ナイフを持つ者
「……案外、あっけなかったな」
泥の上に転がる肉塊を見下ろし、ぽつりと呟く。
思考を研ぎ澄まし、命を賭して導き出した解だったが、いざ決着がついてみれば拍子抜けするほど一瞬だった。自分の額を刺す手の感覚が、まだ掌に気味悪く残っている。
「ファイ・ニアス……」
エサマが、荒い息を整えながらゆっくりと立ち上がった。その目は、驚愕に、そして言い知れぬ畏怖を混じらせて俺を見つめている。
「無事ですか……?」
「あぁ。俺の読み通りなら、痛みすら来ないはずだったからな」
短剣を雑に拭って鞘に納めると、俺は周囲へ視線を向けた。
「とりあえず、ザラオを起こしに行くぞ」
先ほど、化け物の一撃を食らい、遠くへ吹き飛ばされて倒れていたザラオのもとへ歩み寄る。泥に塗れた巨体はピクリとも動かないが、胸はかすかに上下している。死んではいない。
俺がその肩を揺さぶろうとした、その瞬間――
「うおおおぉぉッ!!」
ドバッ、と音をたてながらザラオが跳ね起きた。
血走った両眼で叫びながら、即座に斧を上段に構え、周囲を激しく睨みつける。
「どこだッ!?あの化け物はどこへ行ったッ!?」
「落ち着いてください、ザラオ」
エサマが素早く間に割り込み、毅然とした声で手で制した。
「セニモは……あの化け物は、既にファイ・ニアスが討ち取りました。もう脅威はありません」
「……あ?」
ザラオは構えたまま固まり、俺と、その奥に転がる無惨な肉塊を交互に見つめた。
激しい息遣いが徐々に静まり、状況を理解するにつれて、その顔に不機嫌な色が濃くなっていく。
「……そうかよ」
盛大な舌打ちを一つ。
ザラオは斧を強引に背中に戻すと、気まずそうに顔を背け、周囲の被害状況へ視線を巡らせた。感謝も無礼の謝罪もない。ただ黙り込むその態度に、周囲には何とも言えない重苦しい空気が漂う。
殺伐とした静寂を破ったのは、小さく震える声だった。
「……一旦、休まない?」
リシェラの声が、重苦しく沈んだ空気を切り裂いた。
不安そうに眉を下げた彼女が、足元がおぼつかない様子で残った衛兵たちの顔を見回す。
「皆、心も体もボロボロだし……少しだけでも体力を整えないと、この先で何があっても動けないわ」
「……そうですね。一理あります」
エサマが小さく頷き、緊張の糸が切れたように深く息を吐いた。
「全員、その場に腰を下ろして息を整えてください。ただし、警戒だけは怠らないように」
衛兵たちが力なく泥の上に座り込んでいく。
俺もその場に腰を下ろし、湿った大地の感触に身を委ねた。
ふと視線を投げると、そこに転がっているのは、先ほどの戦闘で首を跳ね飛ばされた衛兵の骸だ。
赤黒い血が泥に染み込み、すでに冷たくなりつつある。
……もし、俺がもっと早くあの呪いのカラクリに気づけていれば。
思考の糸を手繰り寄せるのがほんの数秒早ければ、あいつは死なずに済んだのかもしれない。
胸の奥に、ぬめりとした割り切れない感情がへばりついて離れない。
「……ファイ・ニアス」
すぐ隣に腰を下ろしたエサマが、声をかけてくる。
「何だ?」
「貴方の判断には驚かされました。あのような極限状態で自らの体に刃を突きたてるなど……正気の沙汰ではありません。一歩間違えれば、ただの無駄死にだったはずです」
「……咄嗟だっただけさ。確証はなかったが、他に手がなかったのも事実だ」
短く返すと、エサマは感心したように、どこか呆れたような息を吐いた。
会話の合間、ふと強い視線を感じて顔を上げる。
少し離れた場所で膝を抱えて座っているリシェラが、じっとこちらを見つめていた。俺と目が合うと、彼女は気まずそうにさっと視線を逸らした。
