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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
一章 要塞都市の怪物
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追憶 ソフーテ・マスツア

 世界がどれほど美しく残酷に回ろうとも、そんなことは私の知ったことではなかった。

 神の気まぐれが生み出す理不尽も、戦争に並ぶ大義名分も、私の胸を焦がすことはただの一度だってありはしない。


 私の世界の中心には、いつもただ二人――私が命を賭して愛した『家族』という名の、絶対の法律だけが存在していた。


 穏やかな光が差し込む白い部屋で、妻が「ソフーテ、今日も頑張ってね」と微笑む。

 その透き通るような白い肌に触れるたび、私の胸には言いようのない幸福が満ちた。


 そして彼女の膝の上では、私たちの愛の結晶であるまだ小さな子が、無邪気な声を上げて私の名前を呼んで手を伸ばしてくる。

 妻の唇から溢れる私の名前、息子の小さな柔らかい手足、部屋に満ちる安らかな呼吸の音。


 それらすべてが、私にとっての唯一の救済であり、生涯を捧げた信仰そのものだった。彼女たちの笑い声が耳に届き、愛おしい体温に触れる。ただそれだけで、私の肺には新鮮な酸素が満ち満ちていたのだ。


 ――神様、どうか、足元をすくわれるような幸福のなかで、私たちをこのまま溺れ死ねせてください。


 そう願うことの、一体どこが、誰を脅かす罪だというのだろう。


 なのに、運命という名の悪趣味な怪物は、人間の姿を借りて、私たちのすべてを焼き尽くした。



「お父さん、こっちに大きいのがあるよ!」


「あんまり遠くに行くなよ~」


 十年前のあの日。澄み渡る青空の下、あの子は無邪気な声を上げて山を駆けていた。

 籠いっぱいに採れた山菜を抱え、私たちはただ、愛する妻の待つ我が家へと帰るはずだった。微笑ましい息子の背中を追いかけながら、私は間違いなく、世界で一番満たされた父親であり、夫であったと思う。


 ――だが、その平穏は一瞬で黒煙に巻かれる。

 山を駆け下りた私の目に飛び込んできたのは、人間に襲撃され、地獄の業火に包まれる故郷の村だった。


 鼻を突く凄惨な焦げ臭さと、内臓まで焼き焦がすような不快な熱。

 そして、崩れ落ちる家々のなかから聞こえた、愛する妻の、引き裂かれるような悲鳴。


「ぁ、あぁ…メーリア…! どこだ!?どこにいるんだ!?」


 もし私が村に残っていれば。もし私が、彼女のそばを離れなければ。


 十年間、一秒たりとも止むことのない自責の刃が、今も私の心臓を滅多刺しにし続けている。

 あの凄惨な炎から、かろうじて妻を助け出したときには、彼女の美しい白い肌は見る影もなく焼け爛れていた。


 どんな高度な回復属性の魔呪綴スペルも、秘薬も、妻の肉体を焼いたあの傷を元に戻してはくれない。

 十年間、ただ熱を帯びた細い呼吸を繰り返すだけで、未だに目を覚まさない愛しい人。


 両親を真っ二つにされ、親友を滅多刺しにされ、村を滅ぼされ、生き残った息子は、いつか私たちとまた暮らす日のためにと、一人魔族の領地に残り、泥にまみれて村の復興に命を減らしている。


 あんなに愛おしかった私の世界は、完全にバラバラに壊れてしまった。

 正しい方法で彼女たちが救われないのであれば、そんな正しさはドブにでも捨ててしまえばいい。


 ――だからこそ、私は『あの方』の前に跪いたのだ。


 十年前突如して現れた組織、『神子屠殺典しんしとさつてん』。目的不明。構成員数不明。全てが謎に包まれた犯罪組織。その頂点に君臨する絶対的な存在。

 ただその名を耳にするだけで、誰もが血の気を引かせるおぞましき組織。


 だが、旅の途中に会った『あの方』が提示した『妻の傷を完全に治す』という約束は、私にとって蜘蛛の糸よりも眩しかった。

 『あの方』の命令は絶対だ。そのためなら、私は喜んで自らの魂を売り、魔族としての冷酷な仮面を被ろう。


 要塞都市の支配者となり、陰で組織の命ずるままに手を汚し、要塞都市の市長として、無数の有象無象の命を貪り、貪り、この両手を言い訳の立たない血の海に浸し続けた。


 ――けれど、それがどうしたというのだ。

 世界を敵に回そうと、人間にどれほど凄惨な復讐を遂げようと、彼女がもう一度あの綺麗な瞳を開き、魔族の領地で待つ息子と、三人で再び笑い合える未来が戻るなら、私は喜んで地獄の業火に身を投げよう。


