嵐の前の静けさ
旅とパーティーの買い出しを終えた日の夜。
簡易的な修理をした『琥珀のまどろみ』は、ミレッタとゾルドンが腕によりをかけた料理の香りと、集まってくれた面々の賑やかな声で満たされていた。
「さあさあ、皆グラスは持った?ファイとリシェラちゃんの新しい旅立ちに――乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
ミレッタの音頭と同時に、木製のジョッキやグラスが一斉に打ち鳴らされる。大皿に盛られた肉料理やスープを前に、オコーがさっそく左手でジョッキを掴み、豪快に喉を鳴らした。
「ぷはぁーっ!やっぱり飯と酒は最高だな!おいファイ、美味いもん今のうちに胃袋に詰め込んどけよ!」
「分かってるよ。オコーもまだ怪我が完治してないんだから、飲みすぎるなよ」
宴が最高潮に達した頃、ふと食堂の入り口に目をやると、いつの間にかクーガが壁に背を預けて立っていた。クーガは俺と目が合うと、顎で静かに外をしゃくり、そのまま背を向けて出ていく。
「外……?」
隣でミレッタ特製のタルトを美味しそうに食べているリシェラに「少し風に当たってくる」と声をかけ、俺は一人、夜風が吹き抜ける宿の裏手へと向かった。
月明かりに照らされた裏路地で、クーガはポケットに両手を突っ込んだまま待っていた。昼間の飄々とした態度とは違い、その瞳には鋭さが宿っている。
「――おい、ファイ。どういうつもりだ?」
俺が近づくと、クーガは低く、脅すような声で切り出してきた。
「…リィを連れて行くなんて、正気か?お前は、自分の立場を知ってるはずだ。それなのに、なんであの話をリィにした。あいつを巻き込むつもりか?」
リシェラを大切に想うからこその、クーガの静かな怒り。だが、俺はそらさずにクーガの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺から話したわけじゃない。……リシェラが、自分から「一緒に行きたい」って言ってくれたんだ」
「リィが……?」
「あぁ。高台での会話、リシェラに全部聞かれてたんだよ。……リシェラは、オコーの腕のことがあって、自分の弱さに俯いてたんだ。でも、俺が記憶を探すために前を向こうとしてる姿を見て、自分も守られるだけじゃなく、捨てた母親を探すために一歩を踏み出したいって、そう訴えてきたんだ」
俺は一呼吸置き、力強く言葉を続ける。
「リシェラが、自分の意志で、自分の目的のために進みたいって決めたんだ。俺は、リシェラが自分で選んだその決意を、尊重したい」
「……」
クーガは黙って俺の言葉を聞いていた。夜の静寂の中、あいつの鋭い視線が俺の覚悟を値踏みするように突き刺さる。
やがて、クーガは小さく、吐き出すようなため息をついた。
「…あのリィが、お前にそこまで大見得を切ったってわけか。あいつが一度言い出したら聞かないのは、俺もよく知ってる。仕方ないな」
クーガは頭をガリガリと掻きむしると、一歩、俺との距離を詰めてきた。
その瞬間、ゾクリとするほどの圧倒的なプレッシャーが俺の肌を刺す。それは、一瞬でも隙を見せれば命を刈り取られかねないほどの、明確な牽制だった。
「…今回はお前に免じて任せる。あいつの覚悟も、それを背負うって言ったお前の言葉も本物のようだからな」
クーガは俺の胸元に人差し指を突き立て、こちらを睨むように見た。
「…勘違いするなよ、ファイ。もし旅の途中で、リィに指一本でも傷をつけてみろ。……その時は、世界の果てまでお前を追い詰めて、俺がこの手でその首を叩き落としてやる。……絶対に、あいつに怪我をさせるなよ?」
脅しではない、本物の凄み。俺はごくりと息を呑みながらも、その殺気を受け止め、一歩も引かずに頷いた。
「あぁ。約束する。俺の命に代えても、リシェラは傷つけさせない」
「…ならいい。湿っぽい話はここまでだ。戻れよ、せっかくのパーティーだからな」
