白銀の誓い
一歩、足を踏み出そうとした膝が折れる。
指先ひとつ、届かない。伸ばした手の先で、ファイの背中が遠ざかっていく。
必死に息を吸い込もうとした――その瞬間。
――ドクン、と。
胸の奥深く、魂の底に沈んでいた何かが、熱い鉄杭で爆ぜた。
「……え……?」
激痛ですらなかった。
それは、水底で途切れていた記憶の重い鎖が、音を立てて繋ぎ直される感覚。
脳髄を焼き尽くしながら、見覚えのないはずの光景が、共に過ごしたかけがえのない時間が、圧倒的な濁流となって溢れ出してくる。
――「あれ見てよファイ!美味しそうなアイス屋さんが出てるわよ。属性検査が済んだら、お祝いに買ってよね!」
――「ファイが自分の記憶を探すためにユカラディピアへ行くなら――私を、一緒に連れて行ってほしいの。私も、自分の目的のために進みたい」
――「置いていかれる方が、百倍嫌よ!」
要塞都市での出会い。陽だまりのような温もり。
皆のためにボロボロになったファイの、血の匂い。
――知っていた。
妄想でも狂人の戯言でもない。
何も分からない世界で、傷つきながらも進んだ人。リシェラを目覚めさせてくれた大切な人。そして、命を賭けてまでリシェラを助けてくれた人。それを。リシェラは。リシェラたちは――
――「何を……あなたは何の話をしてるの?」
――「もしふざけてやってるなら、こんなことは二度としない方がいいと思うわ。世の中どんな人がいるか分からないから」
――「……知ら、ない。知らないわ。もう、やめてください。こんな嫌がらせ」
リシェラが向けた、刃物よりも鋭い拒絶。
それが鋭い破片となって、リシェラの胸を内側からぐちゃぐちゃに抉り刻む。
激しい嘔吐感が突き上げ、喉からヒッと掠れた声が漏れた。
忘れていたのだ。温もりを。優しさを。この人を。
あんな残酷な言葉で追い詰め、孤立させ、死の淵に追いやりながら――それでもファイは、最後の一滴まで命を燃やして、リシェラたちを守るために笑った。
――「――ありがとう」
あの笑顔には、恐怖すらなかった。
「ぁ……あ……っ、ぁ……」
呼吸の仕方を忘れたように、喉の奥が小さく痙攣する。
視界をぐちゃぐちゃに濡らす涙と、胸が張り裂けそうな痛みが、全身を侵食していた。
嫌だ。
こんなの、あまりにも残酷で――あまりにも、身勝手すぎる。
ファイは何も悪くなかった。嘘なんてついていなかった。
リシェラたちを守るために傷つき、ボロボロになりながら、ただ言葉を届けるために必死だった。
それなのに――冷たい目で射ち抜き、不審者を見るように突っぱねて、ファイの歩んできた居場所も、注いでくれた温もりも、その存在すべてを言葉の刃で切り刻んだ。
どれほど傷ついただろう。どれほど、一人で暗闇を彷徨っただろう。
謝らなければいけない。
「ごめんなさい」と。私を見てほしいと。たとえどれほど憎まれても、許されなくても、ファイの足元に縋りついてでも伝えなければいけないのに。
話したいことも、聞きたいことも、届けるべき想いも――山ほど、山ほど残っているのに――それを全部、ファイの犠牲と優しさの中に置き去りにして。
自分だけが守られた者として綺麗に生き残るなんて――そんな絶望、死んでも背負いきれるはずがない。
「置いていかないで……っ!私に……私に、ファイと同じ……っ!!」
血の味のする吐息とともに、絞り出すような声が漏れる。
――ッッッ―――!!
