焦燥と承認の前進
ヴレイヴァの残した気配を振り切るように歩き続け、夜が明けかけてきた頃、俺はようやく村の入り口に辿り着いた。
目の前に見えてきたのは、木々の隙間に控えめに佇む、ひどく小ぢんまりとした集落だ。土と、焼きたてのパンの甘い匂いが混じり合って風に乗ってくる。そんな牧歌的な空気すら、今の俺にとっては肺を汚す毒ガスのように不快でしかない。
「おや、旅の人かい?そんなボロボロの格好をして、一体どうしたんだい」
不意に、穏やかな声が鼓膜を叩いた。
見れば、水桶を抱えた老婆が、こちらを怪しむ風でもなく、心底心配そうな目を向けて佇んでいる。その無垢な親切心が、今の俺にはたまらなく鬱陶しい。
「……別に。ちょっと問題があっただけだ」
俺は視線を合わせることもせず、吐き捨てるように短く応じる。
「そうかい、大変だったね。何があったかは聞かないが、せっかくこの村に来たんだ。まずは少し休んでいくといいよ。今ちょうど、温かいスープができたところだからね。お腹も空いているだろう?私の家で食べなさいな」
老婆は穏やかに顔を綻ばせ、親身になって近くの家を指し示す。その温もりが、自分の内側にある醜い焦燥をさらにあぶり出すようで、胸の奥の澱がぐつぐつと泡を立てた。
今の俺には、スープだの休憩だの、そんな生ぬるいものに構ってる暇はない。
リシェラたちがどうなっているかも分からないのに、なぜこんな見ず知らずの他人に足を止められなきゃならない。親切を受け取る余裕なんて、俺の心には一滴も残っていない。
「そんなのは要らない。それより、馬車はあるか?」
「え?あぁ、あるにはある――」
「あるならそれを貸してくれ。今すぐ必要なんだ。どこにある?」
老婆の言葉を強引に遮り、俺は自分の要求だけを一方的に叩きつける。縋るような、それでいて脅すような、余裕の欠片もない声が口から飛び出す。
「いや、でもねぇ、そんないきなり馬車だなんて……」
急変した俺の態度に、老婆は困惑したように眉をひそめる。
その躊躇の数秒すら、拷問に等しかった。手段を選んでいる場合じゃない。何が何でも、今ここで足を手に入れなければ、本当に手遅れになる。
「どこにあるんだッ!」
声を少し張り上げると、老婆は短い悲鳴を上げて一歩後退る。
水桶を持つその手が恐怖にガタガタと震え、中の水が容赦なく地面の泥を濡らす。その怯えた視線すら、今の苛立ちを加速させる燃料でしかなかった。
「……あ、あっちの、共同の納屋の裏に……」
怯えきった指先が、村の奥にある大きな建物を指し示す。
用が済めば、もうこの老婆に視線をくれてやる価値すらない。
「くそッ……」
あからさまな舌打ちを一つ残し、泥を踏みしめ納屋へと歩を進める。
朝の静けさを破る怒号に気づいたのだろう、家々の窓や扉から、一人、また一人と村人たちが不審げに顔を覗かせ始めた。ボロボロの体で血相を変えて歩く姿は、平穏な彼らの目には不吉な侵入者にしか見えないはずだ。
「おい、あんた。一体何騒ぎだ?」
「旅人かい?そんな怪我をして――」
行く手を阻むように声をかけてくる村人たちを、まともに相手にする気など毛頭ない。
「どいてくれ。急いでるんだ」
肩がぶつかるのも構わず、怪訝な顔をする男の脇を乱暴に押し退けて進む。背後で「なんなんだあいつは」「無礼な奴め」と不快げな囁き声が広がるが、そんな雑音はどうでもいい。
「二人とも、今行く……待ってろ……」
頭の中を支配しているのは、ただその一念だけだ。
村人たちの冷ややかな、あるいは怯えた視線を浴びながら、俺の視線の先には、納屋の裏――そこに佇む、三台の頑丈そうな馬車と、繋がれた馬の姿がはっきりと見えた。
「――こいつは駄目だな」
納屋に入るや否や、俺は馬車に繋がれた馬の品定めに入る。
「――こいつも違う」
正直、馬の良し悪しなど大して分かる訳もない。だが、一つだけ確実に言えることがある。
「大人しそうなやつじゃ、速度が出ない」
並ぶ三頭のうち、小柄で従順そうな二頭からは視線を外す。求めるものは、村人の静止を振り切り、どこまでも爆走できる強靭な足。
俺の視界の正面、不機嫌そうに前ひづめで床を鳴らす、一際体格の大きな黒毛の馬へと歩み寄る。
「お前だ。俺に付き合ってもらう」
獰猛な光を宿すその瞳に、己の焦燥をぶつけるように手綱を掴み取った。
手綱を引かれ、手持ち無沙汰に鼻を鳴らす一頭の馬。その背へ、馬車と馬を繋ぐ馬具を外した後に、身体を無理やり押し上げるようにして飛び乗る。
鞍に跨がると同時に、脳裏に浮かぶのは、昨日頭へ叩き込んだ、ユカラディピアの大まかな地図。
「一番近いのは……第一区画だな」
ユカラディピアの構造が、頭のなかで急速に線を結んでいく。もしもリシェラたちがユカラディピアにいるとするならば、可能性が最も高いのは、あの『幻憶の森』が近くにある、二つの街のどちらか、第三区画にはいなかったので、恐らくは第一区画のはず。
「おい、待て!何をする気だ!」
納屋の陰から血相を変えた男たちが飛び出してくるが、そんな制止に耳を貸す段階はとうに過ぎている。
