蜘蛛の紫糸
不気味にねじれ曲がった巨木の群れと、視界を遮るように足元を漂う紫煙の霧。
三人は息を殺し、踏み締める苔の感触に集中しながら、なおも歪んだ森の奥へと足を進めていた。先頭を行くタフノティシィの分厚い背中が、ゆったりとした、しかし一切の隙のない歩調で霧を掻き分けていく。
「……静かすぎるな」
タフノティシィが呟く。
鳥の声も、風が葉を揺らす音すら聞こえない。聞こえるのは、自分たちの荒い息遣いと、重傷を負ったゼクフィスが腹を押さえながら絞り出す、殺気立った足音だけだった。
「静かなのは結構なこったろ……。無駄な交戦は避けてぇんだよ、今の俺はな」
ゼクフィスは苦々しく吐き捨てながらも、右手に込める力を緩めない。白い服に滲む赤黒い血の染みは、一歩進むごとにジワジワと広がっているようだった。
「……ん?」
追従していたルナネアが、ふと立ち止まった。感情を抑えた瞳が、前方の暗がりをじっと見つめる。
「……どうかしたか?」
「……あそこ。誰か、いる」
ルナネアが指し示した先、濃い紫煙の霧の奥に、ぽつりと揺れる黒い影があった。
人の形をしている。立ち尽くしているようにも、うつむいているようにも見えた。
「――っ、まさか、ファイ……!?」
ルナネアが警戒心を忘れたかのように身を乗り出しかけ、タフノティシィが咄嗟に太い腕を伸ばして制した。
「待て。軽はずみに近づくな」
緊張が走る。だが、分断された仲間かもしれないという微かな期待が、三人の張り詰めた空気をわずかに緩ませた。タフノティシィは手袋を直すと、警戒を怠らない足取りで、ゆっくりとその人影へと近づいていく。ルナネアも短く息を吐き、足元の蔦を避けながら背後に続いた。
霧がうっすらと晴れ、その影の全貌が露わになる。
「…………え」
ルナネアの口から、短い絶句が漏れた。
そこにいたのは、生きている人間ではなかった。
巨木の幹に背をもたれかけさせるようにして立ち往生していたのは、原型を留めないほどに全身を損壊された、見るも無惨な死体だった。
装備の破片から探索者か何かだろうか。その全身は、まるで肉を絞り上げられたかのように異常なほど乾ききっており、顔面は恐怖に歪んだまま硬直している。
「……死んでるな。かなり前に、じゃない。……ついさっきだ」
タフノティシィは死体の変色しきった皮膚を見つめ、固い声で冷静に分析した。
人影を見つけて一瞬緩みかけた安堵は一瞬で霧散し、胸の奥に不気味さが突き刺さる。
このすぐ近くに、これを作り出した元凶がいるという証拠だった。
「チッ……気持ち悪ぃの見せやがって――」
ゼクフィスが吐き捨てるように言った、まさにその瞬間だった。
――ヒュッ!
頭上から空気を切り裂く鋭い不快音が響く。
「――タフノティシィ!!」
ルナネアの叫びと同時に、タフノティシィの野性的な直感が弾ける。
タフノティシィは確認するよりも早く、丸太のような太い脚で地面を強く蹴り、巨大な身体を力任せに前方へ転がす。
ズドンッ!!
