水球 弾ける
水飛沫を叩きつけるように、巨躯の足元へと滑り込む。
「ぬあああっ!!」
ザラオの地響きのような咆哮とともに、大身の斧が空を爆砕した。異形の胴体から伸びる太い触手が一本、生々しい肉片を撒き散らして叩き落とされる。
「右から回る!合わせろ、ファイ!」
セニモの二振りが鋭い銀閃を描き、肉薄しようとする細腕の群れを微塵に刻んだ。
「分かった!」
頼もしい背中を盾に、俺は短剣を逆手に構えて泥を蹴る。前線で荒れ狂う二人の隙間を縫い、一気に核心へ迫る算段だ。
だが、あの気味の悪い馬頭が、こちらを嘲笑うかのように歪んだ。
「……ッ、何か集まって――」
ザラオの声が飛ぶのとほぼ同時だった。異形の顔面、そしてあちこちから生え出た触手の先端がぐにゃりと不自然に歪む。次の瞬間、周囲の水気を強引に吸い上げるようにして、何十もの透明な球体が空中に凝縮され始めた。
「魔呪綴です!受けてはいけません!」
後方からエサマの警告が響く。
ただの水塊じゃない。高密度で圧縮された死の弾丸だ。あれだけの数を至近距離で一斉に放たれたら、俺も、後ろの皆も穴の開いた肉塊に変わる。
「一発ずつ捌いてる余裕は……ないな」
言葉を紡ぐ思考すら惜しい。胸の奥から溢れ出す綴力を、息を吐き出す速度で一気に綴り出す。
「基礎魔呪綴――『絶綴掠頁』!!」
掠め取るイメージを強烈に脳裏へ刻みつける。
綴力が空間を撫でる感覚の直後、発射寸前だった水球の全てが、俺の魔呪綴に奪われる形でその場から消失する。
『ギ……ギギギアッ!?』
「それ、貰うぞ……!」
魔呪綴を奪われた異形が、肥大化した赤黒い眼球を零れ落ちそうなほど見開く。自分以外の干渉を受け、明らかに動揺している。
「俺はここだ!」
動揺の隙を見逃さず、触手をいなしながら短剣の刃先で肉薄する。
――確信を持って踏み込んだその瞬間。
右足の裏に、生ぬるくグニャリとした絶望的な感触が走った。
「なっ……!?」
「ファイ、足下が——ッ!?」
セニモの悲鳴に近い叫びが聞こえたが、もう遅い。踏み抜いたのは湿った土ではなく、川底の土中に深く潜ませていた別系統の細い触手だった。
『ガアアアアッ!!』
泥の中から跳ね上がった打突が、俺の身体を易々と空中へと打ち上げた。視界が急速に天地逆転する。浮遊感と同時に、内臓が裏返るような衝撃。
「ファイ・ニアス!!」
遠ざかる地面で、エサマが叫ぶの見えた。
地上では『ヒヒッ……キヒヒヒッ!』と人の笑い声に似た奇声を上げる魔獣の姿があった。
空中で体勢を崩した俺を確実に仕留めるべく、残された大量の黒い触手が、槍の群れとなって天を突く。死の針山が下から迫る。
空中では、回避の仕様がない。
「この程度で、死んでやるかよ……」
落下していく視界の中、不敵に口元を歪め、静かに息を吐き捨てた。
「――刻め」
魔呪綴を綴る。
さっき掠め取り、身体にストックしておいた水球が、俺と触手の間に唐突に出現した。
直後、圧縮された水気が一気に解放され、刃のごとき高圧水流となって全方位へ放出される。
『ガアッ!?』
空中を埋め尽くしかけていた触手の群れが、水圧ビームに根元からまとめて切断され、生温かい肉の雨となって舞い散る。
「無駄だ」
「マジかよっ……!」
ザラオの驚く声を聞きながら、残った太い触手の断面を、落ちざまにブーツの底で強く踏みつける。それを支点に飛躍、反動を利用してさらに前進。魔獣が怒り狂って頭部を振るうが、追加の触手を伸ばす動きより、俺の魔呪綴の残閃のほうが遥かに速い。
「まだ残ってるぞ!」
未だ起動していなかったもう一つの水球を馬の顔面へ打ち放つ。
ズドンッ!!
