絶望と後悔の挟間
「……言葉が、滑らかに……?まさか、『呪刀』の効果か……?」
タフノティシィは呼吸を整えようと胸を歪めながら、眼前の異形を見上げる。
先ほどまでの崩れた発語は影を潜め、冷徹な理性を帯びた声が森の静寂を震わせていた。あまりに変貌の仕方が急激すぎる。
『戸惑うのも無理はない』
魔獣は紫の呪気を纏う刃をだらりと下げたまま、己の左手――かつて腕が存在した半壊した肩口を、右手の爪で静かに撫でた。
『私自身、なぜこうして滑らかに思考し、言葉を紡いでいるのかは分からん。壊れた喉が繋がったわけでも、削れた肉が戻ったわけでもない』
濁っていた眼球が、すうっと細められる。
そこに浮かんでいたのは、純粋な愉悦の色だった。
『だが……実に気分がいい。まるで長い眠りから醒め、滞っていた血が全身を駆け巡るような……心地よい全能感だ』
タフノティシィの肌が強く粟立つ。
知性が宿ったことで、この化け物はより致命的で、より圧倒的な死へと昇華した。もはや一瞬の油断すら許されない。
「まだだ、俺はまだ動ける……ッ!」
後方で巨木に叩きつけられていたゼクフィスが、血の塊を吐き出しながら無理やり剣を支えに立ち上がろうとしていた。全身の骨が悲鳴を上げているはずの身体を狂気で動かし、再び魔獣へ肉薄しようと足を踏み出す。
「来るな、ゼクフィス!!」
タフノティシィは振り返りもせず、烈しい怒号でそれを制した。
「……見ただろう。今のこいつは、さっきまでとは次元が違う。半端な覚悟で間合いに入れば、一撃で肉塊にされるぞ」
その言葉に、ゼクフィスは歯が折れるほど強く奥歯を噛み締めた。
『賢明な判断だ。……だが、そちたちには私以外にも、気にするべきものがいるのではないか?』
魔獣が悠然と刀の先を傾け、暗い木々の奥――森の深淵を指し示した。
――ガサ……ズザ……ッ。
不穏な足音が、幾重にも重なって押し寄せてくる。
木々の隙間から、爛々と光る赤い眼光が一つ、また一つと浮き上がった。
巨躯を誇る漆黒の狼型。樹木に巻きつく巨大な双頭の蛇。背から無数の刃を生やした異形の獣――足の踏み場もないほどの無数の魔獣の群れが、死の匂いに誘われるように窪地を包囲していた。
「チッ……こんな時に集まりやがって……!」
ゼクフィスは忌々しげに舌打ちを鳴らし、視線を後ろへと走らせる。
そこには、いまだ吐血し意識を失ったまま横たわるファイ。
必死に血を止めようと、震える手で応急処置をするルナネア。
ファイを庇うように手を構え、立ち塞がるリシェラ。
そして、各地で倒れ伏し、吐瀉物と血に塗れて呻く衛兵たち。
今包囲を突破されれば、動けないファイたちは一瞬で喰い荒らされる。
「……動けるやつはついてこい!!」
ゼクフィスは激痛に顔を歪めながら、血塗れの声を張り上げる。
「動けねぇやつを守れ!一匹たりともここから先へ通すんじゃねぇぞッ!!」
限界を超えた身体を雷光で強引に叩き起こし、ゼクフィスは群がり寄る魔獣の群れへと向けて地を蹴る。
「付与魔呪綴――『風・刹・雷 風迅』ッ!!」
踏み込みざま、剣身に荒れ狂う風の刃が凝縮される。
交差するように振り抜かれた一閃――刃から解き放たれた圧縮風圧が、扇状に広がりながら前衛の狼型魔獣数頭を真っ向から撃ち据えた。
ガガッ、バツンッッ!!
肉を削ぎ落とす風の断裁音が響き、飛びかかろうとしていた魔獣たちが血沫を散らしてまとめて吹き飛ばされる。だが、一頭を倒せば三頭がその屍を越えて跳ねてくる。殺気と肉香に狂った魔獣の数は、留まるところを知らない。
「まだまだッ、俺たちもいるぞッ!!」
背後から、荒い怒号が重なる。
先ほどの攻撃で吐血し倒れていた衛兵――ザラオとエサマが、膝を震わせながらも武器を握り直し、ゼクフィスの両脇へ駆けつける。
「付与魔呪綴――『轟粉雷』ッ!!」
両手持ちの戦斧を放り立てたザラオの刃に、バチバチと荒々しい黄雷が迸る。群がる双頭の蛇の頭上へ、遠心力を乗せた一撃が叩き降ろされた。
ズドォンッ!!
