戦後処理
――深い眠りから、意識がゆっくりと回帰する。
ソフーテとの死闘が嘘のように、要塞都市にはいつもの朝が訪れている。
窓の外からは、日常を取り戻した住人たちの穏やかな話し声や、子供たちの笑い声が聞こえてきた。
「……ん」
ゆっくりと上体を起こし、自分の身体を見下ろす。
あれだけの激闘だったというのに、不思議とどこにも痛みはなかった。寝ている間に、誰かが魔呪綴を使って傷を完全に治してくれたのだろう。
衣服も新しいものに取り替えられており、昨日の血と泥の臭いは綺麗に消え去っていた。
じっと自分の手のひらを見つめる。
本当に、あのソフーテに勝ったんだ。
だが、そんな喜びのすぐ裏側で、あの時、ソフーテが最期に見せたあの涙と、遺した言葉が、頭の片隅に小さく引っかかっている。
皆が心から喜ぶ中で、俺の心だけが、ほんの少しだけ答えのない空白に置き去りにされているような、不思議な違和感。
「……正義って、何だ?」
ポツリと、誰に言うでもなく呟いたその時、部屋の扉が静かに開いた。
「あ、目が覚めたのね!」
お盆の上に湯気の立つスープを乗せて入ってきたのは、リシェラだった。
「リシェラ……。あぁ、ちょうど目が覚めたところだ」
「そう。顔色は悪くないみたいね。寝ている間に、ミレッタが魔呪綴を使って傷は治しておいたけれど……どこか痛むところはある?」
「いや、大丈夫だ。というか、衣服まで用意してくれたんだな。 ありがとう」
「気にしないで。市長を倒した要塞都市の英雄を、ボロボロのままにしておくわけにいかないでしょ?」
リシェラはくすりと微笑みながら、ベッドの横の机にお盆を置いた。
「みんな、ファイのことばかり話してるわよ。街が救われたって、大騒ぎなんだから」
「街が、救われた?」
俺はリシェラの言葉に眉を潜める。
「えぇ。市長が人間のふりをしてこの要塞都市に潜入していた魔族だったってこと、もう街中に広まってるわ。首脳たちも公式に発表したの。それを倒したファイは、今や完全に街の救世主よ」
「魔族、か……」
確かにソフーテの正体は人間じゃなかった。
街の人々が魔族を恐れ、倒した俺を称えるのは当然の反応と言える。
だが――
「ねえファイ。本当に大丈夫? なんだか元気がなさそうだけど……」
リシェラが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしていただけだ」
「そう?ならいいんだけど……」
リシェラはまだ少し心配そうな目をしていたが、それ以上は追及してこなかった。
「それより、リシェラ。他の皆は? 激しい戦いだったし、俺以外にも怪我人がたくさん出たんじゃないか?」
「まずは自分の心配をしてって……言いたいところだけど、仕方ないわね」
リシェラは少し表情を和らげると、優しく微笑んだ。
「大丈夫。ミレッタの魔呪綴が本当に凄くてね、大きな怪我を負った人たちも皆命に別状はないわ。今は皆、同じ施設の別の部屋で休んでるの」
「そうなのか……。なら、皆のところへ行ってくる」
俺は布団をはねのけ、ベッドの端に足をかけた。
「ちょっと、ファイ! 傷は治ってても、丸一日眠ってたのよ? 起きたばかりでいきなり歩き回るなんて―」
「大丈夫だ。ほら、歩ける」
床に足をつけ、ゆっくりと立ち上がる。少しふらついたが、リシェラが手を貸そうとする前にしっかりと足を踏みしめた。本当に治療のおかげで、身体はすこぶる軽い。
「皆が無事だって、この目で確かめたいんだ。リシェラ、案内してくれ」
「もう、頑固なんだから。分かったわよ、ついてきて」
リシェラは呆れたようにため息をつきながらも、嬉しそうに先頭を歩いて部屋の扉を開けた。
木造りの素朴な廊下を進む。どうやら俺が寝かされていたのは、要塞都市にある大きめの宿の一室だったらしい。
階段を下りて宿のロビーを抜けると、リシェラが「驚かないでね」と悪戯っぽく笑って、表の重い扉を押し開けた。