タフノティシィがそれまで立っていた地面へ、空から何かが叩きつけられる。
直後、メリメリと音を立てて足元の腐葉土と太い蔦が抉れ飛んだ。
「……くっ……!」
泥を跳ね上げながら素早く体勢を立て直したタフノティシィが、鋭い眼光で背後を振り返る。タフノティシィがいた場所に落ちていたのは、重く粘り気のある紫色の糸だった。束になったその糸は、太い幹を一瞬で締め上げ、樹皮をズタズタに削り取っている。
「……糸……?」
「めんどいのが出たみてぇだな」
ゼクフィスが苛立ちげに顔を歪める。捕まれば命はない。あの無惨な死体が辿った末路が、嫌でも頭をよぎる。
三人はすぐさま背中を合わせるように陣を組み、同時に頭上を仰ぎ見た。
だが――そこには何も見えなかった。
上空を覆うのは、怪しくねじれ曲がった巨木の枝々と、深く立ち込める濃密な紫煙の霧だけ。
不気味な静寂が森を包み込む。敵がどこに潜んでいるのか、何体いるのか、果てはどんな姿をしているのかすら、霧の遮蔽によってまったく判別がつかない。
「……疾く、逃げるか?」
ゼクフィスが苦しい息の下から問う。
だが、タフノティシィは即座に重々しく首を振った。
「無理だ。足場が悪すぎる上に、視界はあいつらの独壇場。背中を見せて走れば、狙い撃ちにされて終わりだ」
「……ここで、叩くしかない」
ルナネアもまた、硬く短い声で同意した。
目指す方向も分からぬまま、見えない捕食者に追われて走るなど死と同義だ。腹を押さえるゼクフィスの状態を考えても、逃走という選択肢はすでに潰れていた。
死界の静寂の中、再び頭上の霧が揺らぐ。一度目の失敗を学習したかのように、今度は微かな音すら立てず、上空の闇から無数の紫糸が三人へ向けて容赦なく襲いかかってきた。
雨のように降ってくる死の網。三人は咄嗟に散り、泥と苔を蹴って紙一重でその暴威をかわした。
ズサァッ!と重い衝撃音が背後で響き、先ほどまで三人がいた地面が、束になった紫糸によって深く穿たれる。粘り気のある糸は一度樹木や地面に触れるや否や、強力な粘着力で全てを巻き込み、引き千切るように全てを剥ぎ取っていく。
「……ッ、危ない……!」
低く宙を舞って着地したルナネアは、硬い表情のまま身を低く保つ。だが、息をつく隙すらない。
次いで頭上から放たれるのは、一筋や二筋ではない。無数に枝分かれし、死角から波状攻撃となって降り注ぐ紫の猛威。姿も見えぬ敵からの絶え間ない不可視の狙撃に、タフノティシィがその巨体に見合う巨剣を薙ぎ、糸の直撃を凌ぐ。
「埒があかねぇ……。姿も場所も分からねぇ相手を、この足場の悪さで避け続けられるかよ……!」
腹部を激しく圧迫し、血の混じった唾を吐き捨てながらゼクフィスが吠えた。
受けに回ればジリ貧。重傷を負った己の肉体が長時間の回避行動に耐えられないことなど、ゼクフィス自身が一番理解していた。攻勢に出るしかない。敵の視界を遮るこの忌々しい霧の、さらに上へ出なければ、反撃の口すらないのだ。
ゼクフィスは噛み締めた唇から鮮血を滴らせ、身体に残された綴力を叩きつけるように練り上げる。
「――付与魔呪綴」
殺気立った声が歪んだ木々に響く。鋭い緑の瞳が、頭上を覆う不気味な暗がりを射抜いた。
「『風・刹・雷 刹那』!!」
次の瞬間、ゼクフィスの姿がブレた。
疾風のごとき速度。重傷を負っていることすら意に介さぬ猛烈な踏み込みが、濡れた苔と腐葉土を爆発的に跳ね上げる。
上空から襲いかかる紫糸の群れ。だが、ゼクフィスは空中を切り裂く雷光の如き不規則な軌道でそれらを完膚なきまでに置き去りにする。
「お前……!」
タフノティシィの驚愕の声を背に受けながら、ゼクフィスは捻れ曲がった巨木の幹へと直接跳び移る。
直角に近い木肌を、付与された機動力で重力を無視して駆け上がる。複雑に絡み合う太い蔦を蹴り、枝から枝へと矢のように跳躍を繰り返した。爪先が幹を捉えるたび、腹の傷口から焼き尽くすような激痛が全身を走る。白い服は一瞬で赤黒い血に染まり切っていったが、その速度が衰えることはない。
頭上を覆う、濃密な紫煙の霧。
その分厚い雲海のような紫の層を、ゼクフィスの身体が勢いよく突き破る。
「――がッ……っ!?」
霧を抜けた瞬間、溜め込んでいた痛みが限界を突破し、ゼクフィスの口から大量の血が噴き出した。膝が折れかけ、枝の上にどうにか片足をついて体勢を崩しかける。
荒い息を吐き、視界を血で滲ませながらも、ゼクフィスは己を強襲した元凶の姿を拝もうと首をはね上げた。
「んだよ、これ……」
ゼクフィスの顔が、愕然とした驚愕に引きつる。
霧の上に広がっていたのは、異界の如き光景だった。
巨木の梢を埋め尽くすように張り巡らされた、無数の巨大な紫の網。そして、その上に群がる蜘蛛の姿。
一匹あたりおよそ一メートル。
グロテスクに蠢く半透明な蜘蛛の胴体に、無数の不気味な光を放つ黒い複眼。そしてその背には、濡れたような艶をもつ鮮やかな蝶々の羽が怪しく揺らめいていた。
一匹や二匹ではない。
数匹――否、数十匹もの『歪種』が、頭上の世界を完全に支配し、奇妙な鳴き声を鳴らしながらゼクフィスを見ていた。




