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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
二章 永劫の理想郷
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役立たずのガラクタ


「あ、……ぁ……、ああぁ……っ!!」


 喉の奥から、言葉にならない掠れた絶叫。

 引き抜く恐怖。触れることへの拒絶。脳の芯が真っ白に焼き切れ、視界の端から急速に色が失われていく。


 俺がナイフを抜くことも出来ずに固まっていると、ゼクフィスが歩み寄ってくる。

 ゼクフィスは座り込む俺を足で蹴飛ばすとリシェラの体を乱暴に担ぐ。


「……期待して損したな。結局、テメェはただの出来損ないだ」


「どう、するんだ?」


「テメェに説明する義理はない。一刻も早くこの場から離れろ。死にたくなければな」


 リシェラを担ぐゼクフィス。その鋭い視線が、地面に這いつくばる俺を上から見下ろす。  


 底知れない、圧倒的な失望。


 吐き捨てられる冷たい言葉。


 それが、これ以上ない決別の合図。

 ゼクフィスはそれ以上、俺に一瞥もくれなかった。

 リシェラを担いで森の奥へと走り去る白い和服の背中が、一瞬で霧の向こうへと溶けていく。


「待っ……て、待って!待ってくれ!俺が……悪かった!俺がッ!俺がッッ!!」


 置いていかれる恐怖。リシェラが奪われる絶望。

 叫ぶ。だけど、喉の奥から這い出るのは、ぐちゅぐちゅとした血の泡混じりの、掠れた掠れた掠れた空気の音だけ。声にならない。届くはずもない。


 行くな。連れて行かないでくれ。リシェラを、初めて出来た俺の仲間を、俺から奪わないでくれ。


 痛む身体を無理やり引きずり、冷たい泥の上を必死に這い進む。

 伸ばす右手の指先。だけど、掴めるのは生ぬるい霧と、自分の手で流したリシェラの、あの温かい血の感触だけ。


 視界が、急速に暗転していく。

 遠ざかる足音。深くなる霧。

 世界からすべての光が失われ、俺はただ一人、終わりなき絶望の深淵へと、深く、深く、沈んでいく――



 どれほどの時間が流れたのか。

 数分か、あるいは数十分か。

 ピチャリ、と冷たい泥の感触が頬に伝わり、わずかに意識の表層が覚醒する。


 指一本すら、もう動かしたくない。


 リシェラを刺した右手の感覚は完全に麻痺し、ただ己の罪の重さだけが、鉛のように全身にのしかかっていた。


 耳の奥で、ジジジ……と不快な耳鳴りが響く。

 ――いや、それは耳鳴りではない。


 じっとりと湿った霧の向こう、暗黒の森の奥から近づいてくる、無数の足音だ。

 ――グルル、と喉を鳴らす低い地鳴りのような声。


 最悪のタイミング。


 血の匂いに誘われた魔獣たちが、泥に伏せる俺の肉体を囲むように、闇からぬうっと姿を現す。

 ぎらぎらと飢えに飢えた、不気味な複数の目。鋭く尖った無数の牙。

 戦う力など、今の俺には一滴も残っていなかった。ナイフすら失くしている。


「……っ!」


 かすれた呼吸が漏れる。

 狼のような魔獣の一匹が、獲物の値踏みを終えたように、俺の喉元めがけて大きく口を開いた。

 死ぬ。ここで、ただ無様に、バケモノの餌として貪り尽くされる。


 ――嫌だ。


 脳の、さらに奥。凍りついていた心の芯が、ドクンと激しく脈打った。


 死にたくない。こんなところで、リシェラを刺したままで、何もかもを投げ出して死んでたまるか。


「まだ……死ねねーんだよッ!!」


 喉をかきむしるような咆哮とともに、泥の底から身体を跳ね上げる。

 動かないはずの四肢に、ただ生きるための執念だけで無理やり血を巡らせた。


 直後、眼前に迫っていた魔獣の牙が、俺の肩口へと深く突き刺さる。

 肉が裂け、激痛が脳髄を突き抜けた。だけど、それが逆に、冷え切っていた俺の意識を完全に覚醒させる。


「どけよ……バケモノがぁッ!」


 武器はない。ナイフはとうに失くしている。

 俺は怪我を負った左腕をそのまま魔獣の口へとねじ込み、右の拳を、奴の不気味に光る複眼めがけて思い切り叩きつけた。


 鈍い感触。

 引きちぎられる皮膚の痛みなど、今の俺にはどうでもいい。

 

