開戦の音
――翌朝
最下層区を覆う霧は深く、湿った冷気が肌を刺す。
アジトの入り口。俺たちは言葉を交わすことなく、それぞれの装備を最終確認していた。
昨日まで同じ机を囲んでいたはずのギルディエスやゼクフィスの横顔が、今は見たこともないほど鋭いものに変わっている。
「よし、行くぞ」
ギルディエスの短い一言が、出撃の合図だった。
それぞれが自分の担当する塔の方向へと足を踏み出す。
「生きてまた会おうぜ、ファイ」
ギルディエスが俺の肩を一度だけ強く叩き、南へと向かう。
隣ではゼクフィスが、背を向けたまま「へますんじゃねぇぞ」とだけ残して北の闇へ消えていった。ゼクフィスなりの応援なのだろう。
俺もまた、独りで東の塔を目指して走り出す。
まだ街は静かだ。既に下層区で待機している、ギルディエスの部下たちが仕掛けた種が芽吹くのを、今は息を潜めて待つ。
――数十分後
俺は東塔の根元、螺旋階段を登っていた。
そこに行くまでは特に問題は無く、順調そのものだった。
暫く階段を登り下層区との窓口である扉にたどり着いた、その瞬間だった。
――ゴオォォォォオオォンッ!!
西の方角、ギルディエスの部下たちがいる場所付近で巨大な爆発音が聞こえた。
それは、ギルディエスの部下たちが設置した爆薬による先制攻撃。それが、この攻防戦の幕開けだ。
始まったか…
爆発音を合図に、四つの地点で同時に作戦が動き出す―
――要塞都市、南塔
石造りの巨大な塔が、底から震えていた。
地上の爆音を合図に、ギルディエスは螺旋階段を駆け上がって、正面から扉を蹴破った。
「おらッ!」
ギルディエスの剛腕が空を切り、扉の奥に立っていた衛兵二人の腹部を捉えた。鎧がひしゃげる鈍い音と共に、衛兵たちは吹っ飛び、転がっていく。一人はそのまま、下層区へと繋がる扉から外へ吹っ飛んでしまった。
動かなくなった衛兵を一瞥し、ギルディエスはその扉の先―― 塔の外へと足を踏み出した。
「っ!」
その瞬間、彼は思わず足を止めた。
目の前に広がっていたのは、最下層区の薄暗い天井ではない。どこまでも高く、どこまでも深い、本物の空だった。
「これが…外の、空気か」
大きく胸いっぱいに吸い込む。
生ゴミの腐った臭いもなければ、腐った水の湿気もない。肺の奥まで洗われるような、冷たくて透き通った空気。
最下層区で生まれ育ったギルディエスにとって、それはどんな高級な酒よりも美味く感じられた。
「これなら、命懸けて暴れる価値はあんじゃねぇか」
ギルディエスは不敵に笑うと、誰もいない下層区の街並みを歩き始めた。
整然と並ぶ石造りの建物、手入れされた街路樹。すべてが眩しく、腹立たしいほどに美しい。
だが、その感慨はすぐに、肌を刺すような殺気によって塗り替えられた。
静まり返った通りを少し進んだ、その先。
広場の中央で、まるで山のように不動の構えを見せる白髪の男がいた。
白銀の甲冑が朝日を反射し、腰にかけた剣が、不気味な威圧感を放っている。
男がゆっくりとこちらを向いた瞬間、ギルディエスは本能的に悟った。
目の前にいるのは、先ほど相手にした雑魚ではない。強者の類だと。
「自殺志願者か?」
男の声が、大気を震わせる。
「死ぬのはお前じゃないか?」
ギルディエスは首を回して筋肉をほぐすと、拳を固めた。
皮膚の裏側で、鍛え上げられた力が荒々しく脈打ち始める。
「オレはギルディエス。『不死の不良品』ギルディエスだ」
「俺は、要塞都市衛兵団一番隊隊長、スムライバ・バーツァル」
互いに名を名乗れば、それ以上の会話は不要。
要塞都市最強の筋肉と、最強の剣。
今この時、二人の怪物が正面から向き合った―
――要塞都市、北塔
西から響く爆音をゼクフィスは身体ではっきりと感じていた。戦いが始まったのだと。
ゼクフィスは影のように音もなく、北塔の螺旋階段を駆け上がっていた。
下層区へと続く扉の奥から、複数の慌てふためく声が聞こえる。
「何だ、今の音は! 西側か!?」
「確認しろ、すぐに応援を――」
そんなことはお構い無しと言わんばかりに、ゼクフィスは扉を蹴破り、ナイフのような風を置き去りにし、扉の向こうの喧騒を一蹴した。
「っ!?」
ゼクフィスは抜剣すらしない。
すれ違いざま、手首の返しだけで衛兵たちの首筋を正確に打ち抜く。
ガシャリ、と鎧が重なり合う音だけを階段に残し、衛兵たちは声を上げる暇もなく崩れ落ちていった。
ゼクフィスは止まることなく、下層区へ繋がる扉へと辿り着く。一応、今までいたのも下層区ではあるが…
ゼクフィスが重い石扉を押し開けると、そこは眩いばかりの光に満ちた外の世界だった。
「っ!」
一歩踏み出した瞬間、肺の奥まで洗われるような冷気が彼を包む。
見上げれば、遮るもののない蒼穹。
最下層区の、あの鼻を突く臭いはどこにもない。ただ冷たく、透き通った空気。
「下よりはマシな空気だな」
ゼクフィスは独りごちると、感情を殺した瞳で、自身の役目である、二番隊という障害を排除すべく、その歩みを速めた。
初めて踏みしめる下層区の地面は、驚くほど清潔で、どこか非現実的ですらある。
だが、その静寂はすぐに、後方から感じる異質な存在によって破られた。
ゼクフィスは通りの真ん中で歩みを止め、振り返る。
そこには、こちらへ向かって悠然と歩いてくる一人の男がいた。
その男は、朝日を反射して輝く純白の鎧を全身に纏っている。
一歩歩くたびに、周囲の空気がじりじりと焼けるような殺気が伝わってくる。
ゼクフィスは足を止め、男を冷静に見定めた。
一般の衛兵とは一線を画すような殺気。そして、揺るぎない自信に満ちた身のこなし。
ゼクフィスは確信する。この男を斬らねば、目標へは辿り着けない。
「白い鎧か。出血が目立ちそうだな」
ゼクフィスが静かに毒を吐くと、純白の鎧の男は立ち止まり、オールバックにしている自身の青髪を触り、腰の二振りの剣に手を添えた。
「今は外出禁止の筈だが…。ここを歩いてるってことは敵ってことでいいのかい?土下座すれば見逃してやらないこともないがね」
男がゆっくりと抜剣する。
冷たい風の中に、一気に鉄の匂いが混じり始めた。
「自分は鬼じゃないので、殺す前に名前ぐらいは聞いといてあげますよ」
「俺は、『瞬刻の風雷』ゼクフィス」
「自分は要塞都市衛兵団二番隊隊長、ボジュラ・サマージュル」
「そうか、疾く、死ね」
その言葉を置き捨てた瞬間、ゼクフィスの姿は風に溶けるように消え、白銀の鎧へ向けて一閃が放たれた―




