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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
二章 永劫の理想郷
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優しい激痛

 目の前に広がる光景は異様だった。


 巨木が隙間なくひしめき合い、ねじくれた枝葉が怪物の手のようにもつれ合って空を覆い隠している。街道の明るい光を拒絶するように、森の奥は深い緑色の闇に沈んでいた。足元からは不気味なほど濃い霧が這い出してきて、まるで生き物のように俺たちの足首にまとわりついてくる。


「ここが、幻憶の森……」


「近くで見ると、凄い迫力ね……」


 リシェラが少し身をすくめながら、隣でごくりと息を呑んだ。


「あぁ。まともな神経のやつが通る道じゃないな」


 俺は首筋を伝う冷や汗を拭いながら、自分の服装を見下ろした。

 街を出る前、ミレッタのアドバイスもあって、泥を弾く厚手の頑丈な黒い旅装に着替えておいたのだ。じっとりとまとわりつく霧の湿気や、何が潜んでいるか分からない鋭い植物のトゲを前にして、この選択の正しさを痛感する。


「本当、この服にしておいて良かったな……。これなら多少の無理は利く……」


「テメェらは一歩進むだけでどんだけビビってんだよ」


 背後から、緊張感の欠片もない獰猛な声が降ってくる。

 ゼクフィスは白い和服の懐に手を突っ込んだまま、こちらに喋りかける。


「警戒だ。ゼクフィス、お前こそ少しは緊張感を持ったらどうだ?ここは呪いの森だぞ」


「呪いだろうが何だろうが全部、疾く、ぶっ飛ばす」


「脳筋の思考だな……」


 俺が盛大なため息をつくと、リシェラが服の裾をぎゅっと握りしめながら、一歩前に進み出た。


「ふ、二人とも、喧嘩はそこまでにして行こう?」


 怖気づきそうな自分を奮い立たせるような、真っ直ぐな瞳。 

 俺は拳を強く握りしめ、リシェラの隣に並んだ。


「あぁ、行こう。リシェラは俺のすぐ後ろを歩いてくれ。ゼクフィス、お前は――」


「疾く、行くぞ」


「人の話を聞けよ……」


 指示を出すより早く、ゼクフィスが我が物顔で森の境界線を踏み越えていく。俺とリシェラも、顔を見合わせ、その背中を追って闇の中へと足を踏み入れた。


 ――ザザッ


 一歩、森の中へ入った瞬間。

 世界から一瞬にして外の音が消え失せ、代わりに、ねっとりとした濃霧の奥から、無数の不気味な気配がこちらを凝視するのを感じた――



 森を数十分歩いた後、ゼクフィスが歩を止める。


「出やがったぞ」


 霧の向こう側、うごめく複数の紅い眼光が、俺たちをじっと見据えていた。


『グルルルル……ッ!』


 霧を割って飛び出してきたのは、全身にどす黒い粘液を纏う狼のような異形の生き物――魔獣たちだった。その頭部には無数の紅い眼光がびっしりと並び、こちらを飢えたように見つめている。


「リシェラ、俺の後ろに!」


「ええっ!」


 俺は即座に一歩前に出た。泥を弾く黒い旅装の袖をはためかせ、腰のナイフへと手を伸ばす。


「疾く、殺るぞ」


 ゼクフィスが狂気的な殺気をばらまきながら、白い和服を翻して最前線へと突っ込んでいく。ゼクフィスの圧倒的な一撃が魔獣の群れをなぎ倒し、引きちぎられた異形の肉塊と黒い体液が、辺りの霧をさらに濃く染め上げていった。


 勝てる。


 ゼクフィスの規格外の強さがあれば、この森も突破できる――

 俺がそう確信しかけた、その瞬間だった。


「――っ!ファイ、足元に何か……!」


 リシェラの悲鳴に近い声が響く。

 見れば、ゼクフィスが散らした魔獣の肉塊から、手のひらサイズのちっちゃい異形どもが、無数に這い出してきていた。


 それらは信じられない速度で地面を滑り、俺たちの足元へと肉薄してくる。


「離れろ!」


 俺のナイフが醜い無数の肉塊を切り裂く。

 それらは切られると同時に、まるで最初からそこにいなかったかのように消えていく。


独自魔呪綴オリジナルスペル――『天界の杭(ヘブンズ・ステイク)』」


 リシェラの魔呪綴スペルが肉塊へと突き刺さる。回避する暇すら与えられず潰されたそれらは、苦鳴をあげて消えていく。


 勝てる。


 今度は確信できるだけの感情があった。

 ゼクフィスの圧倒的な暴力と、リシェラの的確な魔呪綴スペル。二人の背中がある限り、どんな魔獣が相手だろうと、この森を切り抜けることはできるはずだ。


 だから、俺は焦る必要なんてなかった。油断さえしなければ、何も恐れることはない。


 それなのに。


 どうして、俺は気づけなかった。


「――、ぁ」


 短い、掠れた呼吸が鼓膜を震わせた。

 すぐ後ろにいるはずのリシェラの気配が、一瞬で凍りついたのが分かった。


「リシェラ?」


 振り返った俺の視界に飛び込んできたのは、リシェラの背後からその華奢な足へとベチャリと吸い付いた、ちっちゃい異形だった。


「なに、これ、離れな――っ!」


 リシェラが短い悲鳴を上げ、激しく姿勢を崩す。

 異形は彼女の足の表面に文字通りへばりつき、その醜い肉塊を波打たせながら、またたく間にリシェラの体を駆け上がって侵食していく。ネチャネチャと皮膚を這い回る不快な音が、リシェラの背中を駆け上がり――一瞬でその首筋に到達した。


