不条理の重さ
――踏み出す一歩ごとに、足裏へ重苦しい感覚が伝わってくる。
霧の残骸を掻き分けるようにして歩を進める視界の中で、白く煙る静寂がゆっくりと薄れていく。
短剣の柄を握り締める指先が、汗と凝固した血で粘りついていた。
腹の肉を掠めた痛撃が、呼吸のたびに灼熱の鉄を突き刺されたかのような激痛となって脳肉を揺さぶる。立っていることすら不自然なほどの満身創痍なのだ。嫌な汗が額を伝い、視界の端を朱色に染め上げていく。
心臓が、耳元で煩わしいほどの高鳴りを打っていた。
死線に片足を突っ込んだ限界の恐怖。でも、今の俺には諦めるという選択肢はない。
顔を上げる。視線の先――血と氷片に塗れた大地に、巨体が横たわっていた。
――タフノティシィだ。
胸元を深く切開され、溢れ出た血が白銀の大気と混ざり合って黒ずんだ赤を形成している。ぴくりとも動かない。
「……タフノティシィ」
掠れた低い声を投げかける。
応えはない。胸の上下すら視認できないほど微かな呼吸だ。
嵐の渦中で何が起きていたのか、その詳細は俺には分からない。だが、この惨状が全てを物語っていた。あれほど圧倒的なモノを形作り、空間そのものを支配していたタフノティシィが、敗れたのだ。
『……は、ははっ』
不快気な、濁った嘲笑が耳腔を叩く。
ゆっくりと首を巡らせ、魔獣がこちらへ焦準を合わせた。
『死に体だろうが立ち塞がるか』
「あぁ、死にぞこないだからこそ、ここまで来れたからな」
その異形を目に焼き付けた瞬間、俺の奥歯が自然と噛み合わさった。
――酷い惨状だった。
元より身体の至るところが欠陥した怪異めいた見た目だったその肉体は、今や見る影もなくズタズタに引き裂かれている。全身の三肢には深々と氷の棘が刺さったまま破断し、その隙間から禍々しい液体と黒ずんだ肉片が撒き散らされていた。
首元から肩口にかけても無数の穿孔が穿たれ、一歩動くごとに自重で肉が千切れ落ちそうになっている。
『無価値な足掻きだ。その身体で何ができる?そこの男と同じように、無残に切り刻まれるだけぞ』
「無価値かどうかは、やってみたらわかることだろ」
もしあれが普通の人間なら、あるいは通常の魔物であっても、とうの昔に絶命して地に伏せているはずの不快な傷口。生きていること自体が世界の理を無視した異常さだ。
――だが、通っている。
タフノティシィの決死の戦いは、無駄ではない。
あの化け物の圧倒的な質量と威容は、確実にその命脈を削り取られている。
『笑止。この『呪刀』で、お前を葬ってやろう』
紫の呪いらしきものを纏う刀――『呪刀』が、じり、と音を立てて持ち上がる。『呪刀』という響きに覚えはないが、警戒はしておいた方がいいだろう。それに、魔獣の言葉が滑らかになっている。あれも何か――いや、今はそんなことを考えている暇はない。相手がどれほどボロボロであろうと、あの刀身が一線を描けば、俺の首など紙切れのように容易く跳ね飛ぶのだ。今はただ――
「――命の無駄遣い、見せてやるよ」
引き千切れるような腹の激痛を無視し、指先の感覚が失われかけた手で短剣を握り直す。
圧倒的な威圧感など、今のあいつには存在しない。あるのはただ、一本の刀と、瀕死の肉体だけだ。
ならば、やるべきことは最初から決まっているだろう――
思考を研ぎ澄ませた一瞬、正面の大気が弾けた。
――速い。
紫の呪気を撒き散らしながら、死に体のはずの魔獣が霧の合間を一直線に間合いを詰めてくる。
――だが、見えないほどじゃない。最初に遭遇した時の、空間ごと削り取られるような理不尽な速度に比べれば雲泥の差だ。タフノティシィが命を削って刻んだ傷が、確実にやつの踏み込みを狂わせている。
いける――
俺は身体の奥底に残されたわずかな力を絞り出すようにして、短剣を斜めに構えた。
迫る『呪刀』の刃筋を見極め、真っ正面から迎え撃つ。
ガキンッッ!!
