川の支配者
「何だ……あれ?」
思わず声が漏れていた。
視線の先、透き通った清流の最奥付近——岩陰の淀みから、不自然な気泡が湧き上がっていた。
ピチピチ、と小さく弾ける音が水面に波紋を広げる。ただの落差による空気の巻き込みじゃない。一定の周期で、底の砂利を押し上げるようにブクブクと泡が湧き出している。
「ファイ・ニアス?どうかしましたか?」
「……川底だ。何かいる」
鋭い緊張が走るのが分かった。後ろを見れば、エサマが即座に手信号を送り、リシェラと兵士たちを下がらせている。ザラオが嫌な笑みを消して斧の柄を握り直し、セニモはすでに腰の二振りの剣の柄に手をかけていた。
「確かめる」
俺は短剣を微かに引き抜き、足下に意識を集中させた。腐葉土の重みから、川の浅瀬へ。湿った岩肌にブーツの底を掛け、慎重に冷たい水の中へと一歩を踏み出す。
足首を叩く清流が、肌を通して脳を冷やす。
泡の出ているポイントまで、あと数歩。透明な水底には、ただ磨かれた丸石とわずかな藻が揺れているだけに見える。だが、この森の正常ほど信用できないものはない。
ふう、と息を吐き出し、また一歩踏み出す。
「……浅瀬の砂が、温かい?」
氷のように冷たい水流の底で、足裏に触れた砂利だけが、まるで生き物の体温のような異様な熱を帯びていた。直後、足裏の感覚がズレる。
硬い岩肌を踏んだはずの足裏が、ズブりと柔らかい肉のような感触に沈み込んだ。
「——っ!?」
思考より先に本能が全身の筋肉を弾き飛ばした。水面を蹴って後ろへ飛び退く。
バシャアンッ!
顔面に冷たい水飛沫が叩きつけられ、視界が途切れる。間一髪で後ろへ跳び退いていなければ、確実に足首を持っていかれていた。
「触手っ……魔獣か!」
着地と同時に湿った砂利へ膝をつき、必死に短剣を構え直す。心臓が胸肋を突き破りそうなほど跳ね上がり、呼吸がうまく整わない。
目線の先で、水面が激しく爆発していた。
弾け飛ぶ飛沫の奥から立ち昇ったのは、巨木の根と生々しい血管を強引に捩じ合わせたような、禍々しい漆黒の塊。粘液を散らしながら空気を穿つそれは、一本や二本じゃない。
川底のあちこちで砂利が盛り上がり、十数本もの黒い触手が、一斉に蠢き出している。
「全員、川から離れろ!!」
セニモの怒号が響く。
「っ……!?」
背後で誰かが短い悲鳴を上げ、後退する気配。衛兵たちの引きつった手つき、そしてザラオが怒声と共に斧を構え直す金属音が重なる。
浅瀬の冷たさなんて、もうどこにも感じない。川底から漂ってくるのは、腐敗した植物と生の血が混ざり合った、吐き気を催すような生臭さだけだ。
「……冗談だろ……」
ただの水場じゃなかった。この川そのものが、獲物を誘い込むための餌だったんだ。
「体制を立て直しましょう!」
エサマの鋭い声が飛ぶ。
だが、視線を上げかけたその瞬間——直前に踏みつけていた川底の砂利が大きく爆ぜ、一斉に俺へ向かって黒い触手が襲いかかってきた。
「くっ……!」
爆ぜた水底から迫る三本の漆黒を、がむしゃらに短剣で払う。
ギィンッ、と生臭い触手と肉片が跳ね飛び、手に嫌なシビれが残った。斬った感触が硬い。樹皮と筋肉が癒着したような、生ぬるい手応えだ。間髪入れずに次の触手が目と鼻の先へ迫る。かわしきれない――
「手前の獲物に集中しやがれ、ファイ!」
横合いから旋風のように飛び込んできたザラオが、大身の斧を振り下ろした。
ドガァンッ!
