地獄の二日間
「ッ!」
俺はゼクフィスからの殺気がさっきより増したのを肌で感じ取ると同時に、先程貰ったナイフを腰から取る。
それは、ただの修行の空気じゃなかった。殺す気で来る。でなきゃ、俺の実力なんて引き出せないと、ゼクフィスの瞳が語っていた。
「構えだけは一丁前じゃねぇか」
ゼクフィスがゴミを投げ上げると同時、地面の石を一つ蹴り上げた。
それはナイフや剣とは違う。武器ですらない、ただの石ころだ。だが、ゼクフィスの綴力を纏ったその石は、まるで光のような速度で俺の眉間へ向かって飛来した。
間に合え!
全身のバネを使い、紙一重で石を避ける。頬を鋭い風が掠めた。
「遅ぇよ」
避けたと思った瞬間、ゼクフィスが目の前にいた。
残像すら残らない。ゼクフィスの気配を掴む前に、重い蹴りが俺の腹にめり込む。
「が、はっ!」
蹴飛ばされた衝撃で地面を転がる。口の中に鉄の味が広がった。
俺は弱かった。それぐらいは分かっていた。そもそも、それが原因で皆を窮地に立たせているんだ。
だからこそ―
「もう一回だ!」
ゼクフィスが再びゴミを投げ上げた。
避ける、転がる。避ける、転がる。避ける、転がる。避ける、転がる。避ける、転がる。避ける、避ける、転がる。避ける、避ける、転がる。避ける、避ける、転がる。避ける、避ける、避ける、転がる。避ける、避ける、避ける、転がる。避ける、避ける、避ける、駆ける、転がる。避ける、避ける、避ける、駆ける、そして―
俺のナイフが初めてゴミに届く。だが―
「クソっ…!」
俺のナイフがゴミを切断するより速く、ゼクフィスの蹴りがぶちこまれた。俺はなんとか受け身を取り、足から着地する。
「テメェ、今のが実戦だったら、疾く、死んでたぞ。テメェの目的はこれを切ることだが、その過程で俺にやられたら意味がねぇ」
ゼクフィスがゴミを手の上で遊ばせてる。
「だがまぁ、たったこれだけでここまで成長するとは思ってなかったぜ」
「あぁ。強くなんなきゃだからな」
俺が再びナイフを構える。
「行くぞ」
ゼクフィスが低く言い、動き出す。
――目的を忘れない。
ゼクフィスの蹴りが俺の顔の前を通り過ぎる。
ゴミが落ちるまで、あと三秒。
――過程を忘れない。
ゼクフィスの拳を身を捻って躱す。
ゴミが落ちるまで、あと二秒。
視界の端で、ゆっくりと落ちていくガラクタがスローモーションに見える。
だが、現実は残酷だ。ゼクフィスの追撃は一秒に満たない間隔で襲いかかってくる。
空気を切り裂く鋭い音が耳元をかすめ、死の気配が肌を焼く。
ゼクフィスがさらに踏み込み、回し蹴りを放つ。
俺はそれを防ぐのではなく、自ら懐に飛び込むことで軌道を殺した。
衝撃が全身に走る。骨が軋む音が脳内に響くが、意識はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。
――目的を忘れない。
――過程を忘れない。
そして――今この瞬間の感覚を忘れるな。
ゴミが落ちるまで、あと一秒。
ガラクタが俺の眼の高さまで降りてくる。
同時に、ゼクフィスの右の拳が俺の腹部へと放たれた。
「ここしかないッ!」
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
ゼクフィスの今までの動きを、技を、立ち回りを。
観察しろ。観察しろ。観察しろ。
ゼクフィスの今の動きを、次の行動を、そして技を。
その時、右眼の奥に焼けるような熱が走った。
あまりの熱量に脳が灼かれそうになるが、集中しきっている今の俺は、その異変にすら気づかない。ただ、修行中に眼帯が取れ、右眼の世界が劇的に変貌したことだけを、本能で理解していた。
ゼクフィスの筋肉のわずかな震え、空気を踏みつける瞬間の力のうねり。その全てがスローモーションのように脳内へ流れ込んでくる。