「悪いな、借りるッ!」
有無を言わさぬ怒号と共に、手綱を思い切り引っぱたく。
ひづめが激しく土を撥ね、馬の狂ったような嘶きが朝の集落に響き渡る。
背後から容赦なく浴びせられる罵声や怒号。それらすべてを置き去りにしながら、泥まみれの馬が走り出す。
視界の先で赤く燃え上がる朝焼け。その光に導かれるようにして、ただ一秒でも早く二人の元へ辿り着くべく、俺は平原を馬で爆走し始めた。
「……くそ、この馬、思った以上に言うことを聞かないな……!」
選び取った黒馬の気性は、想像を遥かに超えて荒い。荒い息を吐き散らし、ファイの指示を拒絶するように首を激しく振って暴れる。
激しく上下する背の衝撃が、切り裂かれた脇腹の傷を容赦なく抉る。ぶちぶちと皮膚の裂ける嫌な感触と共に、上着が赤く染まっていく。
サドルから身体が何度も浮き上がり、視界がぐらりと歪む。
「大人しく走れッ!お前に構ってる暇はないんだよ!」
血の滲む手で手綱を力任せに引き絞る。落馬すればその瞬間にすべてが終了する。リシェラたちの元へ行くためなら、この程度の暴れ馬、俺の実力だけでねじ伏せてみせる。
――数十分、いや、数時間かも知れない。
俺の執念に、ようやく黒馬が諦めたように直線へと速度を上げ、行く手の朝靄が急速に晴れていく。
地平線を遮るようにして、ようやく目指すユカラディピア第一区画の巨大な鉄門が、その圧倒的な威容を現し始めた――
――数日前、ユカラディピア第一区画
天を衝くほどに聳え立つ、重厚な鉄門。
傷だらけのゼクフィスに支えられ、命からがら『幻憶の森』を抜けたリシェラは、第一区画を治める偉い人のお屋敷の一室に収容されていた。
白い石壁の静かな部屋で、リシェラはベッドの端に腰掛け、自分の手を見つめている。
「私、何も出来なかった……」
ぽつりと呟いた言葉に、隣の椅子で剣の手入れをしていたゼクフィスが動きを止める。
「ファイのことか?テメェが悔やむ必要はねぇよ。責任があんのは、テメェを刺して乱心したファイの野郎だ」
「……!」
リシェラは自分の肩をきつく抱きしめ、ガタガタと震え始める。
「思い出すと、どうしても怖いの。私に向けられた刃も、あの時のファイの冷たい目も……。もしまた会えたとして、私、怯えずに顔を見られるか分からない。本当はすぐにでも戻って仲直りしたいのに、どうすればいいか全然分からないの……」
「……」
かける言葉を失い、ただ沈黙するゼクフィス。そんな空気に耐えかねたように、リシェラはたまらずベッドから立ち上がった。
「……ごめんなさい、ちょっと頭冷やしてくる」
ゼクフィスの声が届く前に、リシェラは、走るようにして外へ出た。
宿舎を出て、第一区画の厳かな街並みへと足を踏み出す。理想郷を自称していただけあって、足元に広がるのは汚れ一つない白く美しい地面。行き交う人々も身なりの良い者ばかりで、活気があるはずなのに、どこか不気味さが漂っている。
リシェラは俯き、一歩一歩を引きずるように白く美しい石畳を歩いていく。
「ちゃんと話し合って、それから仲直りしたいのに……」
奥歯を噛み締める。しかし、どれだけ歩を進めても、あの瞬間のファイの冷たい瞳が脳裏に張り付いて離れない。もしまたあの目のファイが現れたら、自分は怯えずにいられるだろうか。歩けば歩くほど、足がすくんでいくような錯覚に陥る。
彷徨うように一人で歩き続けた視界の先、街の中心に鎮座する、圧倒的な存在感を放つ大教会が飛び込んできた。
リシェラは導かれるように、その厳重な門を潜り、外の喧騒を遮断した静謐な礼拝堂へと足を踏み入れる。
「――おやおやん。迷える子羊が来たようだねん」
高い天井に声を響かせながら、奥の祭壇から歩み寄ってきたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された法衣を纏う男だった。
他者を見下ろすような傲慢な笑みを浮かべた、短金髪の男。その口調は、おおよそ神官とは思えない。語尾が跳ねている。ふざけているようにしか見えなかった。
「……教会の神官様?」
リシェラが気圧されながらも問いかけると、
男は長い指先で胸元の聖印をなぞりながら、尊大に笑みを深める。
「私は神官ではなく、このユカラディピアの司教だよん。安心しなさい、哀れな者よ。この教会に足を踏み入れた者は皆、この理想郷により救われるのですん!」
「私の問題が、あなたに分かるの?」
不安げな問いかけに、司教は大袈裟に両手を広げてみせる。
「いや、流石に読心は出来ないよん……。だが、話しさえ聞けば、私が、いや、この理想郷が、必ず君を救うだろう。まぁ適性がなければ無理だがん……」
「何か言った?」
リシェラの問いかけに、司教は大袈裟に首を振り、次の言葉をリシェラに促す。
「さぁ、迷える子羊に救いをあげよう。君の苦悩を聞かせてくれたまえん」
リシェラが言葉を紡ぐ。
これが、ファイとの絆を決定的に引き裂く、破滅への引き金になるとも知らずに。