 ズル、と泥に足を滑らせながらも、必死に地面を踏みしめて立ち上がる。

 肩と腕から血を流し、息を切らせ、ボロボロになりながらも、俺は目の前の群れを睨み据えた。


 一歩も引くものか。

 俺はまだ、生きている。


 右の拳を叩きつけられた一匹が、怯んだように頭を振る。

 だが、周囲の霧からさらに二匹、飢えた影が同時に飛びかかってきた。一匹は俺の脇腹をかすめ、もう一匹の鋭い爪が太ももを引き裂く。


「ぐッ!!」


 痛みで膝が折れそうになるのを、気力だけで踏みとどまった。

 生ぬるい自分の血の匂いが鼻腔を突き、脳がさらに沸騰する。


 一匹の首筋に両腕でしがみつき、己の体重のすべてを乗せて泥の上へとへし折るように押し潰した。獣が苦しげに喘ぐ隙を逃さず、近くに落ちていた尖った木の枝を拾い上げ、その喉元へ無我夢中で突き立てる。


 執念の一撃だった。

 ズブ、と肉を貫く鈍い感触とともに、魔獣が大きく痙攣して動かなくなる。


 残る群れが、一瞬だけ俺の狂気に気圧されたように動きを止めた。

 今だ。この隙を逃せば、次こそ本当に喰い殺される。


「はっ、……はあぁ、あぁッ!!」


 もつれる足を無理やり動かし、俺は森の奥へとがむしゃらに走り出した。

 背後から怒り狂った咆哮が響く。

 追いかけてくる足音が霧の向こうから聞こえるが、振り返る余裕なんて一瞬もない。

 

 裂けた肩が、太ももが、焼けるように熱い。泥と血で全身がドロドロになりながらも、ただリシェラを奪い去ったゼクフィスの背中を追うように、俺は霧を切り裂いて走り続けた。


 肺が爆発しそうだった。

 背後の魔獣たちの足音はまだ聞こえる。もう、本当に限界だった。意識が完全に途切れかけた、その時――


『――おい! 誰かいるのか! 大丈夫か!』


 霧の向こうから、はっきりと人間の男の声が聞こえた。


 救われた。その一念だけで、消えかけていた命の灯火が激しく燃え上がる。


「迷ったんだ……助け――」


 声のする方へ、もつれる足で必死に霧をかき分けて進む。

 いた。木の根元に、誰かが座り込んでいる。 

 ユカラディピアの衛兵か、あるいは通りすがりの旅人か。俺は最後の力を振り絞り、その影に手を伸ばした。


 だが、近づくにつれて、違和感が恐怖へと変わる。

 座り込んでいたのは、すでに事切れて腐臭を放ち始めた、ただの男の死体だった。


「え――」


 言葉を失う俺の目の前、死体の喉元が不自然にモゾリと膨らんでいる。

 衣服の隙間から這い出てきたのは、手のひらサイズの、あの異形のバケモノだった。


 バケモノは、死体の喉元に自らを吸い付くようにくっつけている。

 そして、その死体の喉を楽器のように震わせ、口をパクパクと動かしながら、先ほどと全く同じ人間の声を再生させた。


『――ダイジョウブカ? タスケテヤロウカ?』


 それは、死体を利用して獲物を誘い出す、極悪な捕食の罠だった。

 絶望に凍りつく俺の顔を見て、異形は喉の奥からギチギチと不快な音を鳴らす。


『ギ、ギャハハハッ! マヌケ! マヌケガ引っかかったァッ!』


 それは、明らかな嘲笑だった。

 言葉ではない。だが、その鳴き声は確実に、瀕死の俺を、リシェラを救えなかった俺の無力を、嘲笑っている。


「あ、……ぁ……」


 騙された。誰もいない。助けなんて、どこにもない。

 ガチガチと歯の根が合わずに震える。心の中の何かが、今度こそ完全に、音を立てて粉々に砕け散った。

 背後から、追ってきた魔獣たちの足音がすぐ近くまで迫る。目の前には、俺を嘲り笑う不気味な異形。


 もう、嫌だった。

 涙と血にまみれた視界のなか、俺は半狂乱のまま、ただただ目の前の地獄から逃れるように、再びがむしゃらに走り出した。


 どこへ向かっているのかも分からない。ただ、この絶望から遠ざかりたくて、死に物狂いで霧のなかを走り、転がり、無様に駆け続けた。



 ――ガツンッ!!


 強烈な衝撃が、走る俺の全身を襲った。

 無我夢中で突き進んだ先、何もないはずの霧の奥から突如として現れた巨大な石の壁に、正面から激しく激突した。


「が、はっ……!」


 ただでさえボロボロだった身体が、硬質な拒絶にぶつかって地面へとはね飛ばされる。

 背中から冷たい地面へと叩きつけられ、肺に残っていたわずかな空気がすべて口から吐き出された。


 痛む身体をなんとかねじり、仰向けになって視線を上に彷徨わせる。

 ぼやける視界の先、霧を割るようにして高くそびえ立つ、圧倒的な威容の防壁がそこにあった。


「これ、は……」


 暗黒の森を遮断するように築かれた、古びた、しかし強固な石造りの大壁。

 間違いないだろう。この壁は――


「――都市国家ユカラディピア……」

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