空虚を嘲る
「くそ……っ!」
ゼクフィスに対する憎しみか、自分への嫌悪か、もう判別のつかないドロドロとした感情を喉の奥に押し込み、俺は再びリシェラを背中に背負い直した。
ずしり、と肉の重みが両肩にのしかかる。
さっきまでパニックで感じなかった全身の痛みが、ゼクフィスに殴られた顔面と脇腹から一気に噴き出して、視界がチカチカと明滅する。
一歩踏み出すたびに、骨が軋む。だけど、止まるわけにはいかなかった。ここで立ち止まれば、あの白い和服の男は本当に俺を間引くだろう。
前を歩くゼクフィスは、一度も後ろを振り返らない。
泥を跳ね上げる足取りはどこまでも静かで、まるでこちらの惨状を気にしていないようだ。
――今なら、今なら背後からゼクフィスを倒せるのか?
――ねじくれた巨木の隙間を、必死に、ただ這うようにして進む。
どれだけ歩いた?あとどれくらい、この地獄のような霧が続く?
背中から微かに漏れるリシェラの苦しそうな呼吸音だけが、今の俺を動かす唯一の心音だった。
不意に、顔を叩いていた冷たい霧が、ふっと薄くなる。
ねじくれた木々が両側に退き、頭上を覆っていた枝の天井が、嘘のように消え去った。
「こ、こは……」
掠れた声が、俺の喉から漏れる。
開けた場所に出たのだ。
だが、そこは街でもなければ、出口でもなかった。
暗黒の森のただ中に、そこだけ木々が丸く忌避するようにして広がった、奇妙に平坦な空間。
ぽっかりと開いた虚無のような広場の向こう側には、俺たちをあざ笑うかのように、再び深く暗い、底の見えない森の闇が壁となってそびえ立っていた――
遮るもののない開かれた土地の中央まで進むと、前方を歩いていたゼクフィスが、なんの脈絡もなく足を止めた。
「休憩だ。テメェのその無様に震える足を少しは休めとけ」
振り返りもせず、ゼクフィスはそれだけ言い捨てると、地面に転がっている巨木の切り株にどさりと腰を下ろした。
「……ッ」
俺は膝の震えを必死に抑えながら、リシェラを刺激しないよう、泥から芝生のように変わった地面にゆっくりと彼女を横たわらせた。
背中から伝わっていたはずの体温が離れた瞬間、恐ろしいほどの悪寒が全身を襲う。
痛む身体を片手で押さえ、俺もその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
静寂が、あまりにも重い。
聞こえるのは、森の奥から時折響く、正体の分からない不気味な獣の鳴き声。そして、寝息というにはあまりにも痛々しい、リシェラの喘ぐような呼吸音だけだ。
ゼクフィスはといえば、ただ黙って目を閉じ座っている。
今、こいつの首を絞め落としたら、どうなる……?
さっき頭をよぎった濁った思考が、再び脳内でじわじわと沸き上がる。
隙だらけに見える男の姿。だが出鱈目な強さを持つこの男が、本当に無防備なわけがない。もし仕損じれば、今度こそ消される。
自分の無力さと、ゼクフィスへの逃れられない恐怖が、喉の奥をキリキリと締め付けた。悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、今にも頭がおかしくなりそうだ。
――いや、もう既にイカれているのかもしれない。
「おい、立て。これ以上時間を食えば、その女の身が持たねぇぞ」
ゼクフィスが立ち上がり、こちらを見据える。
その目の奥には何が見えているのだろうか?
「わかってる、よ……」
俺は軋む身体を無理やり奮い立たせ、再びリシェラを背負い込んだ。
さっきよりも、彼女の身体が一段と重く、そして冷たくなっている気がして、心臓が凍りつきそうになる。一刻も早く、ここを抜け出さなければならない。
ゼクフィスが、再び前方の闇に向かって歩き出す。
目の前にそびえ立つ森の壁。
ぽっかりと開いたその暗黒の入り口は、まるで俺たちを丸呑みにしようと待ち構える、巨大なバケモノのようだった。
一度足を踏み出せば、もう引き返せない。
ジトジトとした湿った空気が肌に纏わりつくのを感じながら、俺たちは再び、終わりなき絶望の深淵へと足を踏み入れた――
――一歩、森の中へと足を踏み入れた瞬間、世界から一切の光が圧搾された。
ジトジトとした生ぬるい霧が、まるで粘着質な生き物の舌のように肌に纏わりついてくる。
森に再び入ってすぐのことだった。
――ズ、ズゥ、と脳髄の裏側を直接錆びた爪で引っ掻くようなノイズが鼓膜にへばりついた。
『ねえ、ファイ……痛いよ。痛いよぉ……』
「なっ、――」
心臓が、冷たい氷の刃で突き刺されたように跳ね上がった。
リシェラの声だ。
間違いない、あの優しかったリシェラの声音。それが、呪いにどっぷりと浸されたような毒を帯びて、俺の思考の隙間に捩じ込まれる。
『なんであんなに激しく殴ったの?私の顔、もうボロボロだよ……?痛い、痛い、ファイ、苦しいよ……っ』
「違う、俺は、お前を助けたくて……っ!」
『言い訳するの?』
「違う。違う違う違う……」
背中から伝わる冷たい質量は動かない。これは幻聴だ。森の呪いが見せる、最悪の幻に決まっている。
頭では分かっているのに、彼女の悲鳴は俺の脳組織の隙間にじわじわと染み込み、神経の一本一本をガリガリとやすりで削っていく。
『苦しいよ、ファイ……。私のこと、本当は壊したかったんでしょ?』