俺は、無意識にその軌跡をなぞった。
「あぁ!?」
ゼクフィスが初めて目を見開いた。
俺の身体は、ゼクフィスの洗練された動きを、不格好ながらも再現していた。骨がきしみ、筋肉が悲鳴を上げるが、止まらない。
躱した先、さらに追撃に来るゼクフィスの拳。
俺はゼクフィスの動きでその拳を受け流す。
視界の中央で、放り投げられたゴミが静止しているように見えた。
俺はゼクフィスが次の行動をする前にその横を高速で駆け抜ける。
「決めるッ!!」
俺は叫びとともに、渾身の力でナイフを振り抜いた。
カキンッ、と硬質な音が響く。
二つに分かたれたゴミが、俺の眼の前に落ちる。
右眼の熱が、潮が引くように消えていく。
俺は激しい目眩に襲われ、膝をつきそうになりながらも、地面に落ちたゴミを凝視していた。
「やっ、と…切った、ぞ」
後ろで静かに立ち尽くしているゼクフィスの驚きが今の俺には見えなかった―
数秒した後、ゼクフィスが口を開く。
「おいテメェ、今の動きは何だ?」
「?」
「何でこの数時間で今の動きが出来るようになる?」
ゼクフィスの問いは、驚きを通り越して警戒に近い色を帯びていた。
俺は肩で息をしながら、震える手でナイフを鞘に戻す。
「俺にも、よくわかんないんだ」
嘘じゃない。
今の動きをどうやったのか、説明しろと言われても言葉が出てこない。
「ただ、お前の動きを思い出そうとしたら、勝手に体が動いたんだ。要するに、ただ単に必死だっただけだ」
右眼の熱はもう引いている。あれほど熱かった感覚も、今となっては極限状態が見せた幻覚だったんじゃないかと思えるほどだ。
ゼクフィスは黙ったまま、俺の顔をじっと見つめている。その視線が、一瞬だけ俺の右眼に止まったような気がした。
「無自覚で出来るかよ…」
ゼクフィスは吐き捨てるように言うと、背を向けて歩き出した。
「原理がどうだろうが、切った事実は変わらねぇ。一日目、合格だ。今日の修行はこれで終わりにしてやる。だがこの後も筋トレぐらいはしとけ、お前は非力過ぎる」
「確かに…」
思い返してみれば、俺の戦いは基本受け流しからの不意打ち反撃だ。これからは正面切っての力勝負も出来るようにしなくては…
その後、ゼクフィスは立ち止まらず、そのまま暗い街の奥へと消えていった。
――暗い路地裏に入り、ゼクフィスは壁を感情のまま殴り、呟く。
「あれは俺の動きだ。まだ少し無駄があるが、あの動きが数時間で出来る訳がねぇ。一体何モンなんだ…あいつ…」
その声は、誰にも聞こえなかった。
修行を終えた俺は、ギルディエスのアジトに戻った。彼には「準備が整うまでここを使っていいぜ」と言われ、空き部屋の一つを住まわせてもらっている。
ボロボロの身体を休めるべきなのは分かっている。だが、今は座っていることすらもどかしい。
俺は狭い部屋の中で、再びステップを踏んだ。
意識するのは、少し前にギルディエスから言われた言葉。「今さら「皆のために何もしない」なんて選択肢は、もう残ってねぇんだよ」だったっけか、その通りだ。自分の道は自分で切り開く。
俺は新しい眼帯をつけた右眼を触る。魔眼の熱は引いているはずなのに、一度掴んだあの感覚が、神経の端々にチリチリと残っているようだ。
シュッ、と空気を切り裂く音が響く。
ゼクフィスの踏み込みをなぞり、最短距離で拳を突き出す。完璧には程遠いし、無駄な動きも多い。一歩踏み出すたびに膝が悲鳴を上げる。
それでも、昨日の自分なら到底届かなかった速度域に、今の俺は手をかけている。
「ふぅ、流石に疲れるな…。一度休憩しよう…」
滴る汗が床に落ちる。
俺は机の上に置いていた、修行で使ったあのナイフを手に取った。
再構築だけじゃない。この肉体そのものが、実戦の中で進化し始めている。
誰が相手だろうと、一方的にやられはしない。
「後少しやるか…」
そう胸に誓って、俺は再び鍛練を始めた。




