残酷なまでの優しさ
「いや、違くて……。ここは本当に安全な場所なのか?森の魔獣は大丈夫なのか?」
俺の恐怖を孕んだ問いかけに、メラリカは困った様子も見せず、ただ機械のように完璧な表情で告げる。
「ご安心ください。この『都市国家ユカラディピア』は、ユカラディピアの大部分を囲う大壁と、結界によって完全に隔絶された安全圏。外の世界の脅威など、ここには一切届きません。ですから――」
ふわり、と紺色の髪を揺らし、メラリカがさらにベッドへと距離を詰めてくる。
「外での悲しい出来事など、もう綺麗さっぱり忘れてしまってはいかがですか?」
「――っ、ふざけるなッ!!」
怒号が、だだっ広い大部屋の空気をピシャリと引き裂く。
自分でも驚くほどの激痛が胸の奥から跳ね上がり、俺は思わずベッドのシーツを強く掴みしめる。
忘れる?
あの地獄を、何もかも無かったことにしろと言うのか。
脳裏を過る、あの地獄のような森の光景。
肌を突き刺す凍えるような霧。容赦なく肉を裂く魔獣の爪。飛び散る赤。耳の奥にこびりついて離れない、骨の砕ける不快な音。
そして――自分の手の平に残る、リシェラの温かい血の、あの灼熱。
全て俺が無力なせいなのだ。それを、こんな生ぬるいふかふかのベッドの上で、無責任に忘れてたまるか。
肩を荒く上下させ、鋭い視線でメラリカを睨みつける。
だが――
向けられた怒りの刃を正面から受け止めながらも、メラリカの表情には一滴の動揺すら浮かばない。ただ、澄み切った瞳で、じっとこちらを見つめている。
「……あ」
ハッと我に返ると急速に脳が冷えた。
何を熱くなっているんだ、俺は。
この少女は、ただ案内された通りに俺を気遣ってくれているだけ。この街の人間にとっては、外の地獄を忘れて平穏に生きることこそが救いなのかもしれない。
それを、新参者の俺が理不尽にぶつけるなど、お門違いも甚だしい。
「……悪い。取り乱した」
短く息を吐き出し、俺は顔を伏せる。
怒りの後に押し寄せるのは、ただただ、己の無力さに対する情けない泥のような自己嫌悪。
「いいえ。お気になさらないでください、ファイ様」
メラリカの声は、どこまでも透き通っていて、やはり少しの濁りもない。
だが、その徹底された優しさが、今の俺にはどうしようもなく不気味で、冷たい。
「ファイ様、お疲れのようですね。温かいスープでもお持ちしましょうか?」
「いや……いらない。今は食欲がないんだ」
声をかけるメラリカから逃げるように、俺は視線を逸らす。
しかし、彼女は流れるような所作で一歩近づき、ベッドの脇にそっと膝を突く。俺の顔を覗き込んでくるその距離、僅か。
「お食事を拒まれては、ウガダ様への申し開きが立ちません。それに……」
「それに?」
「この街の食べ物は、とても美味しいのですよ? 凍えた心も、一口含めばたちまちに溶けてしまうほどに」
小首を傾げ、歌うように告げるメラリカ。
その言葉の端々に宿る、圧倒的なまでの善意。それが逆に、俺の神経を逆撫でする。
「……なぁ、お前は本当にそう思ってるのか?」
「はい? そう思う、とは?」
「辛い気持ちも全て、スープ一杯で忘れて笑えると思ってるのか?」
思わず口を突いて出た言葉。
それは、メラリカの善意を無下にする言葉だ。分かってる。分かってる。
だが、俺の言葉を聞いたメラリカは、ただ困ったように眉を八の字に下げるだけ。その顔に宿るのは、憐れみ、そしてやはり——濁りのない純粋な優しさ。
「全てを忘れる、というのは無理だと思います。でも、ファイ様は生きている。なら先ずは、少しでも心を落ち着けましょう。取り乱している間は、何も成功はしません」
「……っ」
迷いのない、完璧な正論。
拒絶するように布団を強く引き上げる俺の耳元に、メラリカの冷たくて心地いい声が、なおも優しく滑り込んでくる。
「どうしてもお一人になりたいのでしたら……私は扉の前で控えております。何かありましたら、いつでもお呼びくださいね」
静かに立ち上がり、見本のような綺麗な所作で一礼するメラリカ。
「……勝手にしてくれ」
「はい。では、失礼いたします」
音もなく、メラリカの気配が遠ざかっていく。
パタン、と重厚な扉が閉まる音。
だだっ広い大部屋に、再び訪れる圧倒的な静寂。
生き延びてしまった。二人に捨てられて。何も知らない、こんな温かい場所で。
枕に顔を埋めた俺の視界を、じわりと熱い涙が滲ませていく——
数十分ほどだろうか、天井の彫刻をじっと見つめる俺の脳裏で、メラリカの言葉が、そして己の不甲斐なさが、何度も何度も渦を巻く。
「取り乱している間は、何も成功はしません」というメラリカの言葉が俺の心をズキズキと抉る。
「……分かってる。分かってるんだよ。そんなこと、分かってるんだ」
声に出すと、情けなさが喉の奥に苦く残る。
泣いて、塞ぎ込んで、ベッドの中で現実から逃げ回る。そんなことをして、一体何が変わるというのか。
