――そこに私はいないから
俺の不敵な笑みに、ソフーテの眉が微かに跳ねる。
だが、ソフーテはすぐさま冷静に身体を引いた。俺の指先が届く直前、完璧なタイミングで後退し、躱す。
「未来はまだ、私の手の中にありますよ」
ソフーテは淡々と言い放ち、後退した勢いのまま杖を鋭く突き出してきた。
なんの前兆もない。ただ、俺が次に動く場所へ、吸い込まれるように杖の先端が迫る。
「くっ…!」
俺は咄嗟に上体をひねったが、身体強化のない肉体じゃ完全に避けきることはできない。杖が頬を掠め、鋭い痛みが走る。
だが、俺はそこで怯まなかった。痛みを奥歯で噛み潰し、握り締めた鉄の剣をソフーテの首元めがけて真横に一閃する。
ガキィンッ!と、不自然な位置で受け止められた。
ソフーテは俺の剣の軌道を完全に先読みし、すでにそこに杖を置いて防いでいたのだ。
「無駄だとなぜ分からないのですか」
「分かってたまるかよッ!!」
俺は叫びとともに、剣を押し込む。
ソフーテの『部分未来視』は確かに厄介だ。俺が次にどう動くか、稀にその瞳が未来を捉え、的確に俺の攻撃を躱し、弾いてくる。
だが、かわされるなら、それ以上の速度で踏み込むだけだ。弾かれるなら、相手の腕ごとへし折る気で剣を振るうだけだ。
俺は弾かれた剣の勢いをそのままに、二撃目、三撃目と泥臭く剣を叩きつけていく。
ソフーテは最小限の動きでそれを躱し、時に杖で受け流すが、俺の狂気じみた気迫と猛攻に、ジリジリと後退を余儀なくされていた。
どれだけ未来が視えていようと、俺の実力と意地がその未来の隙間を容赦なく埋めていく。
「はァッ!」
脳の奥が焼け付くように熱い。視界がときおり赤く明滅する。
限界なんてとっくに過ぎている。だけど、俺の腕は、足は、まだ止まっちゃくれない。止まってはいけない。
ソフーテの放つ鋭い一撃が、俺の左の肩をを深く抉った。
鮮血が舞う。だが、俺はその痛みを推進力に変えて、さらに一歩、前へと踏み込んだ。
ソフーテの瞳に、明確な焦燥が走る。
未来を視て、合理的にかわしているはずなのに、距離が離れない。それどころか、血塗れの俺の執念が、ソフーテの目の前まで強引に距離を詰め、その牙城を物理的に揺るがしていく。
遮るもののない議事堂の屋上で、二人の距離は、再び完全にゼロになる。
右の拳を振るう。
その手に握るは、再構築された鉄の剣。
ソフーテは俺の剣撃を完璧な角度で防ぐため杖を構え、俺の刃を迎え撃つ。
カツン、と。
互いの武器が激突する、その寸前だった。
「――再構築・解除」
俺が呟くと同時に、剣の形状が、一瞬で変わる。
伸びた剣は塵のように消え、元のただの小さな鉄片へと戻っていく。
「!?」
当然、ソフーテの杖に当たるはずだった刃の長さは、消失した。
空を切るソフーテの杖。
どれだけ完璧に軌道を予知していようと、受けるべき物質そのものが消え去れば、その防御行動はただの大きな隙でしかなくなる。
賭けではあった。未来が見られていたら、これすらも防がれていただろう。
一瞬の硬直。
俺はその瞬間に、全身のバネを絞り出すようにして身体を鋭くひねった。
がら空きになったソフーテの懐へとさらに踏み込む。
軸足を議事堂の床に深く突き立て、ひねった身体の遠心力のすべてを、自らの右足へと乗せた。
「うおおおッ!!」
ソフーテの杖の柄めがけて、俺の渾身の蹴りが炸裂する。
メキキィィィンッ!!