硬質な金属音が鼓膜を刺す。
せめて一瞬でも拮抗させ、いなす――そう踏んでいた。
けれど、次の瞬間に視界が激しく揺れた。
「はっ……!?」
衝撃波とともに、俺の身体は無造作に後方へと弾き飛ばされていた。
地面を十数メートルも滑り、強烈な打撲激痛が全身を駆け抜ける。
「……何なんだ、この重さ……」
起き上がりながら、困惑に唇を噛む。
おかしい。あの踏み込みの鈍さ、身体中の傷からして、筋肉の出力自体は間違いなく落ち込んでいるはずだ。なのに、刃が触れ合った瞬間に伝わってきたのは、山石でも叩きつけられたかのような不条理な質量。力比べで勝てる道理がない。
『お前、口ほどにもないな』
「まぁな。よく言われるよ」
こちらの疑問を嘲笑うように、魔獣が追撃の地蹴りを放つ。
考える時間すら与えられない。
ズバッ!ズガンッ!
短剣の身を滑らせ、かろうじて直撃だけは逸らす。
だが、いなすたびに削り残された衝撃が腕を突き抜け、肉を割く。頬が切れ、肩の皮膚が弾け、朱色の血飛沫が舞う。防戦一方。一歩退くごとに、新しい傷が全身に刻まれていく。
『どうした、死にぞこない。先ほどの威勢はどこへ消えた』
「黙って……叩いてろよ……っ!」
血混じりの唾を吐き捨て、俺は泥を蹴って後ろへ大きく跳んだ。
『不格好に逃げ回るだけとは、つまらん男だ』
心底退屈そうに吐き捨てながら、魔獣が踏み込んでくる。
――それでいい。
言葉を返す余裕すらないフリをして、俺はひたすら後方へと間合いを下げ続けた。
作戦はいくつかある。そして、この不条理な力押しを崩すための芽もまた――一つ、ある。
ドガァンッ!!
放たれた一閃。短剣の身で受け止めた瞬間、腕の骨が軋む嫌な音が響き、俺の身体は文字通り宙を舞った。
無様に転がり、視界が明暗を繰り返す。
なんとか膝を立て、血の味のする息を吐き出しながら立ち上がる。もう体勢を立て直す余裕なんてどこにもない。
……だが、背中の感覚で分かった。
引ける限界の、目指していた位置へ辿り着いたことを。
「――刻め!!」
左手を大地へ叩きつける。
先ほど体内に掠め取り、残しておいたルナネアの魔呪綴――それを綴る。
ガゴォッ!
俺の目の前で、水と泥がドロドロに混ざり合った巨大な防壁が急速に隆起する。
視界が完全に遮断される。
『小細工を――ッ』
壁の向こうから、不快気な咆哮と激しい風切り音が響いた。
次の瞬間。
ズバァンッッ!!
肉厚の泥壁が、紙切れみたいに無残に切り裂かれ、四散した。
防壁ごときで止まる相手じゃないことなんて、最初から分かっている。
紫の呪気を纏った『呪刀』は、泥の壁を易々と破り、その勢いのまま後ろに潜んでいたそれへと一直線に振り下ろされた。
――俺が魔呪綴で隠していた、金属の塊へと。
ズシャアァァァッッ!!
耳を突き破るような破砕音が響き渡る。
質量を超越した『呪刀』の不条理な一閃は、喰らいついた巨大な金属塊を力任せに抉り、深々とその内部へ裂け目を刻み込んでいた。高密度な金属が削れ飛び、嫌な金属粉の煙が弾け跳ぶ。
『これはっ……』
魔獣の濁った瞳に、はっきりと狼狽の色が走った。
強引に振り抜こうとした刀身が、破壊された金属塊の内部で歪んだ構造に噛み合わさり、一瞬だけ――死線において致命的すぎる一瞬だけ、その身動きを封じられたのだ。
今しかない――
地を蹴る。
跳ね上がる血沫を振り払い、短剣を逆手に固く握り直す。
狙うは無防備に晒された異形の首元。これ以上ない千載一遇の好機。
だが、魔獣も即座に対応してきた。喰い込んだ『呪刀』を力任せに引き抜こうと、強引に腕を引く。だが、ほんの僅か――刹那的な遅れが生じる。
俺の視界の中で、やつの動きが完全に止まって見えた。
「喰らえ――ッ!!」
全身の命脈を絞り出し、短剣を振り抜く。寸分違わず異形の首筋を穿つ、そのはずだった――
――ガチィンッ!!
「な……っ!?」
直前、異形が半身を不自然に捻り上げた。
死角からの刃を、肉体の一部を歪ませてギリギリで滑らせる。
ぬめりけのある不快な手応え。短剣の先端は首元を逸れ、魔獣の右肩の肉へと深々と突き刺さるにとどまった。
『――甘いッ!』
刺さった刃の痛覚すら戦意に変え、魔獣が旋回した。
右肩に俺の短剣を突き立てたまま、強引に『呪刀』を引き抜き、その反動のまま振り向ざまの一撃を放ってくる。
ズバァッッ!!