「やめろ……やめろやめろ!!離れろよっ!!!」


 視界がぐにゃりと歪んだ。血の気が引き、心臓が爆発しそうなほどの警鐘を鳴らす。

 気付けば、ナイフを放り出すように腰に押し込んでいた。なりふり構わずリシェラに飛びつき、その細い肩を壊さんばかりに掴む。

 早く、一秒でも早くそのおぞましい肉塊を引き剥がさなきゃいけない。パニックになりかけた頭で、それだけを求めて手を伸ばす。


 だが、俺の指先が触れるより早く、リシェラの首の表面で蠢く異形が、喉を外側から強く圧迫しながら声を発した。


『助けて、助けてよ!ファイ!』


「――、な、っ!?」


 脳髄を冷水でぶっかけられたような衝撃が走る。

 リシェラの声だ。異形の肉塊がリシェラの喉を震わせて、声が響いている。


 なんでこいつがその声で喋ってる。なんでリシェラをそんな風に玩具にしている。


 盾になると誓ったはずの、俺が守らなきゃいけない女の子の身体が、自分を嘲笑うためだけの悍ましい拡声器に変えられている。


 恐怖と、嫌悪と、そしてリシェラを泥足で踏みにじる怪物への煮えたぎるような殺意が、俺の脳の血管をブチ切らせた。


「この、バケモノがぁぁぁぁぁッ!!!!」


 考えるより先に、身体が動いていた。

 俺は、リシェラの首筋にべったりと張り付く怪物の肉塊めがけて、全力を込めた拳を思い切り突き出した。


 潰れろ、消えろ、死ね、俺の視界から、リシェラの身体から今すぐ消え失せろ!!


 それだけだった。その一瞬、俺の頭にはリシェラを救いたいという狂気的なまでの衝動しか存在していなかった。


 ――だが、それこそが、この森の呪いの思う壺だった。


 拳が届く、ほんのわずか手前。

 リシェラの首の表面に張り付いた生き物が、肉塊を不気味に歪め、彼女の身体をあり得ない角度に強制的に引き寄せた。

 俺の、全力の、引き剥がすことすら不可能な拳の軌道上に、肉塊の身代わりとして差し出されたのは――


 恐怖に大きく目を見開いた、リシェラの無防備な顔面だった。


 しまっ――!!!


 脳が理解した瞬間には、もう何もかもが遅すぎた。


 ――ベキィッ!!!


 静まり返った森に、生々しい、鈍い骨折音が激しく木霊した。


「あ――」


 拳から、腕を伝って脳へとダイレクトに突き抜ける衝撃。


 人間の肉と骨が、俺自身の体重の乗った質量によって激しく打ち砕かれる、最悪の感触。

 リシェラの、さっきまで怯えながらも前を向いていた綺麗な顔が、俺の突き出した拳によって容赦なく歪んでいく。鼻の骨がへし折れて、鮮血が彼女の白い肌を瞬く間に真っ赤に染め上げた。飛び散った熱い血飛沫が、俺の黒い旅装に、そして俺の顔面にまでへばりつく。


「が、はっ……あ、ひ……っ」


 声にすらならない悲鳴。

 リシェラは折れた鼻から、そして口からボコボコとした血を吹き出しながら、糸の切れた人形のように、地面を転がり、泥の中へ倒れる。


「嘘だ……」


 自分の右拳を見る。そこにべっとりと付着しているのは、まだ生温かい、紛れもないリシェラの血だ。


 ヒューヒューと喉が引き攣り、肺の空気がうまく吸えなくて胸が引き裂かれそうになる。焦燥感と絶望感で心臓がぐちゃぐちゃに破裂しそうだ。

 世界から色が消えていく。視界が激しく揺れて、何が起きているのか分からない。


 俺の拳だ。


 命をかけて、自分の命なんてどうなってもいいから、絶対に盾になると、昨夜あれほど強く心に誓ったはずの、この俺の右拳だ。

 リシェラの綺麗な顔を、自分の手で、この手で、打ち砕いたんだ。


「ごめん……ごめん、リシェラ。」


 近づき、謝ることしか出来ない俺の足元で、泥に塗れたリシェラの折れた鼻の傷口のすぐ横から、あのちっちゃい異形がネチャァと濡れた顔を覗かせ、楽しそうにケラケラと、俺の絶望を祝福するように笑い声を上げていた――

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