洞窟
「……なんでもない」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「少し……急に疲労が来ただけだ」
「そうですか?無理もありません。あのような無茶をしたのです。今はゆっくり体を休めてください」
エサマは疑う様子もなく、心底心配そうに俺の肩へ優しく手を置いた。
その温もりが、吐き気がするほど痛い。
言えるはずがなかった。
お前が愛し、生きて再会することを何よりの糧にしている妹は――俺のせいで死んだ、なんて。
真実を告げれば、俺たちの関係は一瞬で崩壊する。それどころか、この過酷な森の中でエサマの生きる希望そのものを奪い去ってしまう。
エサマの純粋な善意と希望に対して、真実を隠して何喰わぬ顔で隣に立ち続ける自分。その卑怯さに胸が締めつけられる。
俺は固く拳を握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みに耐えながら、ただ黙って下を見つめることしかできなかった。
「……行こう。先へ進もう」
俺は重い腰を上げ、声をあげる。
その声に応じるように、仲間たちが立ち上がる――
――奥へ進むにつれて、森の空気は明らかな変貌を遂げていく。
木々の幹は気味悪く歪み、足元からはまとわりつくような濃い霧が立ち込めてきた。視界を遮る紫色の霧の向こうから、時折低く不気味な唸り声が響く。
途中で数体の魔獣が霧を割って襲いかかってきたが、セニモの狂刃に比べれば脅威にはならなかった。エサマの素早い剣撃と、俺の短剣による的確な牽制、加えてリシェラの魔呪綴のおかげで、苦もなく難なく切り伏せていく。
再び静寂を取り戻した鬱蒼とした木々の中をさらに進むと、前方の霧の開けた場所から、微かに人の気配と話し声が聞こえてきた。
「……誰だ!?」
警戒し短剣の柄に手をかけた、その直後――
「ファイ……!ファイ!」
霧の奥から飛び出してきた影が、一切の躊躇もなく俺の胸へと飛び込んできた。
ドサッ、と重みとともに温かい体温が全身に伝わる。
ルナネアだった。
彼女は俺の服の胸元を力任せにギュッと掴み、そのまま顔を押し当てるように強く強く抱きついてきた。
「よかった……無事だった……!わたし、ファイに何かあったらどうしようって心配で……」
「ル、ルナネア……?落ち着いてくれ、苦しい……」
不意打ちの抱擁と、耳元で聞こえる彼女の震える息遣いに、毒気を抜かれて思わず狼狽してしまう。胸に押し当てられた彼女の体の柔らかさと、甘い香りが否応なしに意識させられる。
「落ち着けるわけない!すごく、すごく心配したから!」
少し涙ぐんだ瞳で俺を見上げてくるルナネアの表情には、隠しきれない情愛と安堵が滲み出ていた。
「無事なのはいいが……こんな森の奥でイチャイチャしてんじゃねぇよ。死にてぇのか、テメェら」
呆れを含んだ荒っぽい声とともに、霧の奥から姿を現したのはゼクフィスだった。
ルナネアは「わっ!?」と弾かれたように俺から離れると、気まずそうに明後日の方向を向いて咳払いを漏らした。
「ゼクフィス……!無事だったのか」
「誰に向かって口叩いてやがる。俺がそう簡単にくたばるわけねぇだろ」
乱暴に鼻を鳴らすゼクフィスの後ろから、さらに足音が続く。現れたのは、安堵の笑みを浮かべたタフノティシィだった。
「エサマ、お前らも無事だったか」
「皆さん、生きていてくれて何よりですよ」
再会を喜び合う俺たちを前に、エサマが一歩前へ踏み出し、真剣な眼差しで周囲を見回しながら問いかけた。
「……他の生存者はどうなっていますか?他の衛兵たちは……」
その問いに、タフノティシィの表情が陰る。
「分からん……。散り散りになった後、何人かが魔獣に殺されるのは目撃したが、それ以外の生存者には会えていない。もしかしたら、俺たちだけが――」
「んなこたぁ今言ってもしょうがねぇだろうが」
言いかけたタフノティシィの言葉を、ゼクフィスが遮る。
「過ぎたことを悔やんで立ち止まってる暇はねぇ。今は、疾く、前へ進むだけだ」
吐き捨てるように言い放つゼクフィスだったが、俺はその横顔を見て息を呑んだ。