「……くそっ……ッ!」
回避も、防御も間に合わない。
紫の呪気が視界を埋め尽くし、胸元に灼熱の衝撃が走った。
肉が裂け、肋骨が鳴る嫌な感触。胸から腹にかけて深く斜めに切開され、凄まじい血飛沫が宙に舞った。
視界が赤く染まり、身体が意思とは関係なく無様に転がり、崩れ落ちる。
「アッ……ふぅ……っ、く……」
胸を抱えるようにして、這いつくばる。
呼吸をするたびに、切創から溢れ出る血が温かく服を濡らしていく。意識が急速に白く霞んでいく感覚。
焦燥のなかで手を伸ばすが――俺の手元には、もう何もなかった。
武器である短剣は、未だ魔獣の肩深くに刺さったままだ。
丸腰で、胸を断ち切られ、地に伏せる。
ゆっくりと振り向いた異形が、肩に刺さった短剣を無視し、死の刀身をこちらへと向け直していた。
死の刃が、無造作に振り下ろされようとしていた。
『――終異だ、死にぞこない』
濁った声が、ゆっくりと近づいてくる。
紫の呪気を纏う『呪刀』が、俺の頭蓋を叩き割らんと一直線に位置を正す。逃げ場はない。丸腰で、胸を断ち切られ、地に伏せる俺に死を回避する術など何一つ残されていない。
魔獣の口元が、勝利を確信して不快に歪む。
だが――やつは気づいていない。
先ほど、あの巨大な金属塊を不条理な質量で叩き斬った際、爆散した金属粉と鋭利な微粒子が、やつの身体、特に右腕全体に大量に付着していることに。血と濁った液体の粘り気に混ざり、手首から腕にかけてびっしりと死の粉塵がまとわりついていることに。
――駆ける。
「……うおぉぉぉッ!」
叫びとともに、俺の血塗れた手が、頭上から迫る魔獣の右手首へ――しがみつくように、直接触れた。
『なんの真似だ』
魔獣の目が意味が分からないものを見るように跳ね上がる。
――だが、もう遅い。
皮膚と皮膚が、そしてやつの腕に付着した無数の金属片と俺の手が、地続きで繋がった。
体内に残された最後の、本当に最後の余滴を総動員し、俺は自身の異能を叩きつける。
「――再構築」
――刹那。
ズガガガガガガガガガガガッッッ!!!
世界が爆ぜた。
魔獣が回避動作を思考するよりも、身を引くよりも、はるかに早い一瞬。
魔獣の右腕にへばりついていた砂粒ほどの無数の金属片が一斉に脈動し、刹那の間に本来の巨大な金属塊へと一気に再構築された。
本来、そこに存在し得るはずのない莫大な質量と体積が、魔獣の右腕と俺の目前という狭小な空間で唐突に膨張、再構築される。
ガガァンッッ!!
爆発的な膨張の圧力が、魔獣の右腕を内側と外側から容赦なく噛み砕いた。
不条理な質量を誇っていた『呪刀』ごと、魔獣の右腕が根元から爆破されたように千切れ飛ぶ。
さらには、その場に突如として現れた膨大な金属の質量が、俺と魔獣の間へと楔のように割り込み、激しい衝撃波とともに二つの肉体を強引に引き剥がした。
『ぐ、アァァァァァァッッ!!?』
千切れ飛ぶ右腕。撒き散らされる体液。
魔獣の巨体が、再構築された巨大な金属塊の向こう側へと激しく吹き飛ばされていく。
俺の身体もまた、反動で地面を無様に転がり、分断された金属の影へと叩きつけられた。
目の前を遮る、強引に元通りへ戻された巨大な金属の壁。
千切れ飛んだ魔獣の右腕が宙を舞い、肉の塊へと成り果てて大地へ転がった途端、黒い灰となって虚空へ溶けて消えた。
あとに遺されたのは、主を失った『呪刀』だけだ。
重苦しい紫の呪気を撒き散らしながら、刀身が草地に突き刺さっている。
「……はぁ……つっ、ふ……っ!」
荒い息を吐き出しながら、口を噛むようにして身を起こす。
胸から腹にかけて刻まれた傷が、動くたびに激痛を撒き散らす。視界が明暗を繰り返し、意識が血の海へ沈みそうになるのを、奥歯を砕かんばかりに噛み締めて繋ぎ止めた。
目の前を遮っていた巨大な金属塊――強引に再構築した莫大な質量が、役割を終えたかのように音もなく崩壊を始める。ザラザラと、灰となって風に散っていく。
視界を塞ぐ壁が消え去り、その向こう側の光景が露わになった。
