瞬刻と蜘蛛
「――気色悪ぃ面しやがって。疾く、殺す!」
血を吐き出し、膝を折りかけたゼクフィスだったが、その鋭い瞳から光が消えることはない。
無数の複眼が一斉に蠢き、数十匹の『歪種』が放つ圧迫感が空気を押し潰す。だが、ゼクフィスは驚愕を瞬時に灼熱の殺気へと塗り替えた。
死角からの不可視の狙撃ではなく、敵の位置と数が割れたのだ。ならば、重傷の腹を庇って受けに回る理由などどこにもない。
ゼクフィスは噛み締めた奥歯から血を滲ませ、身体に残る綴力を猛烈な勢いで練り上げ、魔呪綴を綴る。
「――付与魔呪綴――『風・刹・雷 雷刃』!!」
咆哮と同時に、ゼクフィスの身を爆ぜるような稲妻が包み込んだ。
ゼクフィスの剣から迸る雷光は、鋭利な刃の如き殺意を帯びて激しく放電する。
ギチチチチッ!と危険を察知した『歪種』たちが一斉に鳴き、無数の紫糸を射出させる。空間を埋め尽くす死の繊維。しかし、雷刃を纏ったゼクフィスは踏み込み一筋で網の上へと躍り出る。
「そんなんで死んでやるかよ!!」
疾走。雷光を撒き散らしながら直進するゼクフィスの軌道上で、迫り来る紫糸の束が次々と焼き切られ、切り裂かれて飛散する。
糸の弾幕を完膚なきまでに破砕し、最短距離で肉薄。一番手前にいた一匹の前に突如として現れたゼクフィスは、雷光を溜め込んだ剣を容赦なく一閃させた。
ズバァンッ!!
紫色の体液が飛散する。
半透明な皮膜とグロテスクな内部器官ごと、一メートル超の蜘蛛の巨躯が斜め一文字に真っ二つへと両断された。一滴の猶予も与えぬ一撃離脱。切り裂かれた『歪種』は断末魔を上げる隙すらなく、巨木の枝から下層の霧の中へと死体となって落ちていく。
だが、狩る側であったはずの同胞が瞬殺されたことで、群れ全体の空気が変わる。
――バサリッ、バサバサバサッ!!
不快で湿った羽音が、巨木の梢全体に鳴り響く。
網の上に蠢いていた数十匹の『歪種』たちが、背に生えた鮮やかな蝶々の羽を一斉に大きく羽ばたかせた。重力を置き去りにし、巨躯がふわりと浮き上がる。
蜘蛛でありながら、上空の空間を縦横無尽に泳ぐ完全な飛行能力。それらは霧の上空を円を描くように旋回し、一斉に宙からゼクフィスを見下ろす立体的な陣形へと移行した。
「……蜘蛛の癖に空飛んでんじゃねぇよ……!」
上空からの包囲網。腹の傷が激しく痛み、視界が明滅する。だが、ゼクフィスは空中で羽ばたく歪種を見上げ、血に濡れた唇を歪めて笑った。
呼吸を整える間もなく、練り上げた綴力を風の属性へと瞬時に変調させる。
「付与魔呪綴――『風・刹・雷 風迅』!」
ガァンッ!!と大気を揺らす強烈な破裂音。
ゼクフィスの剣から放たれたのは、見えない風の刃を伴う苛烈な衝撃波だった。直進する暴風の塊が、宙を旋回していた二匹の歪種を正面から直撃する。
『――ギシャアアッ!?』
バサリと鮮やかな蝶の羽が根元からへし折れ、推進力を失った二匹の巨躯が、悲鳴のような駆動音を上げながら激しく体勢を崩した。風圧で引き千切られた羽の断片を散らしながら、重力に引きずり落とされるようにして、二匹の『歪種』が下層の紫煙の霧の中へと落下していく。
「ッ……!次だ……!」
ゼクフィスは息を吐きながら、間髪容れずに追撃の構えをとろうと剣を引き絞る。
――直後、背後の死角、上空の暗がりから空気を切り裂く微かな粘着音が鼓膜を打った。
――ヒュッ!
