切望と絶望
鼓膜の奥で、何かがパキリとひび割れる音がした。
張り付いたままの俺の笑みが、不格好に引きつり、凍りついていく。
今、リシェラは何と言った?
「リシェラ、今はふざけてる場合じゃないんだ。一刻も早くここを出て――」
縋りつくように一歩踏み出し、伸ばした俺の手。
だが、リシェラはビクリと小さく身体を強張らせ、見たこともないような警戒の目を俺に向けた。
そして、俺の伸ばした手を、汚物に触れるかのように弾く。
「何?どうして私の名前を知ってるの?」
拒絶。
それは、怒りや憎しみといった感情すら乗っていない、道端の不審者を心底気味悪がるような、純粋な嫌悪だ。
「……ゼクフィス」
向けた視線の先、ゼクフィスは、困惑を浮かべた瞳で俺を見下ろしている。
俺と目が合っても眉一つ動かさない。ただ、警戒するように俺の前に立つと、低く警戒した声で、酷く事務的に言い放った。
「何だテメェ。そんなボロボロの成りで、一体何のようだ?」
ゼクフィスの言葉を聞き、思考が白く濁り、視界がぐにゃりと歪んでいく。
何を、言っている。
「ゼクフィス、まで……。ふざけてる場合じゃないんだ」
喉の奥から、乾いた声が漏れ出す。
――あぁ、そうか。そういうことか。
わけのわからない状況に、壊れかけた脳が、都合の良い答えを必死に叩き出してくる。
これは、怒っているんだ。
森であんなことになって、俺がこの手で、リシェラを刺したから。だから二人は俺を懲らしめるために、こんな質の悪い嫌がらせをしてるんだ。
「怒ってるんだろ?分かってる、全部俺が悪かった……。今すぐに全部許してもらおうだなんて思ってはない。不甲斐ない俺のせいで二人を巻き込んで、リシェラを傷つけて……。だから先ずは、謝らしてくれ。本当に、本当にごめん」
必死に言葉をまくし立て、一歩踏み出す。
だが、俺が近づくのと同時に、ゼクフィスはさらに不快そうに眉根を寄せ、リシェラを自分の背中へと隠した。その隙のない、あまりにも自然な外敵への警戒。
「何を……あなたは何の話をしてるの?」
背後から聞こえるリシェラの困惑する声。
違う。そんな演技、しなくていい。頼むからやめてくれ。
胸の奥が、雑巾を絞るように痛い。
「ゼクフィス……お前がいなかったらリシェラは助からなかった。ありがとう。だからさ、もうこんな嘘は止めてくれよ」
これだけ話せば、もう終わりにしてくれるはずだ。
リシェラが「もう怒ってないよ」って、いつもみたいに優しく笑ってくれるはずだ。
ゼクフィスが「テメェは手のかかる野郎だ。疾く、行くぞ」とため息混じりに微笑むはずだ。
しかし、返ってきたのは、絶望的な沈黙。
ゼクフィスはただ、頭のおかしい狂人を見るような、底冷えする瞳で俺をじっと見下ろしている。
そしてリシェラは、本気で奇怪な者を見るような目を、俺にまっすぐ向けていた。
「一体、さっきから何の話をしているの?」
心底わけがわからない、という顔。
リシェラの美しい唇から漏れ出たのは、演技でも、嫌がらせでも、怒りでもない。
ただの、純粋な疑問。
「もしふざけてやってるなら、こんなことは二度としない方がいいと思うわ。世の中どんな人がいるか分からないから」
リシェラが発するのは、目の前の愚かな男に対する純粋な心配だけだ。
「もういいだろ、疾く、失せろ」
ゼクフィスが俺を冷たく一瞥し、歩き出す。
「待て、待てよ!何が、何がそこまで気に入らなかったんだ?一番悪いのは俺だ、でも、だからといって、これはやりすぎだろ!」
伸ばした俺の手は、二人の衣服の端にさえ触れることができない。
二人は一度も振り返ることなく、華やかな人混みの中へと歩みを進めていく。
何が起きているのか、本当に、一ミリも理解できない。
必死に繋ぎ止めていた世界の全てが、音もなく足元から崩落していく。
「行かないでくれ!!」
地面を蹴り立て、無様に、醜く、二人の背中へと食らいつく。
こんなところで止まれない。ここで手を離せば、俺という人間の価値が消えてなくなる。
「リシェラ!ゼクフィス!頼むから、もうやめてくれ……っ!俺が傷つけばいいのか!?あの時刺した分、俺が切り刻まれれば満足なのか!?」
すれ違う住人たちが、狂人を見る目で俺を避け、ひそひそと嘲笑混じりの視線を投げつけてくる。