――魔獣だ。
激しい衝撃波で吹き飛ばされた魔獣が、無造作に地に伏せている。
元より左腕のなかった異形。今や俺の異能によって右腕をも根元から吹き飛ばされ、両腕という重要な攻撃手段の全てを失っていた。
崩落した肉体の隙間から濁った体液を撒き散らし、不格好に身を起こす。
元から半分が叩き潰され、崩壊していたその醜悪な顔面。
そこに浮かんでいたのは、惨めな敗北感ではなかった。
死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、澄んだ冷徹さと、どこか達観したような静かな色。
「……腕も、刀も失って……どうするつもりだ」
胸の傷を押さえ、血混じりの声を絞り出す。
喉から出たのは引き千切れるような掠れ声だけだった。
『問うまでもないこと』
濁った声が、大気に静かに響いた。
『私の命脈はすでに尽きかけている。肉は腐ち、骨は砕けた。……だが、ここまで死線を越えてきたこの魂まで失うつもりはない』
両腕を失い、全身をズタズタに引き裂かれながらも、魔獣は確かな足取りで大地を踏みしめた。
ポタポタと体液を垂らしながら、その身から放たれる凄まじい殺気と戦意は、何一つ衰えていない。
『死にぞこないよ。策を弄し、命を削り、私の腕を断ったその執念……確かに見届けた。ならば私の最後、その命を奪い去るために立ち塞がるのが、戦場に果てる者の礼儀というもの』
「……あぁ、そうかもな」
『誰になんと言われようと、私の生き様は私だけのもの。……来い。私を屠り、踏み越えてみせよッ!!!』
前傾姿勢をとる魔獣。
腕などなくとも、その死に体の肉体そのものを凶器に変えて突き進む気だ。
「言われなくても……越えてやるよッ!!!」
俺は口内に溜まった吐殺しそうな血を吐き捨てると、泥に突き刺さっていた『呪刀』へと手を伸ばした。
その柄に指が触れた瞬間、刃に宿る不条理な重さと、まごうことなき紫の呪気が俺の腕を駆け巡る。体内の全綴力を引き絞り、己の意志でその呪気を強引に抑え込んだ。
漆黒の刀身が、俺の殺意に応えるように禍々しく脈動する。
不条理な重さ?
関係ない。俺の命も、あいつの命も、とっくに不条理の渦の中だ。
今の俺には、これを振り抜く理由がある。
「――これが、命の重さだ」
地面を蹴りつけた。
破裂しそうな心臓の鼓動を無視し、胸の激痛を殺し、ただ前だけを見据えて地を這うように加速する。
魔獣もまた、己の命の残滓を燃やし尽くすように大地を砕いて跳んだ。
両腕を失った巨躯が、最後の一撃となって一直線に肉迫してくる。
――視界が、極限まで引き伸ばされた。
鼓膜を揺らす音が消え、世界から色彩が落ちる。
交差する刹那の間。肉迫する巨大な影の輪郭、飛散する濁った体液のひとしずく、その表面に映り込む俺の鬼気迫る表情すらも、静止した世界の中で鮮明に焼きついていた――
――擦れ違う、その瞬間。
全身の力を右腕一本に集中させ、紫の呪気を纏わせた『呪刀』を横一文字に振り抜いた。
――スパァンッ!
肉を割き、骨を砕く、重厚な手応え。
紫の閃光が静寂を切り裂き、二つの影が交差する。
数歩滑るように着地し、『呪刀』を杖代わりに大地へ突き立て、どうにか踏みとどまった。
膝がガクガクと震え、視界の端から真っ暗な闇が侵食してくる。
背後で、重い足音が止まった。
ゆっくりと首だけを巡らせた魔獣が、俺の後ろ姿を見つめている。
その胸元には、左肩から右腹にかけて深々と刻まれた、死の刀創。
『……見事だ』
ボロボロと溢れ出る液体を無視し、魔獣は穏やかですらある声を零した。
『見事な一閃であった、死にぞこない。……生涯の最後に……応えるに足る者と出会えたこと、誉れに思う……。ただ、あの男ともう一度、戦ってみたかったものだな』
「悪いが、俺たちで満足してくれ。それに――なかなか強かっただろ、俺たちは」
『……フッ、チガイナイ』
ドサリ、と。
魔獣が膝から崩れ落ち、二度と動かなくなった。