――その瞬間、凄まじい熱気が、俺の全身にぶつかってきた。
「おい、あれまさか、 ファイ・ニアスか!?」
「あの、潜入していた魔族を単独討伐したって言う?」
一歩外に出た街の通りは、昨日の静けさが信じられないほどの数の人で溢れ返り、まるでお祭りのような賑わいを見せていた。
たまに、俺に気づいた人たちが手を振ってくる。皆の笑顔が、陽の光を浴びて眩しいほどに輝いている。
「……すごいな。本当に」
俺は驚きのあまり、それ以上の言葉が出てこなかった。
というより、街の人たちは何で俺がファイ・ニアスだと知っているのだろうか?まぁ一先ずその疑問は後回しである。
「驚いたでしょ? 」
リシェラが悪戯っぽく笑った。
「あれ、店長じゃない?」
少し歩いた先、リシェラが指を指す、人だかりの中心にある広場で、見覚えのある男の姿が目に飛び込んできた。
「おぅ、ファイじゃねぇか」
そう言って動いたのは髪の薄い大男、ゾルドンである。
大きな身体に不釣り合いなほど軽い足取りでこちらへ歩いてくると、俺の肩をガシガシと豪快に叩いた。
「丸一日眠りこけてたって聞いたから心配したぜ? 身体はもう大丈夫なのか?」
「あぁ、ミレッタのおかげでどこも痛まないよ。そっちこそ、怪我はないのか?」
「この頑丈な身体を見ろよ、かすり傷一つないぜ! それよりお前、本当にあの市長をぶっ倒しちまうんだから、とんでもねえやつだ」
ゾルドンはそう言って、嬉しそうに周囲の賑わいを見渡した。
確かに皆の笑顔を見れば、俺たちの戦いに間違いなく意味があったのだと思える。
「……そういえば、クーガの姿が見えないな。あいつはどうしたんだ? 別の場所で怪我の治療でも受けてるのか?」
広場を見回しても、あの目立つ男の姿だけが見当たらない。
昨日も一緒に来てくれたから、今も一緒かと思ったが……。
俺の問いに、ゾルドンは急にガリガリと頭を掻き、困ったように顔をしかめた。
「あー、クーガの野郎なら、ここにはいねえよ。あいつ、今日の朝に「目的は果たした」とかなんとか言って、さっさとどっか行っちまいやがった」
「その後は一回も会ってないのか?」
「あぁ、どこに行ったかもさっぱりだ。相変わらず掴めねえ奴だぜ」
頭を抱えるゾルドン。しかし、数秒後に何か思いついたように顔を上げる。
「というか、他のやつらのところにも顔出しとけよ。皆心配してるぞ?」
「分かってる」
「特にゼクフィスなんかは、顔にこそ出さねぇがありゃ相当心配してるぞ」
ゾルドンから、思わぬ名前が登場した。
「ゼクフィスと会ったんだな」
「まぁな。つっても、戦後のごたごたで少し話したぐらいだがよ」
ゾルドンがニヤリと笑う。
「ゼクフィスはどこにいるか分かるか?」
俺が尋ねると、ゾルドンは親指で、少し離れたところを指し示した。
「あいつならあそこの宿にいるぜ」
「ありがとう」
俺はゾルドンが話し終えると同時に、走り出す。
「ちょっとファイ!いきなり走ったら危ないじゃない!」
その後ろを心配そうなリシェラがついてくる。
リシェラの制止の声も、今の俺の耳には届かなかった。
地面を派手に蹴り飛ばし、ゾルドンが指差した宿へと視線を固定する。
息を荒くしながら飛び込んだのは、ひっそりと佇む、古びた宿屋だった。
薄暗いロビーに駆け込むと、受付にいた老人が、突然入ってきた俺たちに目を丸くする。
「すいません、ゼクフィスって男はどこにいますか?」
俺が勢いよく受付の机に手を突いて尋ねると、老人は俺の気迫に気圧されたように、ひきつった声をあげた。
「え、あ、ああ……そいつなら二階の突き当たり、奥の部屋だが……」
「ありがとう」
それだけ言い残し、俺は軋む木造の階段を一気に駆け上がった。
二階の廊下を進み、教えられた突き当たりの部屋の前で、ピタリと足を止める。
ゴクリと固唾を飲み込み、俺は意を決して、その扉を押し開けた。