「クソっ――」
野性的な直感が警告を発し、ゼクフィスは咄嗟に体を捻って振り向きざまに剣を振るう。
しかし、急激な旋回運動に耐えきれず、腹部の激痛が破裂した。足元を踏ん張りきれず、軸足の膝がガクりと落ちる。正しく力を乗せられなかった白刃に、後方から撃ち下ろされた束状の紫糸が重く叩きつけられた。
ガキンッ!!
「ッ……!?」
強烈な粘着性と質量を伴った糸の衝撃。踏ん張りを失っていたゼクフィスの手首から、剣が力なく弾き飛ばされる。
回転しながら宙を舞う白刃は、足元の分厚い紫煙の霧を突き破り、そのまま遥か下層へと落下していった。
「……手元が狂ったか……!」
ゼクフィスは腹を固く押さえ、溢れ出る血を指の隙間から撒き散らしながら悪態をつく。
丸腰になった手負いの獲物を見逃すほど、目の前の『歪種』たちは甘くはない。主武装を失った瞬間を逃さず、宙を旋回する複数匹の蜘蛛が一斉に鳴き、雨のような紫糸を死角から幾重にも浴びせかけてくる。
足場は蜘蛛たちが作った網のみ。ゼクフィスは視界を染める痛みに歯を食いしばり、体一つで網状の糸の上を転がるようにして蜘蛛の群れをギリギリで回避し続ける。
だが、跳躍の着地地点――ゼクフィスが次の一歩を逃げ場のない糸へと降ろそうとしたその瞬間、頭上で待ち構えていた一匹の『歪種』が、完璧な着地狩りのタイミングで巨大な粘弾を射出する。
「チッ、避け――」
「基礎魔呪綴――『土砲』!!」
死を予感した瞬間、空間を切り裂いて、凛とした少女の声が樹上へと響き渡った。
ドォンッ!!
下層の霧を破って突き上げられた硬質な土で作られた弾頭が、ゼクフィスへ迫っていた紫糸の束を正面から強烈に撃ち抜いた。
粘着糸と土塊が空中ではじけ飛び、砕けた土砂の礫が雨となって降り注ぐ。
「ルナネア……っ」
驚愕に目を見開くゼクフィスの視線の先、霧を掻き分けて跳躍してきたのは、翠の美しい瞳に確かな怒りを宿したルナネアだった。
ゼクフィスが追及の言葉を口にする間すらない。
――ドガンッ!!
樹皮を破砕する暴虐な踏み込み音とともに、巨大な影が霧の層を爆発的に突き破り、二人の頭上へと躍り出た。
「遅くなったな」
背後に圧倒的な存在感を放つ巨躯――タフノティシィだ。
タフノティシィは滞空した瞬間、巨木の一本を太い脚で力任せに蹴りつけ、その反動を利用して砲弾の如き速度で急降下した。標的は、先ほどゼクフィスの剣を弾き飛ばした頭上の『歪種』。
「絶命しろ」
ドグシャァッ!!
空中で一閃された巨剣の威容。
ゼクフィスの剣を奪った一匹の歪種は、タフノティシィの一刀のもとに胴体を圧砕され、断末魔すら上げられずに肉塊となって上下に引き千切られた。
跳躍の余勢のまま、タフノティシィの重厚な巨体が蜘蛛の糸へと着地する。
メリメリと嫌な音を立てて糸がしなるが、タフノティシィはその巨体からは想像もつかない精密な重心移動で揺れを抑え込み、隙のない足場を瞬時に築き上げた。
巨剣を足元に構え直したタフノティシィと、後方に滑り込んだルナネア。
樹上の死界において、三人は再び背中を預け合う陣形を完成させていた。
「行くぞ――死角を作るな!」
タフノティシィの重厚な一声が、蠢く殺気を一瞬で束ね上げた。
「……うん」
ルナネアが涼やかな手つきで腰の刀を抜く。鞘から滑り出た鋭利な刃が、紫煙の薄闇の中でひやりと光を放った。
「……剣がなきゃ拳で殴りつけるまでだ。ナメんじゃねぇぞクソが」
ゼクフィスは荒い息を吐きながら腹の激痛を力任せに押さえ込み、血の滲む両拳を硬く握り締めた。手負いだろうが、丸腰だろうが、退くつもりなど毛頭ない。
「敵の機動力を削ぐ。合わせろ!」
タフノティシィが足元の糸網を爆砕するように踏み込み、巨体を弾けさせる。巨剣が一閃されるたび、空中を舞う『歪種』たちの羽ばたきを強引に叩き落とす。
「そこ……!」
体勢を崩した一匹に対し、ルナネアの身体が糸の上を滑るように滑空した。視界を交差する一閃。澄んだ切っ先が蜘蛛の不気味な複眼を一瞬で穿ち、紫の体液を散らしながら深々とその脳腔へと突きたてられる。そのまま刃を捻り抜くと同時に、死体を引き裂いて下層へと蹴り飛ばした。
「次はテメェだッ!!」
地を蹴ったゼクフィスが、落ちてくる別の『歪種』の顔面へと肉薄する。
右の拳に死力を込めた綴力を纏わせ、至近距離からその甲殻へ叩きつけた。
バギィンッ!!
