綴力(グラフィー)を纏え!
翌朝。窓から差し込む薄暗い光が、新しい眼帯を乗せた机の上を照らしていた。
全身を襲う凄まじい筋肉痛に、俺は顔を顰めながらベッドから体を起こす。昨日、ゼクフィスに叩き込まれた衝撃が、あざとなって身体のあちこちに刻まれていた。
「痛てて…」
しかし、不思議と気分は悪くない。
重い身体を引きずるようにして立ち上がり、顔を洗う。鏡の中の自分は、たった一日でどこか顔つきが変わったように見えた。
俺は机に置かれたナイフを手に取り、その重みを確かめる。
「よし」
ギルディエスのアジトは、まだ静まり返っている。
俺は誰にも声をかけず、静かに部屋を出た。
外に出ると、要塞都市特有の湿った冷たい空気が頬を打つ。
目的地は、昨日と同じ場所だ。歩くたびに身体がきしむ。
「でも、止まってられないよな」
俺は新しい眼帯を今一度きつく締め直し、修行の二日目へと足を踏み出した。
地下水路の重苦しい空気が、昨日よりも冷たく感じる。
目的地に着くと、ゼクフィスはすでにそこにいた。壁に寄りかかり、手元で小さな石を弄んでいる。
「来たかよ。…テメェ、身体中あざだらけじゃねぇか。回復してもらえよ」
「いや、昨日の感覚を忘れたくなかったんだ」
「正気かよ…」
ゼクフィスは鼻で笑い、弄んでいた石を俺の足元へ放り投げた。
「相変わらず口は達者だな。だがな、今日やるのは昨日みたいな追いかけっこじゃねぇ。――綴力を扱う訓練だ」
ゼクフィスは俺のところへ歩み寄り、こちらを見据える。
「綴力についてはどこまで知ってやがる?」
「魔呪綴を綴るためのものだってことくらいは…。あとは―」
「はぁ~~」
俺が話している途中に、ゼクフィスが呆れたように頭を搔く。
「いいか?綴力ってのはインクだ。ペンのインク。そしてペンはお前。つまりお前は、身体の中のインクを使って世界って紙に文字を綴ることができる。それが魔呪綴だ。」
「なるほど…」
分かりやすい。非常に分かりやすい。
「だが、綴力には他にも使い道がある。それが、付与魔呪綴だ」
「あたっちすぺる?」
聞いたことのない響きだ。
「あぁ。簡単に言うと、武器や身体に魔呪綴を綴るってことだ。だが、綴る対象が紙から石になるって訳だから当然難しくなるがな。で、テメェの属性は何だ?」
「………」
言葉に詰まる。あの神官には言うなと言われていたが…
「おい、何黙ってやがんだ。疾く、答えろ」
「俺の属性は…」
答えが決まる。
「無いんだ…。適性属性無し」
「マジかテメェ…」
ゼクフィスが驚愕に目を見開く。そのまま呆れたように再び頭を搔くと
「じゃあ今日の修行は終わりだ。疾く、帰って筋トレでもしとけ」
と言って歩きだした。
「待て、待て、待ってくれ…!」
俺は去ろうとする背中に急いで声をかける。
「一つ教えて欲しいことがあるんだ。昨日お前がやってた、石に綴力を纏わせるやつ」
俺の言葉に、去ろうとしていたゼクフィスの背中が目に見えて強張った。
ゆっくりと振り返る彼の瞳には、明らかな驚きが混じっている。
「テメェ、あれが分かったのか?」
「え?」
予想外に鋭い反応に、俺は思わず毒気を抜かれた。
ゼクフィスは無言のまま、再び足元から別の石を拾い上げ、指先で軽く触れた。
一瞬、石が綴力を纏う。
それは、意識して凝視しなければ、熟練者でも見抜けないほどに、極限まで洗練された技術だ。
「それだ、それのやり方が知りたい」
「こいつ、マジで言ってんのか」
ゼクフィスは内心、驚きを通り越して恐怖すら感じていた。
今のは、熟練の魔呪綴師であっても、目の前で全神経を集中させていなければ見落とすほどの微量な綴力。
それを、ただの素人のガキが、当然のように見抜いている。
ゼクフィスの視線がファイの右眼へと移る。
眼帯に隠されたその奥に、底知れない、化け物じみた能力が潜んでいるのではないかと疑う。
かつて戦ったどんな化物よりも不気味な何かが―
「いや、違うな…。今も昨日も、綴力を纏わせた時、こいつの魔眼は眼帯に覆われていた…」
ゼクフィスはぶつぶつと独り言を呟いていたが、やがて「チッ」と舌打ちをして俺を睨み据えた。