鈍い破壊音とともに、これまで俺の行く手を阻み続けてきた漆黒の杖が、中央から真っ二つに叩き割られた。
「しまっ…!」
ソフーテの手から、へし折れた杖の破片が転がり落ちる。
最大の武器であり、魔呪綴の起点でもあった杖を失い、ソフーテの顔に初めて剥き出しの戦慄が走った。
杖を失い、完全にがら空きになったソフーテの胸元。
この好機を、俺の身体が逃すはずがなかった。
手の中で元の大きさに戻った鉄片に、俺は魂を、命を、ありったけの怒号に変えて叫ぶ。
「もう一度だ! 再構築ッ!!」
再び眩い光を放ち、鋭利な鉄の剣が姿を現す。
俺は剣を両手で強く握り締め、ソフーテの胸元へと真っ直ぐに突き出した。
――刺さる。
いや、『部分未来視』なら――例え発動していなくとも、ソフーテなら、紙一重でかわしてくるはずだ。かわされたその先で、どうやって追撃を叩き込むか。俺の脳は、まだ次の泥臭い攻防を必死に演算していた。
――なのに。
「…え?」
刃の先、僅か。
ソフーテの身体は、微動だにしなかった。
避けるための予備動作も、抗うための綴力も、全てが嘘のように消えている。
ソフーテはただ、大きく見開かれた青色の瞳で、虚空を――俺の遥か後ろの何かを、愛おしそうに見つめていた。
死の間際、極限状態の中でソフーテの『部分未来視』が映し出したのは、ほんの数秒先ではなく、遥か遠くの愛しい未来の光景。
「あぁ…」
ソフーテの脳裏に、静かで、穏やかな光が差し込む白い部屋が広がる。
ベッドの上では、長い間苦しみ続けていた妻が、ゆっくりと愛おしい瞼を開く。その顔や身体には火傷の跡が一つもない。
彼女は微かに身体を起こし、愛する夫の姿を探すように、優しく、弱々しい声でソフーテの名前を呼ぼうとしていた。
ソフーテが、ずっとずっと願い続け、そのためにすべてを犠牲にして、悪の組織に入ってまで作り上げようとした、完璧な救済の未来。
――だが。
目覚めた彼女の視界のどこを探しても。
彼女が生きる正しい未来の図の中に、罪を重ねすぎた自分の居場所なんて、最初からどこにも残っていなかった。
「…そう、ですか」
ソフーテの瞳から、一粒の雫が零れ、頬を伝って流れ落ちる。
それは、望んだ未来を求め続けた男に対する、残酷すぎる答え合わせだった。
「あんた何で――」
俺の叫びは、もう引き返せない速度の刃にかき消される。
涙を零した敵を、無防備に立ち尽くす男を、俺の意志とは関係なく、突き出した慣性だけが容赦なく襲う。
ズブゥ!!
肉を裂き、骨を砕き、命の芯を貫く最悪の感触が、両手を伝って俺の脳を直接殴った。
刃はソフーテの胸の真ん中を深く、深く貫通し、議事堂の屋上へとしぶきを散らす。
「ぁ…」
ソフーテの口から、大量の鮮血が吐き出された。
その熱い血が、俺の顔や胸元へと言い訳の立たない質量で豪快に飛び散る。
ソフーテの身体が、ガクリと力の抜けた人形のように、俺の肩へと崩れ落ちてきた。
突き立てた剣を挟んで、お互いの心臓が触れ合うほどの距離。ドク、ドクと、俺の耳元で、ソフーテが必死に繋ぎ止めてきた命の拍動が、急激に弱まっていくのが嫌というほど伝わってくる。
「何で、避けなかったんだ…?」
「あぁ…妻が、妻が…見えたんです」
「妻…?」
「火傷の跡一つない、私がずっと…願っていた、本当に…綺麗な姿で笑っていました」
ソフーテは弱々しく、けれども嬉しそうに話す。
「異能の力…。じゃあ何で…!」
「言った…でしょう?未来は…変わらないと…。私の未来は…絶対です」
「どう、いう――」
「――彼女の笑う未来。そこに…私はいなかった…」
「え…?」
「私がどれだけ手を悪に…染めようと…悪に魂を売ろうと…彼女が救われる未来は…もう確定しています。…彼女の火傷は治り…苦しみから解放される。私の望みは…叶うのです…」
「そう、いうことか…」
「未来は変わりません。彼女が救われる結末が…絶対なら…未来に私がいないのも…また絶対…」
ソフーテは血の混じった涙を流しながら、自嘲気味に、だけど狂おしいほどに穏やかな笑みを浮かべた。
「最後に…ファイ君。君は…間違えないで…下さいね」
「間違い…?」
「……」
俺の肩に預けられていたソフーテの身体から、完全に力が抜ける。
ゆっくりと、ソフーテは俺の肩から滑り落ち、二度と動かなくなった。
――彼女の隣に。私が望んだ未来に、私はいない。
――なら、私の旅は、ここで終わるのが正しい。
それが、要塞都市を統べていた魔族の、妻のために全てを捧げた男の最期の言葉だった。
ソフーテは最後まで、ただ一人の女性の幸せを
――否、家族の幸せを願った、あまりにも不器用で、孤独な男だった。
どれほどの時間が経っただろう。
俺はただ立ち尽くしていた。
「ファイっ!!」
屋上の扉が跳ね返り、泥にまみれたゾルドンとクーガが飛び出してきた。二人は横たわるソフーテと、血塗れの俺の姿を見て、息を呑む。
俺の顔についているのが、自分の血なのか、それとも殺した男の血なのかも、もう分からなかった。
ゾルドンが震える声で、俺の肩を強く抱きしめた。
「やったな、ファイ! お前が、あの怪物を止めてくれたんだな!」
「…よく耐えた、ファイ」
二人の温かい声が、俺の冷え切った身体に届く。
皆が笑える。皆が救われた、正しい世界が、ここにある。
だけど、この正しい世界は、たった一人の男の歪んだ愛と、その絶望を生贄にして成り立つものだった。
――いや、それだけじゃない。
ここに来るまでに奪った命。その家族。それらは全ての人生を犠牲にして、今俺は生きている。
俺は赤く染まった自分の両手を見つめていた。
胸の奥に、じわりと冷たい、拭いきれない違和感が広がっていく。
ソフーテが最後に遺した言葉。
ソフーテが最期に見せた、あの涙。
皆が喜ぶ中で、俺の心だけが、答えのない空白に置き去りにされていた。
「…正義って、何だ?」




