愚者
この街――第三区画の住人たち。そして、外から流れ着いたであろうボロボロの人間たち。
それらがまるで不要になったゴミのように重なり合い、どす黒い腐臭を放っている。
全員が、物言わぬ骸と化していた。
「ご覧になってしまいましたね、ファイ様」
背後から、息一つ乱さない淡々とした声が鼓膜を叩く。
振り返ると、鉄扉の前にメラリカが立っていた。その顔は、やはり何の感情も読み取れない完璧な無表情。
メラリカは眉一つ動かさず、その濁りのない純粋な瞳で、俺の後ろに広がる地獄の穴を見下ろしている。
「これ、は……何なんだよ。答えてくれ、メラリカ……。こいつらは何で、死んでんだ……?」
「ユカラディピアに、相応しくなかった者たちです」
「相応しくない……?人間がこんなに死んでるんだぞ!なんでお前はそんなに平気な顔をしてられるんだ!」
「理由ですか?簡単なことです」
メラリカは静かに歩みを進め、俺との距離を詰めてくる。
「彼らはこの街の平穏を乱した異分子。あるいは、外から来てこの理想郷を汚そうとした浮浪者。……そして、街の調和を保つための適性がなかった者たちです。この世界に不要なものは、このように速やかに処理される決まりになっておりますので」
「処理?調和?お前は命をなんだと思ってるんだ?」
「ファイ様は人を殺めたことが無いのですか?」
「……!」
言葉に詰まる俺に、メラリカは詰め寄る。
「それに、これはただの選別です。ですから、ウガダ様は仰ったのです。穏やかに過ごしなさい、と」
「ウガダが……?あいつ、最初からこれを知ってて……!」
じわじわと足元から這い上がってくるような寒気に、心を奪われる。
その時、ドクン、と胸の奥が不自然に跳ね上がった。急激に視界がぐにゃりと歪み、脳の芯がジリジリと焼け付くような妙な熱さに襲われる。
「何だこれ、急に頭が……っ」
「おや、少し顔色が優れませんね。やはり、まだお身体が万全ではないのです」
メラリカはそっと手を伸ばし、俺の肩を支えようとする。
「やめろ……」
「ファイ様、拒絶されては困ります。さあ、お屋敷へ戻り、ふかふかのベッドでお休みになりましょう。明日になれば、この不快な記憶も、きっと忘れられますよ」
「忘れる?どういう意味だ」
「言葉通りの意味です。この街の誰もが、そうして幸福な明日を迎えています」
感情の抜け落ちたような声が、ゾッとするほど冷たく響く。
頭の痛みは激しくなる一方だ。激しい疲労感が一気に押し寄せ、思考が霧に包まれたように鈍くなっていく。病み上がりの身体が限界を迎えたのか、それとも別の理由があるのか、今の俺には判断がつかない。
だが、本能が狂ったように警報を鳴らしていた。
明日になれば忘れる?冗談じゃない。そんな都合よく記憶を消されて、あの死体たちと同じように、自分の意思を失った人形にされてたまるか。
「……分かった。戻る、戻るから、手を離せ」
「賢明なご判断です、ファイ様。では、お屋敷へ」
俺はメラリカに背を向け、フラつく足取りで歩き出す。
ここで暴れても、この重い身体では組み伏せられて終わりだ。そうなれば、今すぐあの穴へ放り込まれる。
逃げるなら、監視が薄れる瞬間――誰もが眠りにつく、夜だ。
――ウガダの屋敷に戻った俺は、体調不良を理由に用意されたスープも夕食もすべて断り、すぐに自室のベッドへと潜り込んだ。
心臓の音がうるさいほどに耳の奥で脈打つ。
安全圏など、どこにもない。今日一日で確信を得た。
ここは、あの地獄の森とは違う種類の――平和で殺される、狂気の死地だ。
ここに居たら、今夜のうちに俺は俺でなくなるかもしれない。リシェラたちを探すどころか、自分が誰かも分からなくなって、あの穴のてっぺんに積み上げられる。
窓の外を見上げると、街はすっかり闇に包まれ、静寂が支配していた。
深夜二時。
俺は音を立てないよう静かにベッドから抜け出し、身支度を整える。
「リシェラ、ゼクフィス……待ってろ」
二人に追いつき、もう一度巡り合うためには、死んでもこんな場所で人形になるわけにはいかない。
俺は覚悟を決め、静まり返った屋敷の窓枠を乗り越え、漆黒の闇の中へと音もなく飛び降りた。
着地した衝撃が、身体にズシンと響く。
俺は身を低くして屋敷の影に潜んだ。
見上げる窓には人影も灯りも無い。
生い茂る低木に身を隠しながら、屋敷を出て、街を歩き、第三区画を囲む巨大な正門へと向かって這うように進む。