甲羅が粉砕する不快な破壊音。一メートルの巨躯がゼクフィスの拳圧によってそのまま樹木の幹へと激突し、ぐしゃりと肉塊に変貌する。
「畳みかけるぞ!!」
タフノティシィの怒号とともに、三人は波状攻撃を仕掛けた。
空を覆う数十匹の歪種が放つ紫糸の網を、タフノティシィの巨剣がまとめて薙ぎ払い、生じた瞬間の隙へルナネアの刀が閃光となって飛び込む。撃ち落とされ、足場を失った蜘蛛たちの死角へ、ゼクフィスの血塗れの拳が容赦なく叩き込まれていく。
ズバァッ!グシャッ!ガギィンッ!!
連弾のように重なる破壊音と、撒き散らされる体液。
先刻までの死界の緊張感は雲散霧消し、そこにあったのは三人の凄絶な連撃による圧倒的な殲滅劇だった。
――やがて最後の一匹の蝶羽がルナネアの刃によって叩き切られ、タフノティシィの巨剣がその胴体を真っ二つに叩き潰す。
重い肉塊が下層の紫煙の中へ落ちていき、梢の上に静寂が戻った。
「――ゼクフィス!お腹、大丈夫?」
静寂が訪れた瞬間に駆け寄ってきたルナネアが、荒い息を吐くゼクフィスの前に膝をついた。翠の瞳に隠しきれない焦燥を浮かべ、血で濡れたゼクフィスの服の破れ目へ迷いなく手を伸ばす。
「……触んじゃねぇ、かすり傷だ」
「かすり傷なわけない!」
強がりを叩き伏せるようなルナネアの硬い声音に、ゼクフィスは言葉を詰まらせ、不機嫌そうに視線を逸らした。その声色がゼクフィスの身を本気で案じているのが嫌というほど伝わってくる。
「……命があっただけ儲けものだな」
頭上から降ってきたのは、巨剣を肩に担ぎ直したタフノティシィの低く重い声だった。呆れを含んだ視線が、丸腰で息を乱すゼクフィスを射抜く。
「一人で突っ走るなと言ったはずだ。死角からの狙撃に一変した戦闘で、単身前に出るのがどれほど無謀か……貴様ほどの手だれなら分かっていたはずだろう」
「……ッ、俺は――」
「助かったから良いものの、一歩間違えればお前は殺されていた。……仲間を頼ることを覚えろ」
正論しかなかった。反論の言葉を探して喉を絞り出そうとしたゼクフィスだったが、吐き出せたのは苦い血の味だけだった。
……まただ。
手当てを始めようとするルナネアの必死な顔と、自分を見下ろすタフノティシィの重厚な背中。それらを交互に見つめるゼクフィスの胸の奥で、鉛のような痛みがじわじわと広がっていく。
……シャルヴィエラの時と、何も変わってねぇ。
あの時もそうだった。自分の弱さのせいで後手に回り、結果的にファイという男に助けられた。
自分に対する身を切るような苛立ちと、圧倒的な無力感。
血の滲む両拳を二度と解けぬほど強く握り締めながら、ゼクフィスはただじっと、暗い空を睨みつけることしかできなかった――




