分断
――同刻。
奇怪にねじれ曲がった巨木の群れと、足元を掬うように漂う薄暗い霧。
木々の隙間から落ちる光は斑模様に歪み、森全体がまるで生きて蠢く巨大な生き物の胎内であるかのような、不気味な静寂に満ちていた。
「――おい。起きろ。いつまで倒れているつもりだ」
力強い男の声と、肩を揺すられる武骨な手つきの感触。
重い瞼をこじ開けたルナネアの視界に飛び込んできたのは、紫煙のような霧と、自分を見下ろす男の顔だった。
どこか整然とした雰囲気に、野生味を足し合わせたような鮮やかな青髪。強面な目元に刻まれた厳しい皺。
そこにいたのは、いかつい顔に頼もしさを宿した男――タフノティシィだった。
「……タフノティシィ……?」
「そうだ。気分はどうだ?動けるか」
上体を起こしながら、ルナネアは夢現のまま周囲を見回す。
怪しげにねじれる木々、立ち込める暗い霧。そして、傍らで腕を組み、周囲を警戒するように立つタフノティシィの大きな背中。それだけだ。
どこを見渡しても、捜している『彼』の姿は見当たらない。
「――っ、ファイ!?」
弾かれたように立ち上がり、ルナネアは大声でその名を叫んだ。
「おいっ!?大声を出すんじゃない!」
不意の叫び声に、タフノティシィが驚きで太い眉を跳ね上げる。
いかつい強面を丸くして、困惑したようにルナネアを見つめた。
「……ファイは?他の人は……どこ!?」
「落ち着け。ここには三人しかいない。……それにしても、目覚まし代わりに少年の名前を叫ぶとはな。驚かせるな」
タフノティシィは深く溜息を吐くと、太い腕を組んで頭をかいた。その重厚な立ち振る舞いには、どこか落ち着かせるような頼もしさがある。
ルナネアはこめかみに手を当て、ズキズキと痛む頭の奥を探った。思考の靄を振り払うように息を吐き、失われていた直前の記憶を少しずつ手繰り寄せていく。
「わたし……どうしてこんなところで寝て……?」
静かな森の空気。不気味な霧。そして、途切れる前の最後の光景。
バラバラだった記憶の破片が組み合わさり、頭の中で一気に鮮明な映像となって蘇る。
「そうだ……わたしたち、戦ってた……」
「思い出したか?」
タフノティシィが重々しく頷く。
「突如として起きた衝撃波だ。前触れも何もなく現れた異形に、俺たちは一瞬で吹き飛ばされたわけだ」
「……ッ、そう……!あの凄い衝撃で、わたし……」
背中に残る痛みの残滓が、記憶が真実だと告げていた。
あの理不尽な急襲によって仲間たちは分断され、自分はここまで吹き飛ばされて気を失っていたのだ。
「ファイとも……あの攻撃で散り散りになった……」
吐き出すような言葉とともに、ルナネアはぎゅっと小さく拳を握りしめた。
胸を刺す不安。息を深く吐き出して心を落ち着かせようとしたその時、ルナネアの思考にふと、小さな違和感が引っかかった。
「三人……?」
タフノティシィが先ほど口にした言葉。
――「ここには三人しかいない」
「……タフノティシィ。さっき三人って――」
「テメェ……少しは静かにしろよ」
ルナネアが問いかけるより早く、ねじれた巨木の影から苛立った声が差し込まれた。
重い足取りで霧を掻き分けて姿を現したのは、鮮やかな緑髪を無造作に伸ばした男――ゼクフィスだった。
細身の眉を不機嫌そうにひそめ、鋭い眼光でルナネアを睨みつけている。
「ゼクフィス……!無事で良かった」
「無事に見えるかよ……」
悪態をつきながら、ゼクフィスは荒く息を吐いて巨木の幹に背中を預けた。
その強気な態度とは裏腹に、ゼクフィスの右手は深く腹部を圧迫している。指の隙間から溢れ出す赤黒い血が、身につけた白い服を重く染め上げていた。