荒々しい態度の裏で、彼の顔色は酷く蒼白く、額にはうっすらと冷や汗が浮かんでいる。
「……ゼクフィス、お前、顔色が悪いぞ。どこか痛むのか?」
俺の言葉に、後ろにいたリシェラがハッとしたようにゼクフィスの身体を覗き込んだ。
「待って……まさか、怪我が治っていないのに戦っていたの?ちゃんと休まないと――」
「チッ、大騒ぎすんじゃねぇよ。軽い手当ては済ませた。動く分には支障はない」
ゼクフィスは煩わしそうに腕を振り払うが、強がりであることは誰の目にも明らかだった。しかし、今は足を止めている余裕がないのも事実だ。
「……さて、これからどうしますか?他の生存者を探しに戻るか、それともこのまま進むか」
エサマの提案に、周囲の空気が重く沈み込む。
だが、ゼクフィスは迷うことなく言い切る。
「進む一択だろ。探索なんてやってたらキリがねぇし、全員共倒れになるぞ」
「そうだな。……というか、お前らはどこに向かってるんだ?」
俺が疑問を投げかけると、タフノティシィが紫色の霧が立ち込める上空を指差した。
「俺たちは確実に奥へ近づいている。……見ろ」
タフノティシィの指す先、木々の切れ目から見える濁った空を、黒い影の群れが怪しく飛び交っている。
「あれは……魔獣?」
「あぁ。『元種』のコウモリ魔獣――バットラッシュだ。普段は暗い洞窟に巣を作り、群れで突撃して獲物を貪る凶暴な奴らさ」
「コウモリの『元種』……つまり、あの群れの来た方向あたりに洞窟があるってことか」
ゼクフィスの呟きに、タフノティシィが力強く頷く。
「あぁ、間違いない。身を隠すにも、森を抜ける手がかりを探すにも、まずはそこを目指すのが最善だ」
「決まりだな」
ゼクフィスは短く吐き捨てると、自らの武器を握り直した。
俺たち一行は意を決し、怪しい影が群がる洞窟の方向へ向かって、再び歩みを進め始めた――
――鬱蒼とした紫煙を押し分け、傾斜を登り切った俺たちの視界に、ぽっかりと不気味な黒い口を開けた洞窟が現れた。
その天井近くから、数体のバットラッシュが鋭い奇声を上げて飛び出してきたが、激戦を潜り抜けてきた俺たちの敵ではない。ゼクフィスの一撃と、エサマの流麗な剣技によって、空中であっけなく撃ち落とされる。
「……よし、中に入るぞ。長居は無用だ」
タフノティシィの合図で、俺たちは吸い込まれるように洞窟の内部へと足を踏み入れた。
外の気味悪い湿気とは異なり、洞窟内はひんやりとした静寂に包まれている。薄暗い通路を奥へと進んでいくと、不意に暗闇の中で、微かな青い光がゆらりと揺らめいた。
「これは……綴力岩……」
壁面に埋もれるように発光する鉱石を見つめ、エサマが感嘆の息を漏らした。
「これが……」
「えぇ。これがあるということは、恐らくここは……過去の派兵で到達できた、最終到達地点の付近です」
エサマの言葉に、周囲の空気が緊張と高揚で微かに跳ね上がる。
俺が「綴力岩の回収が目的なら、ここで手分けして――」と言いかけた、その時だった。
「……風……吹いてないか?」
これまで大人しく追従していた衛兵の一人が、ぽつりと口を開いた。
「風……?」
タフノティシィが驚いたように眉をひそめる。
「全員、静かにしてくれ」
タフノティシィの制止に、その場の全員が息を殺した。
しんと静まり返った岩肌の隙間から――ヒュゥ、と耳をすませなければ聞き逃してしまいそうな、微かな風の揺らぎと音が聞こえてきた。
「行き止まりじゃない……奥に、出口か別の空間が繋がっているな」
「進みましょう。何かがあるはずです」
エサマの言葉に頷き、俺たちはさらに奥へと足を進めた。
進むにつれて壁面を彩る綴力岩の数は目に見えて増えていき、青い幻想的な光が俺たちの足元を照らし出す。道は平坦ではなく、急な登り坂や脚を滑らせそうな下り坂が交互に現れ、体を酷使させられた。
怪我を隠して荒々しく呼吸するゼクフィスを気遣いながら、高低差の激しい洞窟を必死に進む。
そして――曲がり角を一つ抜けた先。
闇に目が慣れていた俺たちの視界を、強烈な光が眩惑するように貫く。
「光……!?」
眩しさに目を細めながら、俺たちは吸い寄せられるようにその光の先へと踏み出していった。