破砕音とともに落雷が爆ぜ、地面を這う蛇の巨体が黒焦げになって跳ね上がる。
「付与魔呪綴――『風斬纏』ッ!!」
間髪いれず、エサマが緑の風を纏わせた剣を連続で振り抜く。横合いから肉薄していた小柄な異形どもの首筋を、疾風の刃が的確に切り刻み、地面へ叩き落としていく。
「テメェら……っ、生きていやがったか」
「当たり前だろ!こんなとこでくたばってられるかよ!」
ザラオが勇ましく答えると同時、残った数名の衛兵たちも必死に陣を組み、背後のファイたちを守る死線を作り上げる。
だが――圧倒的な数の暴力は、容赦なく彼らの体力を削り削ぎ落としていった。
この森に入ってから途切れることのない連戦。全員の疲労はすでに限界を超えている。傷口からの出血が体力を奪い、剣を振るう腕は一撃ごとに重さを増していた。
「くッ!」
「うぁっ!?」
押されている。確実に。
一頭を退けても、すぐ横から別の異形が爪を立て、衛兵の肩や背を切り裂く。じりじりと防衛線が削られ、魔獣の鋭い爪がファイの倒れるすぐ手前にまで迫った――その時。
「下がって……ッ!!」
透き通った、だが強い覚悟を秘めた叫びが重なった。
リシェラが前に躍り出ると、その両手を前方に突き出す。
「独自魔呪綴――『天界の杭』ッ!!」
頭上の空間が白銀の光に裂けた。
現れたのは、緻密で巨大な光の杭。
それが数本、鋭い残音を残して天空から垂直に爆進し、ファイへ伸ばされかけた魔獣の手足を深く地表へと穿ち止めた。
ドガァンッ!
『グギャアアッ!?』
貫かれた魔獣が叫喚を上げる。
リシェラの援護でかろうじて崩壊を踏みとどまる防衛線。
――しかし。
「ハッ……ハッ……う、く……ッ」
杭を放ち終えたリシェラの膝が、激しくガクガクと震えていた。額からは大量の冷汗が流れ落ち、呼吸は死人のように荒い。ここに来て、疲れが一気に押し寄せてきているのだ。
周囲を見渡せば、眼光をギラつかせた無数の影が、依然として暗がりの中から次々と湧き出してくる。
一匹一匹はさほど強くない魔獣の群れ。だが、ボロボロのいまのゼクフィスたちにとっては、底なしの底無し沼のような死の壁となって塞がり続けていた。
「ハァァァァァッ!!」
全員が血反吐を吐きながら喉を爆ぜさせる。
だが、限界を超えた身体は残酷だった。剣を振るう速度が明確に落ち、踏み込んだ膝が折れかける。
そのわずかな隙を、飢えた異形どもは見逃さない。
「ガアアッ!」
「ひっ、あ――ッ!?」
横合いから跳躍した黒狼が、衛兵の一人の喉笛に食らいついた。
生暖かい血が豪快に散り、絶叫が森に響き渡る。間髪いれず、二頭、三頭の魔獣が群がり、倒れた衛兵の肉を噛みちぎり、生きたまま腹を裂いて貪り喰らい始めた。
「助け――ああああああっっ!!」
「離れろ、この化け物が!!」
ザラオが狂ったように戦斧を叩きつけるが、別の二人の衛兵たちも脚を太い蛇に絞め上げられ、骨の砕ける不快な音とともにそのまま咀嚼されていく。
一頭殺しても、三頭が死肉を足場にして押し寄せてくる。
「そんな……っ、待って、いま助け――」
リシェラが光の杭を出そうと一歩踏み出しかけた、その肩をエサマが激しく掴んで引き戻した。
「行ってはいけません。もう彼は死んでいます。陣を崩さず、今は持ちこたえてください!」
「でも……っ、でも!!」
視界の先で、仲間だった衛兵たちが悲鳴を上げながら肉片へと変えられていく。
血と臓物の臭いが立ち込め、残された者たちの心を容赦なくへし折っていく。
――押されているのだ。圧倒的な数と、死への恐怖に。
ゼクフィスの腕はすでに感覚を失い、ザラオもエサマも肩で呼吸をしながら刃を構えるのが精一杯だった。膝をつき、荒い息を吐くことしかできない。
そして――魔獣の群れは、ついに防衛線を食い破った。
血に濡れた無数の足先が向かうのは、地面に倒れ伏したままのファイ。
「……やらせない……っ!」
ルナネアはボロボロの身体を震わせ、ファイを守るように立ち塞がる。