俺の背後へ回り込もうとしていた二本の触手が、まとめて叩き切られ、水面へ叩きつけられる。
「隙が大きいですよ、ファイ・ニアス!」
右側からはエサマの鋭い踏み込み。滑らかな剣筋が空を切り、伸びかけた細い根をまとめて一閃で削ぎ落とした。
「左は気にするな!」
左手からはセニモだ。二振りの剣が交差する残像とともに、迫る触手が何十もの肉片となって舞い散る。圧倒的な手数と無駄のない斬撃。
「助かった……三人とも、ありが――」
「感謝なら後にしてくれ!」
セニモが言葉を遮り、顎で示してみせるその先は、さっきまで不自然に気泡を吹き出していた、あの川底の淀みだ。
触手どもを斬り払っても、あの泡だけは不気味に勢いを増している。根元はあそこだ。あいつを潰さなきゃ、永遠にこの地獄は終わらない。
「あそこに本体が……っ!」
俺は濡れた砂利を強く蹴った。
蠢く触手の間を縫うように、一気に距離を詰める。水飛沫を上げて踏み込む俺の正面から、極太の触手が、槍のごとき勢いで一直線に突き出された。
「正面からじゃ厳し――」
「独自魔呪綴――『天界の杭』!!」
凛としたリシェラの叫びが木霊した。
頭上から降り注いだ光の杭が、激しい音を立てて俺の目の前の川底へ突き刺さる。直撃を受けた触手が悲鳴のような音を上げて歪み、俺の進路から大きく逸れた。
「頑張って!!」
「あぁっ!!」
リシェラが作ってくれた一瞬の隙。短剣を逆手に握り直し、泡の湧き上がる川底の核心へ向けて、全力を込めて刃を突き下ろした。
ドスッ!!
手応えは確かにあった。短剣の刃が、川底へ深々と根元まで突き刺さる。
もらった……っ!
そう確信した次の瞬間、足元の川底全体が地鳴りのような咆哮を上げた。
『ガァアアアアアッ!!』
バッシャアアンッ!!
刃の刺さった地点を中心に水面が爆発し、濁流が津波となって押し寄せる。俺の身体は衝撃波だけであっけなく空中に吹き飛ばされた。
「っ……!?」
背後でリシェラの悲鳴が聞こえたが、振り向く余裕なんてない。川岸へ転がるように叩きつけられ、打撲の痛みを力ずくでねじ伏せて跳ね起きる。
短剣を構え直した俺の目の前で、水飛沫を散らしながら、それが川底から這い上がってきた。
「あれは……なんだ……?」
ザラオの呆れたような声が重なる。
その気持ちが痛いほど分かるくらい、目の前の生き物は悪意で捏ね上げたようなグロテスクな異形だった。
全体的なシルエットは巨大なイカに近い。だが、ぬめりを帯びた漏斗状の胴体から伸びる首から上は、皮膚の剥げ落ちた馬の形をしている。さらに異常なのはその顔面だ。
馬の頭部からは出目金のように肥大化したふたつの赤黒い眼球が飛び出し、焦点も合わずに蠢いている。そして何より気味が悪いのは鼻面だった。馬の鼻孔に当たる部分から、人間の腕のようなモノが蠢きながら生え出て、空を虚しく掻きむしっていた。
「……あんなのが生き物なの?」
リシェラの強張った声が響く。姿は見てないが、吐き気を必死に耐えているような呼吸の乱れが伝わってきた。
「馬と……イカ……?それに、鼻から生えてる手……不気味すぎるな」
セニモが吐き捨てる。
「しかし……見事なまでの『歪種』ですね。これは、中々お目にかかれませんよ」
緊迫した空気の中、エサマの声だけがどこか観察者のようだ。
「あんな無茶苦茶なやつに感心してる場合か」
「馬の強力な生命力、頭足類の柔軟な触手、そして人間の手……これほど節操なく雑多な生物の特徴が強引に縫い合わされた個体は珍しいという意味です。この森の歪みが、いかに濃密かを証明していますね」
「分析は後にしろ、なんか来るぞ!」
ザラオが斧を肩から降ろし、凶悪な笑みを浮かべて前に出るのが視界の端に見えた。
「見た目は吐き気がするほど泥臭ぇが、切り甲斐だけはありそうだ!」
「油断するな!あの鼻の手、嫌な気配がする!」
セニモが二振りの剣を低く構え、太い傷痕のある顔を歪めて叫ぶ。
「ファイ・ニアス、足元に気をつけてください。本体が出てきたということは、あの触手のリーチも跳ね上がるということです」
「分かってる!全員、一気に行くぞ!!」
俺は泥を蹴り、短剣を強く握り直して蠢く異形へと再び踏み込んだ。