『ギャアアアアアアアッ!?』
超高圧の水流が、馬頭の右側に位置する肥大した眼球を直接破壊した。濁った体液と赤黒い血が爆ぜ、魔獣が身をよじる。
「右の視界を潰した!一気に畳みかけるぞ!」
視界を半分奪われ、叫び声を上げる異形の死角――
『ギ、ギオッ……!?』
右側の視界を全失した魔獣が、急にいなくなった俺の位置を探そうと、巨躯を不器用に蠢かせる。遅い。
「そこだッ!」
着地と同時に地を蹴り、無防備に晒された首筋へと、逆手に握り直した短剣の刃を、生ぬるい肉の層へと深々と突き立てた。
ズブシュッ!!
『ギウウウウ……ッ!』
そのまま体重を乗せ、横一文字に刃を引き裂きながら一気に駆け抜ける。肉と血管が断ち切られ、濁った黒血が勢いよく噴き出す。
『ガアアアアアアアッ!』
断末魔のような絶叫を上げ、魔獣が最後の足掻きと言わんばかりに巨軀全体を狂ったようにねじ曲げた。打ち振るわれた巨木のごとき胴体が、通り過ぎざまの俺の側面を容赦なく叩く。
「くそっ……!?」
受けきれず、泥の上を数メートル叩きつけられるように吹き飛ばされる。全身体打の痛みに息が詰まる。だが、視線だけは魔獣から外さない。首を深く裂かれてもなお、やつは残った触手を振り回しながらのたうっていた。まだ死んでいない。
「しぶとい……!」
「へたり込んでんじゃねぇぞ!」
荒々しい怒号とともに、前線へ飛び込んできたのはザラオだった。大身の斧を地面に叩きつけ、俺の目の前で大きく膝を折り、背中を差し出して叫ぶ。
「お前のことは気に食わねぇが、今はそれどころじゃねぇ!跳べッ!!」
「あぁ、借りるぞ!!」
迷う暇はない。俺はザラオの屈強な背中を足場にして思いきり踏み切った。
重い踏み込みをザラオが全身で受け止め、跳ね上げる。
身体が弾丸のように跳ね上がった。
視界の真下に迫るは、のたうつ馬頭の無防備な脳天。俺は両手で短剣の柄を握り直し、体重の全てを乗せて、その頭蓋の頂点へ向けて真っ直ぐに刃を突き立てる。
ドスッ……!!