昼間に歩いた時は白く美しいだけだった石畳が、今は月光を浴びて牙のように尖って見えた。
――待ってろ、リシェラ、ゼクフィス。
胸の中で二人の名を強く反芻する。その異常な執念だけが、病み上がりの四肢を無理やり駆動させる燃料だった。
視界の端に、鉄製の重厚な正門が映る。
その前には、二人の衛兵が立っていた。
恐らく、ここから出ようとする者を確保するためだろう。
衛兵たちは、夜の静寂と同化するように、一言も交わさず微動だにしない。
正門以外に出口はないので、正面突破しか選択肢は無い。
だが、俺の腰にナイフは無かった。
「丸腰で、完全武装の衛兵二人を突破するのか」
まともにいけば犬死にだ。しかし、ここで足を止めればいつ死ぬか分かったものじゃない。
息を整え、一歩、影から足を踏み出した。その微かな衣擦れの音を、やつらは見逃さなかった。
「誰だ!」
鋭い制止の声。同時に、二本の長槍が鋭い切っ先をこちらに向けて突き出される。
「ちょっと通りたいだけなんだ。だから、ここを通してくれないか?」
俺は冷く笑いながら、一気に距離を詰めた。武器が無いなら、肉薄して相手の長物の間合いを潰すしか生き残る道は無い。
左側の衛兵が突き出してきた槍の穂先を、上半身を紙一重で捻ってかわす。頬をかすめる風が冷たい。そのまま踏み込み、がら空きになったやつの懐へと飛び込んだ。
「何っ!?」
「くらえッ……!」
渾身の力で右拳を突き出す。狙いは顎だ。病み上がりの重い身体から絞り出せる限りの体重を乗せた一撃が、衛兵の顎に綺麗な角度で炸裂した。
ガツン、と拳に硬い衝撃が返る。脳を揺らされた衛兵の白目が剥かれ、その巨体が後ろへと崩れ落ちた。
「貴様ぁ!!」
間髪入れず、右側の衛兵が槍を横になぎ払ってくる。
咄嗟に両腕を交差させてガードしたが、鉄の塊のような一撃の重さに、俺の身体は石畳の上を数メートルも横滑りさせられた。腕の骨がきしむ。
「くそっ、邪魔すんなよ……!」
倒れた男から武器を奪う暇など無い。残った一人が、すでに次の刺突の体勢に入っている。
月の光を反射する鋭い刃が、俺の胸元をめがけて真っ直ぐに突き出された。
「死ね、異分子がッ!」
「……!」
俺は身体を強引に横へ開き、死に物狂いで槍の穂先を避ける。上着の脇が裂け、鋭い鉄の冷たさが肌をかすめた。そのまま槍の柄を左手で鷲掴みにし、懐へ引き込みながら右の拳を握りしめる。
「なっ、丸腰の分際で……!」
「どら……ッ!」
衛兵の鼻面に、俺は残った全力を乗せて拳を叩き込んだ。ボキリと鈍い音が響き、鮮血が飛び散る。
「クソガキがぁ!」
鼻をへし折られてもなお、衛兵は槍を離さず、血まみれの顔で俺の首を絞めにかかってきた。太い腕が喉元に食い込み、呼吸が完全に止まる。
「……!」
「ここで処理してやるよ!」
締め上げられる喉の奥が熱い。頭痛が火花を散らし、視界が急速に狭まっていく。
――リシェラ、ゼクフィス。
ここで、こんなやつらに首を折られてたまるか。
俺は残った力を足に込め、衛兵の股間へと容赦なく膝蹴りを突き上げた。
「き、さ、まぁ……っ!」
「くたばれぇ!」
力が抜けて前屈みになった衛兵の顔へ、横から抉るようなパンチを叩き込む。綺麗に脳を揺らされた衛兵は、白目を剥いてその場にドサリと崩れ落ちた。
「クソ、死ぬかと思った……っ」
膝を突き、激しく咳き込みながら酸素を肺に流し込む。
何とか二人とも気絶させた。だが、俺の手に、この巨大な門を開けるための鍵はない。よじ登ろうにも、病み上がりの腕にはもう、そんな筋力は残っていなかった。
「ここまで来て、手詰まりかよ……ふざけんな!」
絶望に突き動かされ、びくともしない鉄の門を拳で叩く。背後からいつ追手が来るか分からない恐怖に、心臓がうるさいほど脈打った。
「――お困りかな?」
不意に、頭上から場にそぐわないクールな声が降ってきた。
「ッ!誰だ!」
弾かれたように顔を上げ、門の上を見上げる。
そこには、いつからそこにいたのか、夜の闇に溶け込むような黒いマントに黒赤色の服を纏った、いかにも怪しい男が腰掛けていた。月光に照らされたその黒髪が、男の片目を完全に隠している。
そんないかにも怪しい男は、俺の驚く姿を見るや否や、嬉しそうに立ち上がり、口を開く。
「我が導いてやろう。愚者よ」




