都市国家ユカラディピア
――ガツン、と激突した衝撃の余韻が、薄れゆく意識の輪郭を辛うじて繋ぎ止めている。
どれほどの間、大壁の根元で倒れ伏していたのだろうか。
凍えるような霧が頬を撫で、傷口から流れる血が泥と混じり合って熱を奪っていく。
ここで倒れれば、今度こそ本当に終わりだ。
「……行かなきゃ、前へ」
折れかけた心を、ただリシェラを奪われた悔恨と生き延びる執念だけで燃え立たせる。
俺は、石壁に血に濡れた右手を突き、ずるりと身体を押し上げた。
太ももを裂いた傷が激痛を訴え、膝がケラケラと笑う。それでも、己の身体を強引に引きずるようにして、そびえ立つ大壁に沿って、一歩また一歩と這い進む。
視界は涙と血にまみれ、世界は絶え間なく明滅を繰り返している。
だが、暗黒の霧を割り、松明の放つ鈍い橙色の光が、行く手に微かに浮かび上がった。
門だ。都市国家ユカラディピアの、巨大な鉄格子の堅牢な城門。
「誰だ!」
微かな足音を鋭く聞き咎め、門番の衛兵たちが、槍の穂先をこちらに向ける。その顔には、この世の終わりを告げる霧の森から現れた不審者に対する、剥き出しの警戒と恐怖が張り詰めていた。
向けられた冷たい切っ先。
しかし、今の俺にはそれを恐れるだけの気力すら残っていない。
「た、すけ……て……く……れ」
掠れた声を絞り出した瞬間、俺の膝が完全に砕けた。
前のめりに崩れ落ちるそのボロボロの身体を、地面に叩きつけられる直前、一人の衛兵が咄嗟に槍を投げ出して抱きとめる。
「おい、しっかりしろ!……おい、これを見ろ、酷い怪我だ!森の魔獣にやられたのか!?」
「生きてるのが奇跡だぞ!おい、応援を呼べ!すぐに治療だ!」
泥と血に塗れ、異臭を放つ身元不明の俺。
それにもかかわらず、衛兵の力強い腕は俺の身体をがっしりと支え、その温もりが、冷え切っていた俺の芯へとじんわりと伝わってくる。
傷つき、絶望に沈んでいた心が、その人間の確かな手の平の暖かさに触れ、微かに震えた。
――救われた。
強固な防壁の向こう側から訪れた確かな光のなかで、俺は今度こそ張り詰めていた糸を切り、深い眠りの中へと意識を落とした。
深い闇の底から、ゆっくりと意識の気泡が浮かび上がってくる。
最初に感じたのは、あの不快な泥の冷たさでも、焼けるような傷の激痛でもなかった。肌を包む、驚くほど柔らかくて清潔な布の感触。そして、微かに感じる、綴力だった。
俺は、生きてる、のか……?