「まぁいい。テメェが何を見ていようが、使えなきゃ意味ねぇからな」
彼は強引に話を戻すように、自分の腕を軽く叩いた。
「教えてやるよ。これはただ、綴力を纏わせるだけだ。でもそんな簡単じゃねぇ。今までは文字を書くのに使っていたインクを、今度はそのままぶっかけるイメージだ。かけすぎても駄目だしかけなすぎても駄目、そこの調節が出来ねぇと戦闘じゃクソの役にもたたねぇ」
そこまで言うと、ゼクフィスは一度区切る。
そして―
「言葉より行動だ。疾く、始めるぞ」
唐突に地獄の修行が始まった。
――どれくらい経っただろう。
足元には、俺が綴力を流し込みすぎて粉々に砕け散った小石が、山のように転がっている。
「くそっ、またか」
指先が熱い。インクをぶっかけるどころか、高圧洗浄機で無理やり流し込んでいるような感覚だ。多すぎれば石は内側から爆ぜ、少なすぎれば綴力は何の意味もない。
「遅ぇ! 考える前に流せ! 意識を石に割きすぎんな!」
先ほどまで傍観を貫いていたゼクフィスの怒声とともに、横から拳が飛んでくる。
「イタッ!いきなり殴んなよ! 石の練習中だったろ!」
地面に這いつくばったまま、俺は腫れ上がった頬を押さえて怒鳴り返した。
だが、ゼクフィスは悪びれる様子もなく、鼻で笑う。
「あぁ? 本番で敵が、「綴力を纏えるまで待ってあげます」なんて言ってくれると思ってんのか? 疾く、死ぬぞテメェ」
「それはそうだが…」
「いいか?実戦じゃあ、思考と行動の間に隙間を作った奴から、疾く、死ぬんだよ。重要なのは思考と行動を同時にすることだ」
ゼクフィスは再び、威圧感のある一歩を踏み出してくる。
「今の一撃、昨日のテメェなら避けれただろ?石に綴力を流そうとして、意識がそれ以外に向いてねぇ。動け、さもなきゃ死ぬぞ」
理不尽だと思う。
だが、こいつの言う通りなのだ。本番でそんな悠長なことは出来ない。
「分かった。次はその面、ぶん殴ってやるよ」
俺はふらつく足で立ち上がり、拳を構える。
「言うようになったじゃねぇか。ほら、行くぞ!!」
ゼクフィスの拳が空気を切り裂き、俺の鼻先をかすめる。
避けるだけで精一杯だ。だが、石で練習したあの感覚が、脳裏から離れない。
無機質な石に流し込むのはあんなに苦労した。でも、自分の拳ならどうだろうか。
石は異物だ。だから調整が難しい。
だが、この拳は俺のものだ。
つまり―
「綴力が、扱いやすい!」
俺は回避のステップを踏みながら、右の拳に意識を凝縮した。
インクをぶっかけるんじゃない。自分の血を拳に集めるように、自然に、かつ圧倒的な密度で綴力を纏わせる。
右の拳が熱を帯びたような気がした。
昨日までの戦い方とは違う、拳そのもので相手と張り合う感覚。
「行くぞ!!」
ゼクフィスの追撃。その重いストレートを、俺はあえて避けずに、綴力を纏わせた右の拳で真っ向から迎え撃った。
ガキィィィィンッ!!
肉と肉がぶつかり合う音じゃない。金属同士が激突したような硬質な衝撃が、広い最下層区に響き渡る。
「ぐぬっ…」
二人の拳が相殺され、バランスを保てなくなって距離が開いた。
「テメェ、コツを掴みやがったな」
ゼクフィスが驚きを通り越し、面白そうに笑う。
「さぁ来いよ。次は手加減なしで、疾く、潰してやるよ」
「こっちのセリフだ」
ゼクフィスの言葉に勇ましく応じ、拳を構える。先ほどのように綴力を纏わせようと意識を集中させ、集中させ、集、中…
身体から力が抜けていく。俺の身体は鉛のように重くなり、そのまま地に膝をつく。
「そりゃそうか。昨日から回復無しでやってたんだっけか。バカだな、テメェ。でもまぁ、今日はここまでにしといてやるよ。俺の拳を弾いた。及第点だ」
ゼクフィスは荒っぽく俺の肩を掴むと、力の抜けた身体を引きずるようにして歩き出した。
「明後日には上の連中に殴り込みだ。明日の作戦会議までにそのボロ雑巾具合を叩き直してこい」
水路の外は、すでに深い夜に包まれていた。
俺は痺れる右の拳をそっと握りしめる。昨日とは違う、確かな力がそこにはあった。
こうして、地獄の修行を終え、俺たちは帰路についた。