そんなものは知ったことか。プライドなんて、とっくにあの泥の中に捨ててきた。
懇願するように、這いつくばるような格好で、なおも二人の前に回り込もうと腕を伸ばす。
「どうして、そこまで拒絶するんだ?どうして、そんな演技をするんだ?」
お願いだ。頼むから、その冷たい目で俺を見ないでくれ。
だが、強引に前に立ち塞がった俺を見て、ゼクフィスの顔に明確な不快感が爆発する。
「いい加減にしやがれ」
ドゴォッ、と鈍い衝撃が俺の胸に叩き込まれる。
ゼクフィスの容赦のない蹴りが、俺の身体を撥ね飛ばす。
「ぶ、えっ……!」
冷たい地面の上を無様に転がり、唾液を撒き散らしながら、ゴミのように転がっていく。
息が詰まる。肺がひしゃげ、口から鉄の味が溢れ出す。
「……おい、これ以上付きまとうなら、次はその首をへし折るぞ」
ゼクフィスの声に宿る、本物の殺意。
そこには、かつて話した温もりなど一欠片も存在しない。あるのはただ、害獣を駆除しようとする暴力の気配だけ。
「行きましょう、ゼクフィス。関わったら危ないわ」
リシェラは、転がる俺の姿に目を向けることすらせず、歩き始める。
その無関心が、何よりも深く、鋭く、俺の心臓を抉り抜いていく。
「はは、なんだこれ」
嫌がらせ?お仕置き?
違う。そんな生易しいものじゃない。
あいつらは、本当に俺を知らない。
脳が理解を拒む。だが、目の前の現実は容赦なく俺の心をすり潰していく。
置いていかれる。この人混みの向こうに、俺の全てが消えていく。
「待っ、て……待ってくれよぉっ!!」
石畳に顔を擦り付け、四足歩行の獣のように這いつくばって二人の後ろ姿を追う。
割れた爪が地面を掻きむしり、指先からじわりと不快な血が滲む。脇腹の傷から溢れた赤が、理想郷の美しい路面に無様な一本の線を引いていく。
「ゼクフィス!リシェラぁ!頼む、頼むから置いてかないでくれぇ!!!!」
狂人の叫び。
すれ違う上品な住人たちが、露骨に顔を歪めて俺を避けていく。魔獣でも見るような視線。
だが、そんなものを気にする余裕なんて一平米もない。
必死に手を伸ばし、ゼクフィスの泥に汚れた靴の踵にしがみつく。
「あぁ?テメェ正気か?」
「だ、めだ……。俺には、お前たち……しか……」
狂ったように縋りつく俺の顔面を、ゼクフィスのもう片方の足が容赦なく踏みつけた。
ベキリ、と鼻の奥で嫌な音が響く。
何度も何度も踏みつけた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も踏みつけた。
視界が真っ赤に染まり、強烈な衝撃に頭が激しく揺れる。
それでも、俺は離さない。ここで手を離したら、俺の旅は、俺の存在は、無になってしまう。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ!!
「頼む……リシェラ、俺を見てくれよぉ……! お前が、初めて俺に……居場所をくれて、それで俺嬉しくて……誰も信じれなくて、何も分からなくて……だから!!」
鼻血と涙でぐしゃぐしゃになった顔を跳ね上げ、リシェラの背中に向けて、肺にある全ての空気を絞り出すように乞う。
その醜悪な姿は、理想郷の美しい朝光の中で、あまりにも異質で、あまりにも惨めだ。
しかし、リシェラはゆっくりと振り返ると、心底不気味なものを見る目で、俺を冷たく見下ろした。
「……知ら、ない。知らないわ。もう、やめてください。こんな嫌がらせ」
ひゅっ、と喉が鳴る。
リシェラはゼクフィスの腕を引き、俺の手を振り払うようにして歩行の速度を上げる。
引きちぎられるように、俺の指先からゼクフィスの靴が、その温もりが、完全にすり抜けていった。
「うそ、だ……」
指先が、虚しく空を掻く。
二人はもう、一度もこちらを見ない。着飾った人々の波の中へ、ただの通りすがりの変質者を置き去りにして、足早に消えていく。
何が起きたのか、何のためにここまで走ってきたのか、本当に、何一つとして分からない。
要塞都市を出て、俺にとっての唯一の安息地だった二人。
だが、その頭の中から、俺という存在の全てが、最初からなかったかのように綺麗に消し去られている。
「あ、あは……、あははははっ……!」
喉の奥から、言葉にならない引き攣った笑いが漏れ出す。笑いが、嗤いが、嗤いが、嗤いが――