重い瞼を、拒絶する身体を宥めながらゆっくりと押し上げる。
ぼやけた視界が徐々に焦点を結ぶにつれて、俺は自分が置かれた状況に言葉を失う。
天井が、やたらと高い。
見上げる先には、繊細な彫刻が施された見事な天井がある。俺が横たわっているのは、一人分にはあまりにも贅沢な、ふかふかとした巨大なベッドの上だった。
「……っ」
身体を動かそうとすると、まだ身体は疲れていることに気づく。
寝返りを打つようにして、周囲を見回す。
そこは、見慣れた安宿の狭苦しい部屋とは根本から異なる、信じられないほどでかい部屋だった。
磨き上げられた石造りの壁には、豪奢そうな絵が掛けられている。部屋の隅には、重厚な艶を放つ木製のクローゼットや、何人もの大人が同時に座れそうな大きな革張りのソファが並んでいた。高い窓から差し込む柔らかな陽光が、部屋のなかに非現実的なほどの静けさを生み出している。
治療をするという衛兵たちの言葉を、薄れゆく意識のなかで聞いた覚えはある。だが、ここはただの街の診療所にしては、あまりにも広すぎるし、立派すぎる。
誰もいない静まり返った大部屋のなかで、俺は怪我のなくなった身体を見つめた。
あの時、確かに掴んだ衛兵の温もり。そして、その前に自分の手で流してしまった、リシェラの温かい血の感触が、脳裏を過る。
一命を取り留めた安堵よりも先に、冷酷な現実の記憶が、再び俺の胸を締め付けようとしていた。
「……っ」
俺が自分の両手や足を見つめながら、そのでかい部屋の異様な豪華さに圧倒されていたところ、静かだった部屋の扉が穏やかに開く。
「おや、目が覚めましたか。あまり急に動いてはいけませんよ」
入ってきたのは、仕立ての良い上質な衣服を纏った、少し丸っこいモヒカンヘアーの、見るからに身分の高そうな人物だ。
威圧感は一切ない。むしろ、その表情には俺の体調を心から気遣うような、深い慈愛の笑みが浮かんでいる。
「……貴方は?」
警戒を隠せない俺の声に、男は柔和な笑顔と共に歩み寄ってくる。
「私はこの区画を預かる者です。衛兵から君の報告を聞いてね、すぐにこちらへ移すよう指示を出したのですよ。……気分はどうですか?」
「どうって……。なんで、俺がこんな大層な部屋にいるんだ?ただの行き倒れだぞ」
安宿どころか、お城の一室みたいな広さだ。尋問でもされるのかと身構える俺に、男は、実の親のような優しい手付きで掛け布団を整えてくれた。
「そんなに怯える必要はありません。ここは理想郷ですからね」
「理想郷……?」
「そうです。傷つき、苦しむ人々を救うために作られた、私たちの最愛の都市です。そんな素晴らしい場所で、怪我をした人を粗悪な場所になど置けませんよ。君のような迷い人も、ここでは等しく庇護されるべき大切な隣人なのですから」
その言葉には、一滴の嘘も、悪意も感じられなかった。
あまりにも優しく、温かく、完璧に美しい世界。
「……本当に、ただ治療するために、ここに?」
「もちろん。まずは何もかも忘れて、ゆっくりと身体を休めなさい。君の凍えた心を癒やすための時間は、いくらでもありますからね」
それと、と前置きすると男は笑顔のまま話を続ける。
「困ったことがあれば、そこのメイドに頼みなさい」
いつの間にか彼の背後に控えていた少女へと視線を向けた。綺麗に顔が整ったメイドである。
だが――
気配がまったくなかった。いつからそこにいたのだろうか?
驚いて目を向けると、そこには仕立ての良いクラシカルなメイド服に身を包んだ、俺とそう歳の変わらないくらいの紺色の長髪を持つ少女が静かに佇んでいた。
丁寧に切り揃えられたぱっつん髪を揺らし、彼女は俺の視線に気づくと、まるで見本のように綺麗な所作で一礼する。
「紹介しましょう。彼女は君の身の回りの世話を担当する、メラリカです」
「……メラリカです。ファイ様、お見知り置きを」
メラリカと呼ばれたメイドの少女は、透き通るような声でそう言った。
その瞳には、この国の人間に共通するものなのか、やはり濁りのない純粋な優しさが宿っている。
「彼女はとても優秀ですからね。食事の用意から街についてまで、何でも遠慮なく申し付けるといいですよ」
男は満足げに頷くと、俺の緊張をほぐすように再びその柔和な笑みを深める。
「君がこの理想郷で健やかに過ごせるよう、私たちは全力を尽くします。……では、私はこれで。メラリカ、くれぐれも失礼のないようにね」
「はい。ウガダ様」
メラリカが再び深く頭を下げるのを見届け、ウガダと呼ばれた男が、足音を立てずに静かに部屋を後にする。
パタン、と重厚な扉が閉まり、だだっ広い大部屋に俺とメラリカの二人だけが取り残された。
「……あの、さ」
沈黙に耐えかねて俺が声をかけると、メラリカはすかさず一歩前に出て、小首を傾げる。
「はい、ファイ様。何かご用ですか?お食事ですか?それとも、まだどこかお痛みが?」