「違う……違う!俺はリシェラを、守りたかった、守るって、誓ったんだ……!」
声は、徐々に実体を持って脳内で暴れ始める。
優しかったリシェラの笑顔、一緒に歩いた日々の記憶が、すべて泥を塗られて醜悪な怪物へと書き換えられていく。
――バキィッ
さっきリシェラの鼻の骨を砕いたときの、あの生々しい感触が、右拳の皮膚にありありと蘇る。まるで、今も彼女の顔面を殴り続けているかのような錯覚。
脳が、沸騰する。今すぐにでもこの声を出すゴミを殺してやりたい。
幻聴はいつしかリシェラの声だけではなく、無数の嗤い声へと膨れ上がり、俺の頭蓋骨の内側を全方位から激しく乱打し始めた。
『心も弱くて頭も弱い。さらには力もないの?とっとと死んじゃいなよ』
『あなたが生きてる意味ってある?私をこんな目に会わせておいて』
『痛いよぉ。帰りたいよぉ』
「消えろ、消えてくれ、頼むから……っ!!」
耳を塞ぎたい。だが、両手はリシェラを背負うために塞がっている。
逃げ場のない脳内オーケストラ。絶叫。呪詛。
自分の荒い呼吸音すらもリシェラをなじる声に聞こえ始め、俺の理性の檻は、内側からボロボロに腐り落ちていく。
「おい、何ごちゃごちゃと喚いてやがる。足が止まってるぞ」
前方から、冷え切った鉄格子のような声が降ってきた。
ゼクフィスだ。奴は白い和服の袖を気怠げに揺らしながら、この地獄のような環境のなかで、まるで庭園を散歩でもするかのように飄々と歩みを進めている。
「……なぁ、ゼクフィス」
喉の奥から、ぐちゅぐちゅとした血の味が競り上がってくる。
この男の平然とした背中が、俺の壊れた頭には、世界で一番許せない悪に見えた。
「なんで……なんでお前はそんなに平気な顔をしてられるんだよ……ッ!リシェラが、リシェラがあんなに苦しんでるのに、お前には何も聞こえないのか!?お前には心ってものが無いのかよ!!」
爆発した怒りが、肺を焼き焦がす。
だが、ゼクフィスは足を止めることすらせず、鼻で笑う。
「心?くだらねぇな。そんな感情に振り回されてるから、テメェはいつまで経っても足元を掬われんだよ。大方、森の呪いに頭をオモチャにされてんだろ。弱ぇ奴から順に壊れる。それだけの話だ」
「弱ぇ奴、だと……?」
「そうだろ?女一人も守れずに、自分の責任は棚置き。おまけに周りに喚き散らす。テメェは記憶が消える前からそうだったのか?猫被り野郎」
「は?」
『そうだよ、きっと記憶が失くなる前からろくでもないやつだったんだよ!だってファイは私を殺そうとしたんだもん!……クスクス、アハハハハハ!』
ゼクフィスの現実を突きつける声。リシェラの形をしたバケモノの嘲笑。
二つの声が脳内でぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、俺の理性の檻が、完全に大きな音を立てて崩壊した。
「俺が、記憶を失くした俺が悪いのか?何も分からないまま命を狙われて!身の振り方も分からないで!全部俺の責任かよ!!」
「急に被害者面か?もういい、リシェラは俺が運ぶ。テメェはとっと帰れ」
「黙れ……!」
リシェラの身体を滑り込ませるように地面に下ろした瞬間、俺は腰のナイフを引き抜き、ゼクフィスへと切りかかった。
ギラリと光る銀色の刃。
視界は真っ赤に染まり、ゼクフィスに対するドス黒い殺意だけが、俺の肉体を爆薬のように駆動させる。
「調子に乗んなよ。雑魚が……」
ゼクフィスが、電光石火の速度で回避する。
俺の放った決死の刺突は、ゼクフィスの白い袖に虚しくかすっただけだった。それどころか、強烈なカウンターの掌打が俺のみぞおちをブチ抜き、体内の酸素がすべて強制排気される。
「ガ、はっ……、ゲホッ……!」
地面を転がりながらも、俺は狂ったようにナイフを振り回す。
狂気。混濁。脳裏を埋め尽くすリシェラの、バケモノの嗤い声。
『死んじゃえ、ファイ。お前が死ねばよかったんだ。死ね、死ね、死ね、死ね――この空っぽガラクタが!!』
「ファイ……!ファイ……!」
「うるさい、うるさい、消えろおぉぉおおッ!!」
すぐ右側、霧の奥から強烈に響いたその声に向けて、俺は全体重を乗せてナイフを真横に一閃。
手応えがある。
肉を断ち切り、骨の隙間に吸い込まれていく、生々しい柔らかな感触。
勝った。バケモノを、仕留めた――
「……あ、……ぁ、つ……」
カチリ、と世界の歯車が止まる。
霧が、不自然にサァと引いていく。
俺のナイフの刃の先、そこにいたのは、バケモノでもなければゼクフィスでもない。
うつろに、痛みに、見開かれた美しい瞳。
今、まさに意識を取り戻したばかりの、本物のリシェラがそこにいた。
彼女の細い腹に、俺の握るナイフが、根元まで深く、深く突き刺さっている。
「え、……あ、リ、しぇ……ら?」
リシェラの口から、タラタラと鮮血が溢れ出し、地面を赤く染めていく。
「どう、して……ファイ……」
リシェラは、何が起きたのか分からないといった怯えた表情で、俺の顔をバケモノを見るかのような目で見つめ――そして、そのままゆっくりと、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
俺が刺した。俺が、俺が、俺が刺したのだ。
俺の手で、今度こそ完全に、リシェラを――




