頂への白き道
リシェラが俺の横へ立ち、力強い声を張り上げる。
その横顔を見た瞬間、腹の底で死にかけていた俺の魂が、熱を帯びて跳ね上がる。
目の前に立つリシェラの背中には、もう迷いも、怯えもない。俺を信じてくれた、あの頃のリシェラのように見えたから。
呼吸するたびに腹の傷が激しく痛み、口の中に生暖かい血が溢れ出す。視界の端は赤くぼやけていたが、俺は血を吐き捨てると、短剣を強く握り直した。
前を見据える。
光の槍で焼かれながらも、不気味な殺意を隠そうともしない魔獣の群れ。肉の焦げる臭いと生臭い息が、冷えた大気を満たしている。
横目で見れば、ゼクフィスは剣を支えにしてどうにか立ち尽くしている状態だ。全身血塗れで、息は荒く、肩が激しく上下している。もう限界を超えているのは一目瞭然だ。
「リシェラ……さっきのやつ、もう一回撃てるか?」
俺の掠れた声に、リシェラは振り返りもせず、前を見据えたまま力強く頷いた。
「勿論よ。何度だって撃ってみせるわ」
「分かった。ゼクフィス、ルナネア、皆!聞いてくれ!」
俺は身体中の残力を振り絞り、全員に聞こえるよう叫んだ。
「魔獣共を真ん中に追い込む!端から囲い込むように叩いて、できるだけ多くの魔獣を中央へ集めてくれ!」
「チッ……相変わらず腹の立つ野郎だな、テメェは」
ゼクフィスが荒い息のままニヤリと笑い、魔呪綴でその身体を叩き起こして外側の魔獣へ切り込む。ルナネアやエサマたちも、俺の言葉を信じて即座に動き出してくれた。外縁を削るような挟撃に、魔獣共は嫌がりながらじりじりと内側へ押し込められていく。
「リシェラ、頼む!逃げ道を塞ぐように、周りを囲い込んでくれ!」
「分かったわ!!独自魔呪綴――『白銀の乱槍』!!」
リシェラが両手を掲げ、再び圧倒的な白銀の綴力を放出する。天から降り注ぐ光の柱が魔獣共の退路を断ち、円を描くようにして連中を中央へと凝縮させていく。
逃げ場を失い、密集した魔獣共の唸り声が重なり合い、不快な渦となって膨れ上がる。
――今だ。
「ルナネア!!」
俺は凝縮した魔獣の群れに向かって走る。
駆け出すと同時、意図を察してくれたルナネアが魔呪綴を綴る。
「独自魔呪綴!『水土抱擁』ッ!!行って、ファイッ!!」
ルナネアが放った『水土抱擁』の強烈な土流が、俺の足裏を押し上げる。
身体が宙へ跳ね上がった。
風を切り、密集した魔獣共の真上――その頭上へと一気に到達する。
上空から見下ろす世界。
ひしめき合い、赤く濁った瞳で俺を見上げてくる無数の異形ども。
「刻めッ――!」
叫びとともに、俺は先ほど『絶綴掠頁』で掠めた魔獣の火球――溜め込んでいた圧縮熱量を、頭下の中央へ向けて一気に解放した。
ドガアアアアンッッッ!!!!!
