歩。もう一歩。

 顔面を蹴られた衝撃で、世界がぐにゃりと二重にブレる。それでも、残った視界の全てをかき集めて、二人が消えた人混みの隙間を睨みつけた。


 まだ、近くにいるはず。

 あいつらが俺を忘れるはずがない。だって、あの要塞都市を一緒に旅立ったあの日、確かに笑い、話し、歩んだ。あの温もりまで、全部嘘だったなんて、そんなこと信じられるわけがない。


 狂ったように頭を振り、血を撒き散らしながら、なおも這い進もうと指先を伸ばした、その時。


「――動かないで下さい」


 理想郷の静謐を切り裂くような、硬い金属の音が響く。


 地面を荒々しく踏み荒らす、統率された複数の足音。反射的に顔を跳ね上げると、眩しい朝光を背負って、白銀の鎧を纏った男たちがこちらへ殺到してくるのが見えた。


 この美しき街の秩序を守る、衛兵たち。


「騒ぎを起こしているのは貴方ですか。理想郷に見合わない喚き声を出し、醜く醜態を晒す。……救いようがないですね」


「ちが、違う……!俺は、ただ、あいつらに会いに来て……」


 必死に弁明しようと喉を鳴らすが、彼らの目にあるのは、やはり住人たちと同じ、害獣を検分するような冷たさだけだった。


「さっきの会話を聞いて貴方に同情する人なんていませんよ。いい加減にしたらどうですか?」


「俺の、俺の話を聞いてくれ!」


「俺の話……ですか。それだけですね。貴方は自分の話しかしない」


「は?」


 喉から声が漏れる。


「そうでしょう?自分の言いたいことだけ言って他人の話は何も聞かない。随分と傲慢ですね」


 紺色の髪を横に流した衛兵の男は、片目を瞑ると、こちらに軽蔑の目線を向ける。


「違う、あいつらが全部――」


「ほら、またですね」


「――ッ!!」


 言葉が、言葉が出ない。

 どうにか反論を、どうにか説明を、どうにか、どうにかしたい。この状況を。

 でも――


 話してたのとは別の衛兵が、腰の長剣の柄に手をかける。


「問答無用だ。不審者め、ただちにその場へ伏せろ!」


 突きつけられる明確な敵意。


「やめて、くれ」


 白銀の鎧たちが俺を包囲していく。


 すれ違う上品な住人たち――いや、この街のお人形共は、遠巻きにこちらの様子を眺めながら、品定めをするようにひそひそと笑っていた。


 その視線が、衛兵の言葉が、冷たい毒のように俺の身体に回っていく。


 傲慢。自分の話しかしない。


 違う。俺は、俺はただ、あの二人に、もう一度だけ――


「伏せろと言っているのが聞こえないのか!」


 弁明の余地すら与えられないまま、無骨な鉄甲冑のブーツが、細い手首を容赦なく踏みにじった。


「や、め……っ」


「次動いたら殺すぞ!」


 勇ましい風格の男が叫ぶ。


「……しかし、ひどい有り様ですね。理想郷でよくもまぁこれだけの騒ぎを起こせたものです」


 割れた爪に容赦なく体重がかけられ、地面の冷たさが頬にべったりと張りつく。


 逃がさないようにと、もう一人の衛兵が容赦なく俺の背中に膝を突き立て、全体重を乗せて押し潰してきた。肺の中の空気が強制的にすべて搾り出され、口からゴボリと赤黒い泡が溢れる。


「暴れるな、大人しくしろ!」


「離せ……ッ!俺が行かなきゃいけないんだッ!」


「まだ言っているのですか。往生際が悪い」


 泥にまみれた顔を必死にのけぞらせ、二人が消えた人混みの向こうを見ようと目を血走らせる。


 だが、視界を遮るように立ち塞がった衛兵は、哀れなゴミを見るような目でこちらを見下ろす。


「見苦しいですね。追ったところで、あの二人は貴方のことなど一瞥もしなかった。それが現実ですよ」


「う、るさ……い!!」


「黙りませんよ、これが事実なんですから。貴方がどれだけ叫ぼうが、あの二人にとって貴方は知らない変質者でしかない。いい加減、その頭の悪い妄想から覚めたらどうですか?」


「違う、違うんだ……!俺たちは一緒に旅を……あいつらは俺を知ってるんだ……っ!」


「はいはい、分かったから静かにしてください。誰も貴方の可哀想な戯言につき合う暇はないんですよ」


 狂乱のままに腕を震わせ、拘束を振り払おうと無様にのたうち回る。


 しかし、鍛え上げられた衛兵たちの力には少しも抗えない。ただ石畳に顔を擦りつけ、自ら傷口を広げて泥を舐めるだけの、無意味で醜悪なダンスだ。


「動くなと言ってんだろうが!」


 苛立った衛兵の手によって、俺の髪が乱暴に掴み上げられる。


「痛っ……!やめろ、放せ……っ!」


「おい、この男の懐を探れ。何か盗んでるかもしれん。こんな薄汚い格好で理想郷をうろついているんだ、まともな訳がない」


「触る、な……ッ!」


「黙れ!大人しくしてろ!」


 乱暴に身体を探られ、泥まみれの身体を衆目の前に晒される。

 無理やり上を向かされた視界の先、遠くの街頭のガラスに、ぐしゃぐしゃになった自分の顔が映っていた。


 鼻血と唾液、色々な汚液でドロドロに汚れ、髪には砂利がつき、衛兵の足元で虫のように這いつくばっている。


 周囲からは、いよいよ隠そうともしない、明確なクスクスという嘲笑が漏れ聞こえてきた。


「何だよあれ」


「本当に、気持ち悪いわね」


「理想郷に紛れ込んでくるなんて、身の程を知らないのかしら」


 上空から降ってくる声。

 そのあまりの惨めさに、心臓がじりじりと焼けるように痛む。


 あぁ、なんだこれ。


 俺は、こんなところで何をしているんだ。


 要塞都市を出たあの時、俺の隣には確かに二人がいて、俺は一人じゃないはずだったのに。


 繋ぎ止めるべき世界の全てを失い、プライドも、名前も、存在すらも剥ぎ取られて、俺はただの理想郷を汚す異物として、冷たい地面に押しつけられ続けていた。

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