……やはり、失われた記憶のことが気になっているのだろう。
声をかけて何か確かめるべきか。迷いが頭をよぎり、俺が口を開きかけた――その時だった。
「……生きて帰れたら、妹に謝りたいものですね」
不意に、エサマがぽつりと呟いた。
聞き捨てならない言葉に、俺はエサマへ視線を戻す。
「妹?」
「えぇ。私には歳の近い妹が一人います。……第三区画で働いているのですよ」
エサマは遠くを見るような目で、静かに語り始めた。
「昔、父親が亡くなったのをきっかけに、私たちは別々の生活を送るようになりました。ですが……今でも定期的に会い、互いの無事を確認し合っています」
「そうだったのか……なら、どうして謝りたいなんて思うんだ?」
「今回の遠征に入る前、少し口論になってしまいましてね。……私がこうして危険な衛兵を続けていることが、彼女には理解できないようなのです」
エサマは自分の手元にある剣の柄に、そっと指を添えた。
「ですが、私には譲れない理由がある。……妹が、少しでも生きやすい都市にしたいのです。このユカラディピアという場所を」
静かだが、強い信念の宿った声だった。
「それにしても……どうして急にそんな話を?」
不意に出た身内の話に俺が問いかけると、エサマは自嘲気味に小さく唇を綻ばせた。
「さぁ……死線を乗り越えて安堵したせいか、無性に誰かへ言葉を吐露したくなったのかもしれません」
そこには、これまで見せていた固く理知的な将校としての顔ではない、年相応のどこか嬉しそうな、一人の兄としての表情が見て取れた。
「妹か……。必ず会えるさ。だから、生きて帰らないとな」
「……えぇ、そうですね。必ず」
エサマは胸の奥の澱を吐き出したかのように柔らかく微笑み、手元の剣を静かに撫でた。
「メラリカも、きっと首を長くして待っているはずですから」
――え?
思考が、完全に停止した。
「……今、何て言った?」
「あぁ、妹の名前ですよ。メラリカというのです」
エサマの口から滑り出たその四文字が、俺の鼓膜を、脳髄を、激しく叩き割る。
――メラリカ。
耳を疑った。見間違いでも、聞き間違いでもない。
脳裏に、焼きついて離れない鮮明な光景が凄まじい濁流となってフラッシュバックする。
第三区画の屋敷。
互いに歩む道を違え、決別したあの日。
そして――狂気に瞳を濡らし、刃を構えて俺の命を奪おうと襲いかかってきた彼女の姿。
――「……諦めてください。ファイ様」
極光が貫き、顔が消え、地面に倒れ伏した少女。
俺のせいで、その命が絶たれた。
言わば、俺が――殺したのだ。
嘘だ。
心臓が鳴り響き、喉の奥がカラカラに乾き上がる。
嘘だ。
身体中の血液が急速に冷えていくような、背筋を凍りつかせる痛みに近い衝撃。
目の前で、妹への想いを静かに語るエサマ。
「妹が少しでも生きやすい都市にしたい」と、命を賭して戦ってきた男。
その男が愛し、生きて再会することを何よりの希望にしている妹を――
――俺が、殺した。
「ファイ・ニアス……?顔色が悪いですが、どうしました?」
俺の異常に気づいたエサマが、心配そうに覗き込んでくる。
声が出ない。
指先が、ガタガタと酷く震えていた。
口を開けば、胃の中の絶望を吐き出してしまいそうだった。
助け合った仲間。信頼を寄せかけた背中。
その男の希望を根底から打ち砕き、ナイフのような事実を突き立て、地獄へ突き落とす存在が、他ならぬ自分自身だという残酷すぎる現実が、俺の胸を容赦なく抉り穿っていた。