「無理に動くなと言ったはずだぞ」
タフノティシィが強面をさらに歪め、心配そうに声を張る。
「あぁ?……大声で騒ぐから出てきてやったんだよ。動かねぇ方がいいのなんて分かりきってるだろうが」
ゼクフィスは苦々しく吐き捨てると、薄い唇を噛み締めて己の不甲斐なさを戒めるかのように顔を歪めた。
強靭なゼクフィスの身体をもってしても隠しきれないほどの重傷。そして、仲間との分断。今がいかに絶望的な状況かを、周囲の惨状が雄弁に物語っていた。
「これから……どうする?」
ルナネアは、腹の傷を押さえて荒い息を吐くゼクフィスと、傍らに立つタフノティシィを交互に見つめ、静かに問いかけた。
「どうするもこうするもない。動き出すぞ」
タフノティシィは太い腕を組んだまま、短く吐き捨てる。
青髪を濡らす湿った霧を払い、そのいかつい顔にさらに険しさを増させる。
「……この状況で突撃か?脳みそまで筋肉で詰まってんのか」
巨木の幹に背をもたれさせたゼクフィスが、皮肉めいた笑みを浮かべながら吐き捨てる。だが、その声には明らかな疲弊が混じっていた。
「黙って俺の後ろに控えろ。お前のその傷で先頭を歩かせる気はない。お前は後ろからついてこい。用心しながら進む」
「足手まとい扱いとは殊勝なこった」
ゼクフィスは悪態をつきながらも、反論の余地がないことを悟ったように、血に染まった右手で腹を固く押さえ直す。タフノティシィの分厚い背中の後ろへ、不承といった様子で足を進める。
「行き先は決まってる?」
ルナネアはねじれ曲がった木々が作り出す暗がりと、深く立ち込める紫煙のような霧の奥を見つめながら尋ねた。目指すべき方角も、ファイたちの無事すら分からないこの状況で、闇雲に動く危険性は重々承知していた。
タフノティシィは重々しく首を振る。
「いや、分からん。だが、ここで立ち止まっていても霧に呑まれるだけだ。今は進むしかない」
「行くぞ」
そう吐き捨てると、タフノティシィは右手の黒い手袋の端を強く引っ張り、手首の締め込みを直した。チラリと背後に視線を送り、腹を押さえて歪むゼクフィスの状態を厳しく確認する。
「……遅れるなよ」
「気安く指示すんな……」
ゼクフィスの口の減らない返答を聞き届け、タフノティシィの重厚な体が霧の奥へと踏み出される。
「……分かった」
ルナネアも短く返し、その背を追う。
足元は奇怪にうねる大樹の根と、生々しく這い回る太い蔦に覆われていた。湿った苔で滑る足場を慎重に踏み締め、転倒しないよう重心を低く保ちながら暗がりの中を進む。
息を殺して歩みを進める中、ふと胸の奥が熱を帯びる。
「……ファイ」
かつて、誰にも心を開いてもらえず、言葉すら捨てかけていたルナネアの小さな声。それを嫌な顔ひとつせず、ただ静かに聞き届けてくれたのがファイだった。
不器用で固い自分の言葉を笑うこともなく、理不尽な目にあわされた時には、自分のことのように拳を握りしめて本気で怒ってくれた。
――初めて、誰かに認められた感覚。
胸を焦がす思い出が、暗い森を進む足に力を与える。
「……絶対、生きてる」
固く短い呟きを一つ吐き捨て、ルナネアは飛び出た木根を軽やかに跳び越えた。
「前方に集中しろ。足元も怪しい」
前方を往くタフノティシィが、低く鋭い声で注意を促す。
「……大丈夫。見えてる」
ルナネアは感情を抑えた硬い口調で返し、滑りやすい蔦の群生を避けて着地した。
後ろではゼクフィスが殺気立った息を吐きながら、不機嫌そうに足音を殺してついてきている。
重苦しい静寂と紫煙の霧を掻き分け、三人はさらに深く、歪みきった森の奥へと足を踏み入れていった。