リシェラを痛めつけ、二人に捨てられた。
あの凄惨な失敗も、失ったものも、この生ぬるい絶望の底で蹲っているだけでは、何一つとして取り戻せない。
動くしかないのだ。その後の行動でしか、俺は俺を証明できない。
ぎり、と奥歯を噛み締め、俺は布団を跳ね除ける。
まだ重い身体に鞭を打ち、ベッドの端に足を下ろす。床に触れた足の裏から、冷たい石の感触が脳へと直撃し、思考が一気にクリアに冴え渡っていく。
まずは、この見知らぬ理想郷を知る。話はそれからだ。
「……メラリカ」
だだっ広い大部屋の、頑丈な扉に向かって声をかける。
すると、まるで最初からそこにいることが決まっていたかのように、音もなく扉が開き、紺色の長髪が滑り込んでくる。
「はい、ファイ様。お呼びですか」
完璧な一礼。その顔には、先ほど俺に怒鳴られたことなど微塵も気にしていないような、無表情。
「……さっきは悪かった」
「いいえ。気になさらないでください」
「それと、さ。……お腹が空いたんだ」
俺の言葉に、メラリカは一瞬だけ、ハッとしたようにその綺麗な目を丸くする。
「スープでも、何でもいい。さっきお前が言った、美味い昼飯ってやつを、今からでも用意できるか?」
「もちろんでございます。すぐに特製のランチをご用意いたしますね」
少し弾む声。彼女の無表情に、喜びのような明るい光が灯ったような気がした。
その反応に少しだけ毒気を抜かれつつ、俺は立ち上がり、メラリカを真っ直ぐに見据える。
「それから、もう一つ頼みがある」
「何なりと、お申し付けください」
「飯を食べ終わったら、この街を案内してくれ。ユカラディピアがどんな場所なのか、自分の目で確かめたいんだ」
その要求を聞いた瞬間、メラリカが一瞬、微笑みを浮かべたような気がしたのは気のせいだろうか?
「かしこまりました。この美しき理想郷を、余すことなくご案内いたします」
見本のような美しい所作で、メラリカは再び深く一礼する。
失ったものは、行動で取り戻す。それが、今の俺に出来る唯一のことだ。
数分もしないうちに、銀のトレイを美しい姿勢で持ったメラリカが部屋へと戻ってくる。
運ばれてきたのは、湯気を立てる琥珀色のスープと、ふっくらと焼き上げられた白いパン、そして色鮮やかな果物たち。
「お待たせいたしました、ファイ様。特製ランチでございます。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
「ありがとう」
促されるまま、俺はスプーンを手に取る。
漂う芳醇な香りが、忘れていたはずの飢餓感を容赦なく刺激する。一口、スープを口に含む。
「……っ」
「いかがですか?」
傍らに控えるメラリカが、じっと俺の手元を見つめながら覗き込んできた。
「……めちゃくちゃ美味いな。悔しいくらいに」
「それは良かったです。この街の食材は全て最高の状態に保たれておりますから。たくさん召し上がって、まずは体力を蓄えてくださいね」
「なんだか、身体が軽くなっていく気がするな」
「お気づきになりましたか。そちらのスープには、身体の回復を促す特別な処方が施されているのです」
無駄な会話は挟まず、かといって急かすでもなく、俺が完食するのを静かに待ち続けるメラリカ。
最後の一口を飲み干し、俺は深く息を吐き出す。
本当に不思議なほど身体が軽い。泥水を啜り、死にかけていたあの地獄が、まるで遠い幻だったかのようだ。
「ごちそうさま。……美味かった。これで動けそうだ」
「お粗末様でございます」
「じゃあ、さっきの約束……街の案内、頼めるか?」
トレイを片付けたメラリカが、我が意を得たりとばかりにスッと背筋を伸ばす。
「もちろんでございます。ファイ様、こちらへどうぞ。外の世界とは違う、私たちの理想郷をお見せいたします」
仕立ての良いクラシカルなメイド服を翻し、メラリカが重厚な扉を開け放った。
一歩、部屋の外へ。
長く、どこまでも白い石造りの廊下を進む。
すれ違う人々は皆、ウガダと同じように上質な衣服を纏い、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「メラリカ」
「はい、何でしょうか?」
「すれ違うやつら、誰も俺のこと気に留めないんだな。怪しい余所者なんだぞ、俺は」
「ここは理想郷ですから。怪我をされた方を不審に思う人間など、ここには一人もおりませんよ」
メラリカは事もなげに言う。だが、その徹底された平穏と警戒心の無さが、どこか胸に引っ掛かる。
やがて、巨大な大理石の扉を出て、俺たちはついに理想郷の街へと足を踏み出す。
「――綺麗、だな」
思わず、言葉が漏れる。
外に広がるのは、要塞都市とはまた違う、計算されたような美しさを持つ家々や噴水だ。
俺の言葉を聞くと、メラリカはこちらに振り返り、待っていたかのように言葉を紡ぐ。
「ようこそ、都市国家……いえ、『永劫の理想郷ユカラディピア』へ」