ただ震える手で刀を構え直し、迫り来る死を拒むように刃を突きつける。
群がる魔獣どもは、一気に襲いかからず、どこか警戒するように少し離れた位置から包囲を狭めていく。先ほどまで猛威を振るっていた人間の残光を恐れているのか、死肉を前にして生殺与奪を楽しむかのように。
その中で、前衛に立つ一頭の巨大な狼型魔獣が、ゆっくりと首をもたげた。
開かれた口の奥から、周囲の大気を歪めるほどの熱量が膨れ上がっていく。
赤黒い火球が形成され、距離を置いた位置からファイたちごとまとめて焼き尽くそうと猛烈な爆炎の残光を撒き散らした。
「間に合わねぇ……!」
ゼクフィスは思考を高速で回転させるが、動かない足が敗北を告げていた。守り切れない。目の前で、すべてが灼ち滅ぼされる――その時だった。
「――……」
背後から、風の音にも掻き消されそうな、かすかな呟きが聞こえた。
瞬間、狼の口元で膨れ上がっていた巨大な火球が、まるで最初から存在しなかったかのように、虚空へ霧散して消えた。
『……ガァ……ッ!?』
魔獣が呆気にとられたように顎を鳴らし、目を剥く。
「……あ?」
ゼクフィスが呆然と振り返ろうとした直後、自分の右肩へ、ポンと静かに手が置かれた。
引き止めようとする手。だが、そこに力はほとんど入っていない。
視線を向けると、そこには死人のように青白い顔をしたファイが立っていた。
全身から血を流し、今にも崩れ落ちそうな身体を、ただ強い意志だけで繋ぎ止めているような姿で。
ファイはゼクフィスの肩から手を離すと、静かに、だが迷いのない足取りで彼の前へと歩み出た。
「ファイ……っ!?駄目、動いちゃ駄目!!」
「ファイ!!」
ルナネアとリシェラが、悲鳴のような声を上げて引き止めようとする。
その声に、ファイはゆっくりと振り返った。
血に塗れた顔に、どこか寂しげで——けれど、ずっと探していた宝物を見つけたかのような、切なく温かい笑みを浮かべて。
「――ありがとう」
ただ一言、それだけを遺して。
リシェラはその顔を見た瞬間、喉の奥が凍りつき、胸を刃物で抉られたかのように息が止まった。
どうして――
リシェラの脳裏を、心が引き裂かれるほどの激痛が駆け巡る。
――ファイと会った時、記憶を失ったと言われたリシェラたちは、ファイの言葉を嘘だと決めつけ、疑い、冷たく追い詰めてしまった。
それなのに――憎まれて当然のはずなのに、何故ファイはこんなにも真っ直ぐに、リシェラたちを守るために傷つき、命を投げ出せるのか。
言葉なんかじゃない。ファイが積み重ねてきたその痛ましい姿が、何よりも残酷に物語っていた。
妄想でも狂気でもない。リシェラたちは本当に――このかけがえのない人を、綺麗さっぱり忘れてしまっていたのだと。
——分かってしまう。分かってしまった。
ファイはここで全員を守り、自分ひとりを犠牲にして、静かに死ぬつもりだ。
あたたかな記憶の欠片すら残せないまま、誰にも看取られず、たった一人で——
絶望が、拒絶が、胸を締め上げる激痛となって視界を赤く染めていく。
嫌だ。
そんなの、あまりにも残酷すぎる。そんな救いのない終わり方なんて、絶対に認められるはずがない。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。こんなところで死なせるなんて、絶対に嫌だ。
まだ、何ひとつ取り戻せていない。
失われてしまった思い出も、交わせなくなった言葉も、胸を焼き尽くすような後悔も、本当の気持ちも、言わなきゃいけない「ごめんなさい」も——まだ、何ひとつ、ファイに届けられてなんていないのに――
「待っ――て……っ!ファイ、お願いだから……行かないでっ……!!」
振り払われた指先が、空しく大気を切る。
伸ばされたリシェラの手を置き去りにして、ファイは血飛沫の舞う死地へ、引き返すことのない滅びの渦へと向かって駆け出していた。