 私の『部分未来視パートビジョン』が、いつか必ずその完璧な家族の未来を引っ張ってくると、それだけを心臓の動機にして生きてきた。



 ――メキィンッ、と耳障りな破壊音が響き、手の中から杖の破片が転がり落ちる。


 思考のすべてが、一瞬だけ停止した。

 最大の武器であり、私の歩んできた罪の象徴でもあった漆黒の杖が、少年の蹴りによって真っ二つにへし折られたのだ。


「しまっ…!」


 声にならない焦燥が口から漏れ出た、その刹那だった。

 死の間際、『部分未来視パートビジョン』という私の異能が最後の足掻きを見せたのか。


 私の瞳は、数秒先という浅い時間ではなく、遥か遠くの、狂おしいほどに焦がれ続けた未来の光景をあまりにも鮮明に捉えていた。



 ――脳裏に溢れ出す、白い部屋。火傷の消えたメーリアの姿。

 何を捧げてでも見たかった景色。

 例え、私が死んだとしても――



 引き戻されるように現実へと視線が戻れば、僅か一秒にも満たない後、少年――ファイ君が、再構築リビルドした鉄の剣を両手に握り締め、私の胸元へと真っ直ぐに突き出してくるのが見える。


 かわそうと思えば、わずかに身体をひねるだけの時間はあった。抗おうと思えば、まだやりようはあった。

 だが、私の身体は、嘘のように微動だにしなかった。避けるための予備動作も、抗うための綴力グラフィーも、すべてが心地よく消えていく。


 だって、そうだろう。

 未来は変わらない。彼女たちが救われる結末が絶対なら、そこに私がいないのもまた、動かせない絶対なのだから。


 私がここで終わることこそが、二人の隣にいられない私の、唯一の正しい旅路の終着点なのだから。


 ――私は君たちのそばにいられないけれど。 


 ――君たちが笑える世界が、そこにあるなら、私はもう、何もいらない。


 押し寄せる圧倒的な安心感と愛おしさのなかで、私は無防備に、その刃を受け入れた。


 ズブゥ!!


 胸の真ん中を、冷たい鉄の刃が深く、深く貫通していく。

 口から大量の熱い血が吐き出され、私の身体はガクリと崩れ落ち、ファイ君の肩へと預けられた。


 すぐ耳元で、彼が「何で、避けなかったんだ…?」と、困惑に満ちた声を上げている。


 私の胸を貫いた少年。最後まで意地を通し、泥を啜ってでも私から未来を奪い取ろうとした、強き者。


 必死に冷たくなっていく身体を繋ぎ止めながら、私は彼に、血の混じった涙とともに、私の視たすべてを、そして彼への最期の言葉を紡いだ。


 私はここで死ぬ。

 だけど、君は――


 今なら分かる、いつか見た景色ビジョンを思い出す。


 大切な者を失くすであろう君は――


「最後に…ファイ君。君は…間違えないで…下さいね」


 正義を掲げ、私を倒した君は。

 私のように、誰かのために自分の手を汚し、大切なものを壊し、最悪の道へと足を踏み外すような間違いだけは、どうか、しないでほしい。


 私という最悪の生贄の上に成り立つこの世界で、どうか君は、正しいままでいてくれ。



 それが、一人の女性の幸せを

 ――否、壊された家族の幸せだけを願い続けた、あまりにも不器用で孤独な男の、最期の祈りだった。



 視界が、ゆっくりと完全な闇に包まれていく。


 私の心臓の鼓動が、静かに、優しく、その幕を閉じた――

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