頭上から叩きつけられた巨大な爆炎が、身寄せ合っていた魔獣の群れを真ん中から爆破する。
逃げ場のない爆風と灼熱が密集地帯を飲み込み、悲鳴を上げる暇すら与えず、群れを一網打尽に焼き尽くしていった。
ドッ、と全身を激しい衝撃が襲う。
解放した爆炎の反動と、引きちぎれそうな腹の激痛。空中へ舞い上がった身体はもう追撃の姿勢すら保てず、ただ重力に従って地面へ叩きつけられるように落下していく。
視界が明滅し、指一本動かない。
「こんな――」
衝突を覚悟した瞬間、背中から温かく柔らかい触感が滑り込んできた。
ルナネアの『水土抱擁』だ。泥と水を含んだ土の塊が、俺の死にかけた身体をすっぽりと包み込むように泥中に受け止め、落下の衝撃を殺してゆっくりと地面へ降ろしてくれる。
「ファイッ!」
土のクッションが解け、泥まみれになりながら地べたに転がった。
頭上では、叩き落とした火球が巻き起こした猛火が激しく吹き荒れていた。黒煙が天を突き、生臭い肉の焦げる惨烈な臭いが鼻をつく。
一網打尽にした――そう思った爆炎の渦の中、ゆらりと影が蠢いた。
『……グアアアッ……!!』
皮膚を、肉を焼き焦がし、身を焼かれながらも、数頭の巨大な魔獣が狂乱の眼光をギラつかせて炎の壁を破り出てくる。
どうにか対抗をと思った、その時――
「させねぇよッ!!」
雷光を纏ったゼクフィスが、残された体力をすべて振り絞るように躍り出た。風を切り裂く一閃が、先頭の魔獣の首筋を叩き割る。
続けてエサマとザラオが怒号を上げ、斧と剣を振るって横合いからの異形を叩き潰していく。さらにはルナネアの綴る『水土抱擁』が生き残りの足元をすくい、リシェラの光の槍が残らずその存在を消し去った。
最後の咆哮が途絶え、物言わぬ肉塊となって崩れ落ちる。
静寂が、荒い息遣いとともに戦場へ戻ってきた。
「……はぁ……はぁ……っ」
足音が近づいてくる。
膝をつき、必死に呼吸を繋いでいた俺の脇に、すっと誰かが滑り込んできた。
リシェラだ。彼女は俺の腕を自分の首に回すと、華奢な身体で俺の重みを力強く支え上げてくれた。
「立ち上がれる……?ゆっくりでいいわ、行きましょう」
「……あぁ、助かる」
リシェラの肩を借り、俺は泥と血に塗れた足を一歩ずつ前へ踏み出す。
ゼクフィスたちもボロボロの身体を奮い立たせ、俺たちのあとに続いてきた。
木々を焼き払う赤々とした炎の照り返しを背に受けながら、俺たちは鬱蒼とした森の出口へと足を踏み出す。
森を抜けると、そこには言葉を失うような光景が広がっていた。
すり鉢状になった地形の少し奥。そこに広範囲にわたって、白銀の巨大な氷のイバラが円状にそびえ立っていた。鋭利な氷柱が幾重にも重なり合い、まるで外敵を寄せ付けない城壁のように大地を深く穿っている。
さらにその上には、視界を白く染め上げるほどの猛烈な氷の嵐が狂暴に吹き荒れていた。吹き荒ぶ吹雪の音がゴウゴウと耳腔を打つ。さっきまで背後で燃え盛っていた炎の熱気すら、この一帯の異常な極寒によって一瞬で押し返されるほどだった。
「……ッ、これは……」
あまりの威容に、俺は息を呑んで絶句した。
隣に目を遣ると、俺の身体を支えるリシェラも目を見開き、凍りついたようにその光景を注視していた。呼吸を忘れたかのように胸が硬直し、肩を通じて彼女の驚きと困惑がダイレクトに伝わってくる。
タフノティシィの力なのか、それともあの魔獣が引き起こしたものなのか。
吹き荒れる極寒の嵐を前に、俺の胸の中に重い圧迫感が広がっていく。
「……まだ、終わってないのか」
満身創痍の身体。腹の傷からは尚も血が伝い、立っていることすら奇跡に近い状態だ。
魔獣の群れを破り、森を脱出したはずだった。だが、目の前に横たわる圧倒的な異常事態を前に、俺の意識は否応なしに引き締められる。
――片付けるべき問題は、まだ残っている。
数刻前――魔獣の言葉が、戦場の大気を凍てつかせた。
「……いざッ!」
タフノティシィの直感が絶叫を上げる。
地を突いていた巨剣を引き抜き、全身の力を両腕へ集約させた――その刹那。
目の前から、化け物の姿が霧のように消えた。
「――っ!?」
速い。さっきまでの踏み込みとは次元が違う。
思考すら置き去りにする超神速。死角――左脇腹から、紫の呪気を纏う刀身が死を孕んで迫り寄っていた。
「付与魔呪綴――『永氷の戦鎚』ッ!!」
刃の先から一瞬で冷気が凝縮し、巨剣の先端に超高密度の巨大な氷の塊が形成された。
今再び、全てを打ち砕く巨大な戦鎚が作り上げられる。
「ハァァァァァ!」
だが――
バツンッッ!!
