希望を貪る
『ケラケラケラケラ!!』
耳元で、リシェラの声をした怪物の嗤い声が、執拗に脳髄を引っ掻き回す。
狂う。頭が狂いそうだ。
視界が真っ赤に染まる中、俺の身体は恐怖や絶望を置き去りにして、ただ目の前の嗤うゴミを消し去ることだけに執着していた。
「死ねぇぇぇッ!!!」
気付けば、泥の中に倒れ伏すリシェラの身体を力任せに押さえつけ、その首筋の肉塊へ、狂ったように左の拳を叩きつけていた。
骨折音?リシェラの悲鳴?もう何も聞こえない、何も考えたくない。この手で、今度こそこの手で、彼女からバケモノを引き剥がす。それだけが、俺の壊れた頭を動かす唯一の呪詛だった。
グチャッ、と嫌な感触が拳に伝わる。
リシェラの喉を締め上げていた肉塊が、俺のなりふり構わない殴打に耐えかね、消えていく。ついに死んだ。
『グルァッ!?』
同時に、背後から凄まじい衝撃波が霧を吹き飛ばす。
白い和服を血に染めたゼクフィスが、群がる魔獣の頭部をまとめて踏み砕き、こちらを冷徹な目で見下ろしていた。
「おい、ファイ。何やってやがる」
「あ、――」
ゼクフィスの声で、ようやく俺の時間は動き出した。
ハッと我に返り、自分の両手を見る。右拳も左拳も、ドロドロとした黒い体液と、そして、リシェラの鮮血で真っ赤に汚れていた。
地面を見る。そこには、鼻の骨を無残に砕かれ、泥と血に塗れて動かないリシェラが横たわっている。
俺がやったんだ。
俺が、守ると誓ったリシェラを、この手で壊した。
「リシェラ……っ、リシェラ!!」
押し寄せる吐き気を必死に堪え、俺は彼女の細い身体を、壊れ物を扱うように抱き起こした。
背後からは、肉塊の死骸からさらに次々と湧き出すちっちゃい異形どもの、ネチャネチャとした這い回る音が無数に迫ってきている。
「駄目だああぁああぁぁっ!!」
「ファイ、テメェどこ――」
聞こえない。聞こえない。
指示など待っていられなかった。俺はリシェラを背中に背負い、がむしゃらに地を蹴った。
走る。ただ、走る。
黒い旅装が泥を跳ね上げ、ねじくれた巨木の枝が俺の顔や腕を容赦なく切り裂いていくが、痛みなんてこれっぽっちも感じない。
「ごめん、ごめん、リシェラ……っ!俺のせいで、俺のせいで……っ!」
背中から伝わる、ゼコゼコとしたリシェラの苦しげな呼吸音が、俺の心臓を針で刺すように抉ってくる。
暗黒の森の中、どこへ向かっているのかも分からない。霧が視界を遮り、冷たい汗が目に入って前が見えない。それでも俺は、リシェラの命を繋ぎ止めるためだけに、泥に足を取られながら、狂ったように暗闇の中を疾走し続けた――
どれだけ走ったか分からない。
肺が焼けるように熱く、足の感覚はとうに消え失せていた。背中にあるリシェラの体温だけが、俺を辛うじて動かす原動力だった。
早く、一秒でも早く、この呪われた森から――
「――おい」
突如、背後から凄まじい風圧が吹き荒れた。
直後、俺の黒い旅装の襟首が、後ろから強引に掴まれる。
「離せ、離せよッ!!」
凄まじい力で地面に引きずり戻され、俺はリシェラを庇うように泥の上へ転がった。
視界の先、白い和服を翻して立ち塞がったのは、ゼクフィスだった。その獰猛な瞳が、今までにないほど冷たく俺を射抜いている。
「何のつもりだテメェ。なんで逃げた」
「……っ、うるさい!追ってきてるんだ、あのバケモノどもが!早くリシェラを安全な場所に――」
「魔獣なら全部ぶっ飛ばした。一匹も残さずな」
ゼクフィスは吐き捨てるように言った。
「森の呪いだか何だか知らねぇが、あの程度の雑魚にビビってんじゃねぇよ。指示も聞かずに一人で勝手に走りやがって、脳みそまで泥にでも浸かったか?」
「ビビってなんかない!!」
俺は泥を掴んで叫んだ。喉の奥から、血の混じった叫びが溢れ出る。
「リシェラが……リシェラの顔が、俺のせいで……っ!俺がこの手でリシェラを殴ったんだぞ!?守るって決めたのに、俺の拳が、リシェラの顔を壊したんだ!!」
自分の両手を突き出す。まだ生温かいリシェラの血がべっとりとこびりついた、罪の証。
「ここにいたら、俺がまたリシェラを傷つけるかもしれないんだ!だから、早く、逃げなきゃいけないだろうが!!」
パニックのまま喚く俺を、ゼクフィスはただ冷ややかに見下ろしていた。そして、一歩、間合いを詰める。
「だから逃げた、か」
次の瞬間、視界が爆発した。
