仲間という呪い
『オマエタチ、ジャナイ……』
空気の振動すら変えるほどの重苦しい声が、魔獣の破れた喉から漏れ出た。
全員が息を呑み、金縛りに遭ったようにその場から動けない。身体の芯から滲み出る死の予感に、指一本動かすことすら躊躇われた。
だが、このまま黙っていれば、気圧された瞬間に刈り取られる。
俺は必死に喉の渇きを押し殺し、刃を構える手に全神経を集中させた。動揺を悟らせないよう、意識して声を低く張り落とす。
「……お前は、誰を探しているんだ?」
問いかけると同時に、魔獣の爛爛とした視線が俺へと注がれた。圧倒的な質量を持った殺気が皮膚を叩く。
『ナマエハ、シラナイ。ダガ、ミレバ、ワカル……!オマエタチ、ジャナイ……!』
空気が軋むほどの迫力が増し、地面がかすかに震えた。
誰を探しているのかは分からない。だが、探している『何者か』ではない俺たちに対して、明確な苛立ちと殺意が膨らんでいくのが肌で分かった。
その緊迫した空気のなか、タフノティシィが足幅をわずかに広げ、低く鋭い声を打ち鳴らす。
「ここにいるということは……その塊についても、何か知っているのか?」
警戒を最大限に高めたままの問いかけに、魔獣はわずかに顔を傾げた。削げ落ちた右半顔の肉芽が不気味に蠢く。
『ウマレタトキ……スデニ、コレハ、アッタ。……オヤハ、イナイ。ドコカラ、ウマレタノカモ、ワカラナイ』
吐き出すような言葉。
それが、こいつの持つ情報のすべてなのだろう。
『コレデ、マンゾクカ……?コレイジョウハ、シラナイ』
魔獣は低く唸ると、残された右腕をゆっくりと持ち上げた。
五本の指が不気味に曲がり、周囲の空間がぐにゃりと歪むような威圧感が膨れ上がる。
『アイツ、ジャナイ……オマエタチニ、ヨウハ、ナイ』
ぞわり、と全身の毛嚢が逆立った。
会話は終わった。ここにいる全員を喰い散らかすための臨戦態勢。
俺は短剣の柄を強く握り直す。
――察した。
目の前に立つこの半壊した化け物こそが、俺たちが越えなければならない最後の壁だと――
――速い、なんて生ぬるい次元じゃなかった。
魔獣が残された右腕を一閃させた、ただそれだけ。
視界が強烈な衝撃波で爆ぜ、次の瞬間には耳を裂く不快な破壊音が鼓膜を破った。
「また……!?」
正面にいたファイの身体が、紙屑のように宙を舞う。
間髪を容れず、リシェラも、横にいたゼクフィスも、エサマも、ルナネアも、他の衛兵も、まるで目に見えない巨人の拳で薙ぎ払われたかのように吹き転がっていった。
一瞬。たったの一瞬だ。
圧倒的な質量と凶悪な綴力が渦巻く一撃で、リシェラたちの陣形は完膚なまでに粉砕された。全員が一撃で打ち伏せられ、地面に吐瀉物と血をぶちまけている。
「そんな……一撃で……」
背中から大木に激痛とともに叩きつけられ、リシェラは荒い息を吐きながら床に這いつくばった。
内臓が破裂したかのような熱い痛みが込み上げ、視界がチカチカと明滅する。
勝てるわけがない。こんな化け物に、どうやって――
脳の深層から絶望がじわじわと溢れ出し、身体の末端から急速に体温が奪われていく。息が上手く吸えない。喉がヒューヒューと鳴る。
自分が今まで積み重ねてきた努力も、身につけたはずの力も、この最悪な現実の前では何の役にも立たない。ただの足手まとい。ただの、守られるだけの荷物。
「ファイ……っ!」
ルナネアの叫びが聞こえる。
遠くで吐血しながら動かなくなっているファイの姿が目に入った瞬間、絶望を塗りつぶすほどの焦燥感がリシェラの胸を焼き尽くした。
死ぬ。あの人が死んでしまう。
嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ――
「お願い……独自魔呪綴――『天界の杭』ッ!!」
狂乱しながら絞り出した言葉とともに、頭上に幾重もの光の杭を生成し、魔獣の眉間めがけて全速力で射出する。持てるすべての綴力を注ぎ込んだ、必死の抵抗。
――けれど。
キン、と。
ガラスが割れるような甲高い音が響くだけだった。
放たれた光の杭は、魔獣の右腕の一撃に触れた瞬間に砕け散り、傷一つ残せずに霧散した。あまりの落差に、血が引いていく。
「……ッ!」
唯一、その絶望の一撃を武器で受け流し、踏みとどまっていたタフノティシィすらも、今しがた魔獣の容赦ない連攻によって弾き飛ばされ、木々をなぎ倒しながら奥へと消えた。
静寂が訪れる。
そして、魔獣の腐ちかけた視線が、ゆるりとリシェラへと向けられた。
「逃げて!リシェラ!!」
倒れていたルナネアの悲痛な叫びが聞こえる。
逃げる?どこへ?どうやって?
