再臨の憎悪
東塔の内部は、驚くほど静まり返っていた。
扉をあけてすぐ、待機していた二人の衛兵と出くわしたが、俺の敵ではなかった。
一人は一撃で意識を刈り取り、もう一人は声を上げる暇も与えず壁に叩き伏せる。崩れ落ちる鎧の音だけが、虚しく塔の壁に反響した。
「これだけか」
拍子抜けするほど手応えがない。俺は倒れた衛兵たちを一瞥もせず、外へと駆けた。
部屋の奥、少し大きめの扉を開けた。
その瞬間、俺の視界を強烈な光が焼き払った。
「っ…!」
太陽だ。
数日とはいえ、最下層区の淀んだ空気と薄暗い空の下で生きてきた俺にとって、それは暴力的なまでの輝きだった。思わず腕で目を覆うが、肌に触れる熱い日差しが、自分が今まさに上の世界に立っていることを実感させる。
久しぶりに浴びる本物の太陽。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
「陽動は成功してるっぽいな。今のうちだ」
東塔の外から上層区の市街地へと続く大通り、本来ならここは着飾った貴族や商人が行き交い、人々の楽しそうな笑い声が聞こえる場所だ。
しかし、今は誰一人として姿が見えない。
上層区へと繋がる大通りを走る。
並び立つ家々の窓は固く閉ざされ、まるで都市そのものが息を潜めているかのようだった。
他の塔の方角からは、激しい戦闘の音が微かに風に乗って届いてくる。仲間たちが命を懸けて暴れているというのに、この東塔エリアだけが死後の世界のように静まり返っている。
不気味すぎる。敵の罠?ギルディエスの作戦勝ち?
あらゆる可能性が脳裏を過るが、今はそれどころではない。
重苦しい違和感を振り払うように足に力を込める。
やがて俺の目の前に、都市の支配を象徴する巨大な建物― 中央議事堂が姿を現した。
美しい壁や柱に囲まれたその中枢もまた、信じられないほど無防備な姿で、俺を待ち構えていた。
中央議事堂の目の前、掌から伝わる扉の冷たさが、現実味を帯びて俺の脳を叩く。
力を込めると、巨大な扉は見た目の重厚さに反して、吸い込まれるように音もなく左右へ開いていった。まるで、俺が来るのをずっと前から知っていて、歓迎しているかのように。
「ッ!」
開かれた隙間から溢れ出してきたのは、むせ返るような香水の匂いと、ここまでの道中と同じ、不気味なまでの静けさだった。
正面に広がる大ホール。
そこには、俺が想像していたような、待ち構える衛兵の姿はどこにもなかった。代わりに、磨き抜かれた大理石の床に、高い天井から差し込む陽光が綺麗な模様を描き、静謐な空間を演出している。
一歩、中央議事堂へと足を踏み入れる。
深い赤の絨毯を靴が踏みしめるたび、その感触が俺の覚悟を試しているようだった。
視線を上階へと続く大階段に向ける。その先、議事堂の最深部へと続く回廊の入り口。
一先ず俺は大ホールを目指すことにし、念のため腰のナイフを強く握りしめた。
陽動のおかげかここまで無傷で来れた。だが、この不気味なほどの空虚こそが、この都市を支配する者たちの歪んだ自信そのものに見えてならない。
「逃げも隠れもしないってことかよ」
俺は周囲を警戒しながらも、迷いなくその豪華すぎる空間の奥へと突き進んでいく。
扉の向こうに待ち受けているのが、絶望か、それとも――
大ホールへと足を踏み入れる。
一気に張り詰める緊張。
だが、そこに待ち受けていたのは、怒号でも伏兵でもなく――ただ、耳が痛くなるほどの静寂だった。
「…誰も、いないのか?」
拍子抜けした、というのが本音だ。
あれだけ豪華な内装を誇り、議事堂の最深部へと続くこの場所だ。もっと、こう…厳重な警備が敷かれているものだと思っていた。
握りしめていたナイフの柄から、わずかに力が抜ける。
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩みそうになったその時だった。
「おやおや、お客様かな?」
どこか場違いな、朗々とした声がホールに響き渡った。
「っ!?」
反射的に声のした方、二階へと続く大階段の踊り場を見上げる。
そこには、一人の男が立っていた。
まず目を引くのは、橙色の髪― ではなく、その顔面だった。
顔の大部分を、まるで重傷を隠すかのように白々とした包帯が隙間なく覆っている。
包帯の隙間からのぞく瞳は、細く、糸のように閉じられている。
笑っているのか、あるいは蔑んでいるのか。その表情を読み取ることはできない。
「何者だ」
俺が問いかけると、包帯の男は優雅な所作で階段の手すりに手をかけ、こちらを見下ろした。
「それは僕の台詞ですよ?僕は名乗るのが好きじゃないんですが…仕方ない。僕もあなたに聞きたいことがありますし…」
そう言うと糸目の男は口角を少し上げて名乗った。
「僕は、要塞都市衛兵団四番隊隊長、ニルヒ・ササルゲ」
「俺は―」
「あぁ、いいですいいです。あなたに興味はありません。代わりに聞きたいんですけど…あなたはクーガという男の場所を知っていますか?」
俺の話を遮った男― ニルヒの纏う空気が変わる。
糸目の奥から、形のない圧力がホール全体へと染み出していく。
だが、今の俺にとってはそんなことはどうでもよかった。俺が一番気になったのは―
「クーガの知り合いか?」
ニルヒの口から、聞きなれた名前が出てきたことである。
「逆に聞きます。その口振りからするに…あなたはクーガの仲間ですか?」
ニルヒは糸のような目をさらに細め、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「仲間か。仮にそうだとしても、お前のようなやつには教えないけどな」
ニルヒのこちらを値踏みするような視線に、俺の奥歯が自然と噛み合わさる。
数秒後、ニルヒが放つプレッシャーはさらに密度を増し、ホールの空気が物理的な重さを持って俺の肩にのしかかってきた。
「戦うしかないのか…」
俺がナイフを構え、地を蹴ろうとした、その時。
「おっと、待った。早まらないでほしい。ここにいるのが僕一人だと思っていませんか?」
ニルヒがパチンと指を鳴らす。
刹那、ホールの周囲にあるいくつもの扉が、靴の音と共に一斉に開かれた。
「っ、伏兵!?」
隣接する部屋、そして上階の回廊。そこには他隊の衛兵たちが、逃げ場を塞ぐようにして武器をこちらに向けていた。
「驚いたかな? でも、不思議なことじゃないですよ。市長は予期していました。もし無謀にもここへ攻め入る者がいるとすれば、中央議事堂に最も近い『東塔』から来るだろう、と。…実際、あなたは市長の読み通りに現れてくれましたし」
ニルヒは悠然と階段を下りてくる。その足取りには、最初から勝利を確信している者の余裕があった。
「それに、今日は大切な『会議』がある日です。そんな日に、あなたのような不確定要素を放置しておくわけにはいかないので…。残念ですが、ここでお別れです」
衛兵たちの無数の殺意が俺を飲み込もうとした瞬間、俺は握るナイフに高密度の綴力を纏わせる。
ガチリ、と無数の刃が俺に向けられる。だが、俺は不敵に口角を上げた。
「――伏兵程度じゃ、俺は止まらないぞ」