大気が、静かなる爆鳴を上げて跳ね上がった。
それは、これまでの静謐で洗練された魔呪綴などではない。
リシェラの胸を押し潰す後悔。喉を焼き切る切望。そしてファイを二度と失いたくないという、あまりにも一途で、あまりにも狂おしい執着。それらが魂の底で澄み渡る白銀の濁流となり、リシェラを中心に吹き荒れた。
世界を揺らす圧迫感。リシェラの身体を渦巻く綴力が死地に立ち込める不快な血臭を力任せに吹き散らす。
届かないかもしれない。足を引っ張るだけかもしれない。
リシェラが向けた言葉のナイフは、きっと今も、ファイの胸を刺したままだから。
――だけど。
このまま綺麗に守られて殺されるくらいなら、嫌われてもいい、拒絶されてもいい。失った空白のぶんだけ、傷ついたファイの隣に這いずり回ってでも立ち続ける。
突き放してしまった指先を、二度と離さないために――リシェラは、魔呪綴を綴る。
「独自魔呪綴!!『白銀の乱槍』――ッ!!」
天線が、空間が、世界そのものが静かに破断した。
ただただ圧倒的な質量の純白の光が天から滲み出し、鋭利な槍の群れのように空間を埋め尽くしていく。
「そこを……どきなさいッ……!!」
振り下ろされた振るえる両腕に応じ、無数の光槍が天空から一斉に爆進した。
――ズガガガガガガガガアアアンッッッ!!!!!
それは射出というより、天そのものが落石のごとく叩きつけられた錯覚だった。
無数に降り注ぐ槍のような光は、ファイへと群がろうとしていた魔獣の群れを容赦なく穿ち、その存在を浄化させる。
直撃を受けた弱い魔獣は悲鳴を上げる暇すら与えられず、光の質量に押し潰されて塵すら残さず消し飛んだ。命拾いした大型の個体とて無傷では済まない。穿たれた白銀の光芒が肉体を内側から焼き焦がし、白煙と肉の焦げる惨烈な臭いが一瞬で戦場を支配する。
地殻を削り取るほどの圧密な光の乱槍。
あまりの威容と威圧感に、残された魔獣どもですら本能的な恐怖に気圧され、唸り声を上げながらわずかに後退した。しかし去るわけではない。赤く濁った眼光を死地にギラつかせ、異様な光景に身をすくめながらも、こちらをギラギラと睨みつけている。
だが、今の不気味な静寂など、リシェラの視界には少しも入っていなかった。
「……ファイ……っ!」
その名を呼ぶ。
足が縺れ、服を汚しながらも、前だけを見つめて駆ける。
あまりの光景に呆然と立ち尽くし、傷だらけの身体を向けたまま固まっている青年――ファイの元へ。
二度と離さない。届かなかった指先を、今度こそその温もりに届かせるために、リシェラはなりふり構わず走り抜ける。
そして――
ガシッ、と。
「……っ!?」
硬直していたファイの肩を、震える両手で掴み寄せる。
そのまま崩れ落ちるように、ファイの傷だらけの胸の中へと頭から飛び込んだ。
――温かい。
冷たくなりかけていた死地の中で、血の匂いとともに確かに脈打つ、ファイの体温。消えていなかった。間に合った。皆を庇って独りで消えていこうとした背中に、今度こそ、その手に届いたのだ。
「り……シェ、ラ……?」
あまりの衝撃と、天から舞い降りた白銀の爆威。そして突然抱きついてきたリシェラの体温に、ファイの思考は完全に凍りついているようだった。呆然と見開かれた瞳が、ファイにしがみついて胸を上下させている少女を映す。
伝えるべき言葉が、言わなければならない過ちが、喉の奥まで溢れ返っていた。
「思い出したの」「拒絶してごめんなさい」「もう離れないで」――その全てを吐き出そうと、リシェラが途切れ途切れに唇を開こうとした、その瞬間。
『――グァアアアアアアッッッ!!』
空気を振動させる生臭い咆哮が、静寂を切り裂いた。
光の乱槍を浴びて退いていた魔獣どもが、焼き焦げた肉躯を激痛に痙攣させながらも、再び殺意をギラつかせてじりじりと距離を詰めてきている。白銀の光芒に焼かれた傷口から血を撒き散らしながら、目の前の獲物を喰らい尽くそうと赤い瞳を蠢かせていた。
――まだ、終わっていない。
この地獄は、二人の間に横たわる後悔を語り明かす猶予すら与えてはくれない。
リシェラはファイの胸からゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた双眸に宿るのは、もう迷いも、揺らぎもない。
「……話は、後でしましょう」
絞り出すような、けれど力強い声。
リシェラはファイの横へ立つように一歩前へ踏み出すと、未だ熱を帯びる手のひらを、襲い来る死の群勢へと固く向け直した――