短剣が魔獣の頭蓋を貫き、脳深くまで突き刺さる。
『ガ……ァ……ッ……!?』
鼓膜を揺らす引きつった死咆。巨大な胴体が最後の大痙攣を起こし、激しい水飛沫と泥を撒き散らしながら、ズルズルと倒れ込む。
完全に動きが止まったのを確認し、俺は荒い息を吐き出しながら短剣を引き抜いた。
「……死んだ、か……」
「やった……倒したんだ!」
後ろにいた衛兵たちから安堵の歓声が上がる。死闘を終えた緊迫感が、徐々に和らいでいく。
重い腰を持ち上げ、健闘してくれた皆のところへと行った。
――その後、川岸のひらけた場所へ移動し、全員で腰を下ろして息を整えた。木漏れ日が差し込む浅瀬で冷たい水を口に含み、固くなった筋肉をほぐす。
「……一時はどうなることかと思いましたが、見事な連携でしたね」
汗を拭いながら歩み寄ってきたエサマが、少し嬉しそうに話しながら俺を見つめた。
「特にファイ・ニアス。貴方の土壇場での機転と空中での対処……目を見張るものがありましたよ」
「あれはすごかったな。でも、一つ気になるんだが、途中で魔獣の魔呪綴が消えたのはお前の仕業か?」
二振りの剣を鞘に収めながら、セニモが低い声で問いかけてくる。
「どんな魔呪綴を使ったんだ?」
「あー……まぁ、大したものじゃない。ただの『独自魔呪綴』だよ」
俺は誤魔化すように視線をそらし、後頭部をかいた。横を見ると、ザラオが腕を組んだまま明後日の方向を向いて黙りこくっている。俺を背中で跳ね上げたのが不服らしい。
「皆、怪我してない?」
リシェラが心底心配そうな表情で俺たちを覗き込んでくる。
「あぁ、大丈夫だ。リシェラの『天界の杭』のおかげで踏み込めた。最高の援護だったよ」
「無茶ばっかりして……でも、無事でよかった」
ホッと胸を撫で下ろすリシェラの笑顔に、場が和やかな空気に包まれる――
――十分ほどの休憩を挟み、体力を取り戻した俺たちは再び歩き出した。
先ほどまでの死闘が嘘のように、森の空気は落ち着きを取り戻している。
隊列は、俺とエサマが先頭。
少し後ろにリシェラとザラオ。
そして最後尾を、セニモと衛兵たちが歩いていた。
足音だけが静かに響く中、隣を歩いていたエサマがふと口を開いた。
「それにしても、あなたの仲間は強いですね」
「リシェラのことか?リシェラの魔呪綴は本当に頼りになるからな」
「確かに彼女も素晴らしいですが……今、私が言っているのは彼ですよ」
「……は?」
言っている意味が分からず、俺は困惑した。エサマは歩みを緩めることなく、不思議そうに首を傾げている。
「セニモのことですが?」
「……何言ってるんだ、エサマ。セニモはユカラディピアの衛兵だろ?」
「いいえ」
エサマの声から、冗談のような軽快さが消えた。
「ユカラディピアの中にも……いや、ムドラニアの中にも、彼のような者はいません」
「え……?」
隣を見る。エサマの顔から余裕が消えている。
あの知的なエサマが、何かを察したように目を見開き、信じられないものを見るような驚愕を露わにしている。
「あいつは――」
エサマの顔色に呑まれ、俺も嫌な予感に背筋を凍らせながら、振り返った。
後ろを歩くリシェラたち、そしてさらにその奥の隊列へと視線を向けた、まさにその瞬間――
――グチュッ。
濡れた肉と骨が、強烈な圧力で破壊される嫌な音が響いた。
「……え?」
思考が、ピタリと凍りつく。
セニモの方を向き、何か話しかけようとしていたであろうエルフの衛兵。
その正面から、セニモの太い腕が——腹を一直線に貫通していた。
正面から突き立てられた腕は、背中側へ生々しく突き抜け、血飛沫すら遅れて吹き出すほどの異常な速度と威力を物語っている。
貫かれた衛兵は、激痛を認識することすら許されないまま、目の前に立つ男を見つめ、ゴボリと喉から大量の体液を溢れさせた。
ぬちゃり、と肉を削ぐ音を立てて腕が引き抜かれる。
支えを失った衛兵の身体が、まるで切れた糸のように地面へ崩れ落ちた。
「……っ、セ、ニモ……?」
喉から引きつった声が漏れる。
ゆっくりと立ち尽くすセニモが、血に濡れた己の腕を一瞥し、ぬっとこちらへ顔を上げた。
そこにあったのは、頼もしかった男の面影などではない。
光を一切反射しない黒ずんだ瞳。人間的な感情の全てが削ぎ落とされた、底知れない死の深淵。
この森の魔獣よりも、どんな異形よりも狂っている。
呼吸の仕方すら忘れた俺たちの目の前で、その怪物は静かに口角を吊り上げた。