戦鎚など紙切れのごとく一瞬で穿ち砕かれた。
衝撃波がタフノティシィの巨体を襲い、巨剣で刃を受け止めるも、殺しきれなかった鋭さが肉を抉る。
「ッ……!?」
鮮血が舞う。
だが、絶望はそこからだった。
キンッ!ガギィンッ!ズバァッ!!
一撃防ぐごとに、十の連撃がタフノティシィを襲う。
残像すら残さぬ乱撃。ただの斬撃ではない。『呪刀』から放たれるどす黒い圧力が、異次元のような質量感が、受ける巨剣の刀身を通じてタフノティシィを破砕していく。
「ハッ……ハッ、ぐっ……!」
一歩、後退。
二歩、血の足跡を穿つ。
防御に回るのが精一杯だ。自慢の防具はズタズタに切り刻まれ、肩、胸、太ももから真っ赤な血が噴き出していく。視界が徐々に朱に染まり、腕の骨が悲鳴を上げた。
『どうした?先ほどまでの威勢はどうしたのだ』
魔獣の嘲笑が耳元で重なる。
言葉を得た異形の一撃一撃には、容赦のない殺意と理知が宿っていた。打ち合うたびにタフノティシィの癖を看破し、傷口を的確に広げてくる。
「強い……理不尽なまでに――」
衝撃で膝が折れかける。
後ろを見れば、そこには限界を迎え、荒い吐息を吐きながら戦うゼクフィス。そして、その向こうには、いまだ意識を失ったまま横たわる男――ファイの姿があった。
「ここで俺が倒れれば、全員が死ぬ。守るべき者たちを残し、この惨めな死地で俺の足跡を途絶えさせるわけにはいかない。――腹はくくったはずだろ、タフノティシィ」
喉から溢れ出る血を力任せに吐き捨て、タフノティシィは深く、深く息を吸い込んだ。
傷ついた身体の奥底、魂の最深部に封印していた引き出しに手をかける。
本来ならば、この土壇場で選択するべきではない博打。
タフノティシィが頑なに『あれ』の発動を避け続けてきた理由は、あまりにも明白だった。
『あれ』を行使した瞬間、体内に渦巻くあらゆる綴力はそのほとんどが底を尽く。文字通り、無防備な肉体だけが残される捨て身の博打。
そして何より――成功率があまりにも低すぎる。
己を形作る三つの源を魂の内側で狂いなく重ね合わせ、觸れ、真の威容を解き放つ。
寸分のブレも許されぬ精密な調和。一度でも重なりがずれれば力は霧散し、終わる。
だが――
「迷ってる暇なんて、最初からなかったな――」
血塗れの口元が、狂おしく覚悟の笑みを刻む。
『足掻くか、人間。破滅の淵で何を思おうと、その命の灯火はここで消える』
紫の呪いをドロリと蠢かせ、魔獣が動く。
迫り来る死を前に、タフノティシィは逃げることも、防ぐことすら放棄した。
ただ、巨剣を地へと叩き立て、深く、深く呼吸を沈める。
――肉体。精神。そして魂。
――ズ、と。
世界から音が消えた。
失敗すれば即死。ならば、重ねるのみ。
限界を超えて軋む肉体を灼熱の熱量が満たし、三つの源が寸分の狂いもなく重なり合う。
幾重もの戦い、幾重もの激闘を経てたどり着いた、真の解放。
重ね、觸れ、そして――綴る。
「戦鎚・刺枷・氷頂――三源觸――『頂への白き道』ッ!!」
――瞬間、世界が白に飲まれた。