――いや、逃げてはいけない。ここに皆を置いていっていいわけがない。
――死が、歩いてくる。
一か八か、残った力を拳に込めて殴りつけようか考える。――無理だ。通るわけがないのだ。リシェラの拳なんて、魔獣の皮膚を擦りむかせることすらできないだろう。
後ずさろうとしたリシェラの視界を、黒い影が完全に覆い尽くした。
肉迫。反応すら許されない速度で、魔獣の右拳がリシェラの腹部を目がけて振り抜かれる。
「ごめんなさい……」
死を確信し、目を瞑る。
ドッ、という鈍い衝撃。
けれど――不思議と痛みがなかった。
「……え?」
目を開ける。
リシェラのすぐ目と鼻の先で、魔獣の拳がピタリと止まっていた。
否、止まったんじゃない。
リシェラの背後に、いつの間にか一人の少年が立っていた。
ボロボロになりながら、死んだような眼光を光らせたファイが、リシェラの背後で、リシェラが受けるはずだった破壊をそっくりそのまま受け取る。
バシャッッ!!!!
次の瞬間、ファイの腹が内側から爆発したように弾け飛んだ。
大量の鮮血と肉片が豪快に散らばり、リシェラの視界を真っ赤に染め上げる。
「うッ……ガァ……!」
信じられない量の血を吐き出しながら、ファイの身体が力なく崩れ落ち、地面に倒れ伏した。
「あ……ぁ……ファイ……?ファイ……ッ!?」
何が起きたのか理解が追いつかないまま、リシェラは血の海に倒れるファイに向かって、引きつった悲鳴を上げた。
リシェラの顔や胸元にへばりつく熱い赤。それが全部、目の前でリシェラの身代わりになった少年の体内からぶちまけられたものだと理解した瞬間、リシェラの思考は真っ白に弾け飛んだ。
血の海と化した草の上で、腹部を大きく抉られたファイの身体が浅く痙攣している。
開いた傷口から覗く肉の断層と、とどまることを知らず溢れ出す大量の赤。
助けなければ。塞がなければ。
そう思うのに、震える指先はファイの血に塗れるばかりで、何も括り留めることができない。
だが、その地獄のような惨状すら、化け物にとってはただの通過点に過ぎない。
魔獣は、倒れ伏す二人の存在など路傍の石ころ程度にしか思っていない眼差しで、ゆっくりと残された右腕を持ち上げる。
息の根すら断ち切る死の手刀が、再びリシェラとファイの頭上へ影を落とした。
「駄目――」
防ぐ手段などない。
無慈悲に振り下ろされる悪夢の刃。
死を覚悟し、リシェラがファイの身体を抱きすくめるように覆いかぶさった、まさにその瞬間だった。
――ギチチチチッ!!
空気を凍てつかせる鋭利な破壊音が響き、魔獣の背後から無数の氷の棘が猛烈な勢いで肉迫した。
鋭利に研ぎ澄まされた蒼白の尖角が、魔獣の首筋を刺し穿とうと疾走する。
地を蹴る重厚な音。
魔獣は振り下ろしかけた右腕を強引に引き戻すと、ヌッと体を捻ってその氷の追撃を間一髪で回避した。
巻き込まれた周囲の巨木が氷の打撃を受け、バキバキと音を立てて凍りつきながら破砕していく。
『……ホウ?』
落ち武者のような惨状を晒す魔獣の顔面――右半分の肉芽が気持ち悪く蠢き、歪んだ笑みの形を作った。
興味深そうに、そして冷徹に、その濁った眼球が刺客の方向へと向けられる、その視線の先。
木々をなぎ倒して吹き飛ばされていたはずの男が、ゆったりとした歩調で影から姿を現していた。
――タフノティシィ・ホライズマンだ。
全身の骨が数本折れているであろう惨状にもかかわらず、その佇まいには一切のブレがない。
身に纏う大気が変わっていた。
先ほどまでの警戒や観察といった生ぬるい雰囲気は欠片もなく、全身の毛穴から立ち上るような凄まじい気迫が、周囲の空気を重く静まり返らせていく。
その両目に宿るのは、底なしの静謐と、化け物を確実に屠るための純粋な殺意。
「……ファイ・ニアス。お前の覚悟、しかと見届けた。後は……俺に任せろ」
低く打ち鳴らされたタフノティシィの声が、凍てつく森の窪地に重々しく響き渡った。