次の瞬間には、クーガはいつもの食えない、飄々とした表情に戻っていた。あいつは俺の肩をぽんと叩くと、『琥珀のまどろみ』とは別の方向へと歩いていく。
宿の食堂に戻ると、中からは相変わらず賑やかな笑い声が響いていた。
席に戻った俺に、リシェラが不思議そうに「ファイ、どこに行ってたの?」と首を傾げる。
「いや、ちょっとクーガと、男同士の約束をしてきただけさ」
「お兄ちゃんと……?もう、変な約束してないでしょうね?」
少しジト目になるリシェラを見て、俺は思わず苦笑した。
明日の朝には、いよいよ出発だ。クーガの重い警告を胸に刻みながら、俺は隣に立つ大切な仲間の横顔を見つめ、必ず守り抜くという決意をさらに深く燃え上がらせていた。
――そして、新しい朝がやってくる。
東の地平線から昇る朝日の光が、簡易的な修理を終えた『琥珀のまどろみ』を淡く染め上げていた。張り詰めた緊張をすべて宴の熱気に溶かした俺たちは、それぞれの荷物を背負い、いよいよ旅立ちの時を迎える。
宿の前に集まったのは、見送りに来てくれたいつもの面々だ。
「無理はするんじゃねえぞ」
ギルディエスが豪快に俺たちの肩を叩く。その掌から伝わる体温は、これから始まる未知の旅路へ向かう俺たちの背中を、力強く押し出してくれるかのようだった。
「リシェラちゃん、危なくなったらファイを盾にしていーんだからね?」
ミレッタがふんわりとした、だけどどこか寂しげな笑みを浮かべてリシェラの髪を撫でる。その眼差しは、まるで遠くへ旅立つ妹を案じる姉のそれだった。
「生きて帰ってきて下さいね。二人とも」
そう言って微笑むのは、この前の戦いで、リシェラと共闘したらしい神官、フェルミーテである。
「あぁ、行ってくる。皆、本当に今までありがとう」
「皆、元気で……!」
リシェラが手をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めた、だけどどこか名残惜しそうな瞳で街の景色を見つめる。
点と点がつながり、動き出した運命の歯車。俺たちの新しい旅路――『都市国家ユカラディピア』への道が、今、確かに一歩目を踏み出そうとした、その瞬間だった。
「――待てよ」
頭上から降ってきた聞き覚えのある声音に、俺たちの身体がびくりと硬直した。
その場にいた全員の視線が一斉に上を向く。『琥珀のまどろみ』の、まだ修理の行き届いていない剥き出しの屋根の縁。そこから、まるで重力を無視した猫のように、一人の男がひらりと飛び降りて着地した。
静寂を破って現れたその男の名は――ゼクフィス。
今までどこで何をしていたのか、衣服にはうっすらと砂埃が積もっている。しかし、その双眸は獲物を見つけた野獣のように、ぎらぎらとした危険な輝きを放っていた。
「ゼクフィス……!お前今までどこにいたんだよ」
ギルディエスの声が響く。
だが、ゼクフィスはそれを気にする風もなく、肩をすくめて、不敵な笑みを浮かべた。
「ちょっとやることがあったんだよ。それより、テメェら、ユカラディピアに行くんだろ?」
「あぁ、そうだが……それがどうした?」
俺が身構えながら問い返すと、ゼクフィスは俺の胸元を指差した。
「決まってんだろ。――俺も行く。その旅、俺も混ぜろよ」
「は……っ!?」
あまりにも唐突すぎる、そして爆弾のような一言に、俺の思考が一瞬だけ完全にフリーズした。
リシェラは驚きで丸くした目をさらに大きくし、ミレッタたちも呆気にとられたように口を開けている。
「へ?」
ミレッタが吐息を漏らす。
ゼクフィスは俺の目をまっすぐに見据え、その口元を僅かに歪める。
「テメェは俺の弟子なんだろ?師匠のお願いを弟子が断るわけねぇよなぁ?」
予想外すぎる三人目の同行者を加えた『都市国家ユカラディピア』への旅の幕が、今、強引すぎるほどの勢いで引き開けられようとしていた。