鈍い衝撃とともに、俺の身体は再び泥の中へと吹き飛んでいた。
ゼクフィスの容赦のない蹴りが、俺の脇腹にまともに突き刺さったのだ。あまりの痛みに息が止まり、口から泥水が飛び散る。
「が、はっ……げほっ、ごほっ……!」
「いい加減にしろよ、この泥虫が」
ゼクフィスの声に、本物の殺気が混じる。
「テメェのくだらねぇ罪悪感のせいで、リシェラをこのまま森の中で死なせる気か?殴っちまったもんはしょうがねぇだろうが。今リシェラに必要なのは、テメェの泣き言じゃねぇ。疾く、治療することだろ」
「そんなこと、分かってる……っ!分かってるよ!!」
「分かってねぇから逃げてんだろうが!!」
ゼクフィスの怒号が、巨木を震わせる。
「盾になるってのは、都合のいいときだけ綺麗事でカッコつけることじゃねぇだろ。傷つけただの壊しただの、一人で悲劇の主人公やってんじゃねぇぞ、ファイ。テメェが今やるべきことは、その血まみれの手で、泥を這いつくばってでもその女を街まで運ぶことだ。それなのにテメェは方向も指示も聞かないで逃げやがって……」
心臓を素手で握り潰されたような衝撃だった。
ゼクフィスの言う通りだ。俺は、自分がリシェラを傷つけたという絶望から、ただ目を背けて逃げ出したかっただけなんだ。
「――、っ元はと言えば、お前が最初っから俺の指示通りにリシェラの後ろにいればこんなことは起きなかっただろうが!!」
叫んだ瞬間、頭のどこか冷めた部分が「おかしなことを言うな」と自分を罵った。
分かっている。ゼクフィスが前線で暴れてくれなければ、俺たちは最初の群れにもっと苦戦を強いられていた。悪いのは全部、あの怪物の罠に引っかかって、我を忘れて拳を突き出したこの俺だ。
だけど、そうやって誰かのせいにしなければ、リシェラを壊した自分の右拳を、今すぐナイフで切り落として狂い死んでしまいそうだった。
「お前が勝手に行くから……!お前が俺の話を聞かないから、俺が焦って……っ!全部、お前のせいだ……お前がリシェラをこんな目に遭わせたんだ!!」
泥まみれの顔で、立ち塞がるゼクフィスを睨みつける。
視界が涙と血で歪んでよく見えない。ただ、自分の醜い八つ当たりをこれでもかと大声でぶちまけることで、心臓の爆発しそうな痛みを無理やり誤魔化そうと必死だった。
「……へぇ」
ゼクフィスから、一切の感情が消え失せた。
いつも浮かべている笑みすらなく、ただ冷え切った、暗黒のような目が俺を見下ろしている。
「それが、ずっと猫被ってたテメェの本性か。醜ぇな、ファイ」
「うるさい、うるさい、うるさいッ!!お前に何が分かるんだよ!!」
俺は泥を蹴り、ゼクフィスに向かって殴りかかった。
まともな踏み込みでも、狙いを定めた一撃でもない。ただの、駄々っ子のような見苦しい、救いようのない拳。
――バギィッ!!!
リシェラの鼻を砕いたときと同じ、生々しい衝撃が、今度は俺の顔面に炸裂。
ゼクフィスは避けることすらせずに、俺の突き出した拳を顔面ごとぶち抜く。
「ぶ、はっ……!?」
受け身も取れず、俺は再び泥の中に激しく転がった。口の中が鉄の味で満たされ、視界がぐわんぐわんと激しく回転する。
「勘違いするなよ、泥虫」
ゼクフィスが俺の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げる。
頭皮が引きちぎれそうな痛みに顔を歪める俺の耳元で、ゼクフィスは氷のように冷たい声を落とす。
「俺はテメェの母親じゃねぇ。八つ当たりで殴りかかってこられて、優しく受け止めてやる義理はねぇんだよ」
掴まれた髪が、さらに強く引っ張られる。痛みの隙間から、ゼクフィスの剥き出しの殺意が脳髄に突き刺さった。
「テメェがどれだけ醜く狂おうが、俺の知ったことじゃねぇ。だが、その醜態のせいでリシェラが死んだら――俺が、今ここでテメェをぶち殺してやる」
「――、ぁ」
「疾く、その汚ぇ手でリシェラを背負え。二度目はねぇぞ、ファイ」
ゴミを捨てるように頭を泥に叩きつけられ、ゼクフィスが白い和服を翻して歩き出す。
俺は泥を噛み締めながら、ヒューヒューと鳴る肺を必死に動かした。情けなくて、悔しくて、自分が気持ち悪くて、涙が止まらない。
森の呪いのせいだろうか。分からない。何も、分からなかった。
それでも、俺は傷だらけの身体で這いつくばりながら、もう一度リシェラの身体へと手を伸ばした。




