幻生種
「足元に気を付けてください。枯れ枝を踏む音一つが命取りになります」
エサマの静かな指示に従い、俺たちは隊形を整えて歩き出した。
先頭をエサマが進み、中央にリシェラと人間の衛兵、殿を俺とザラオ、そしてエルフの兵士が固める。互いの距離を一定に保ち、全方位への警戒を怠らない。湿った腐葉土に足先から慎重に体重をかけ、息を殺して樹海の闇を擦り抜けていく。
周囲を威圧するように聳え立つ巨木群、まとわりつくような重い空気。
この森の異質な圧迫感に背筋を撫でられながら、俺は前に並んで歩くエサマへ静かに声をかけた。
「……エサマ。この森について、知っていることをもっと教えてくれないか」
俺の問いに、エサマは前方を注視したまま、淡々と口を開いた。
「いいでしょう。事前調査で判明している範囲ですが……この森に生息する魔獣の脅威度は、おおよそ三段階に分かれています」
エサマの落ち着いた声音が、耳元で滑らかに紡がれていく。
「一段階目は、『元種』。これは一般的な生態系に存在する、どこにでもいる魔獣ですが……この森の濃密な綴力の影響か、通常個体よりも遥かに侮れない力を持っています。二段階目が、最初に私たちが交戦した『歪種』。複数の魔獣の特徴が不自然に混ざり合った、文字通り歪な個体群です。」
「……最後が、俺たちを吹き飛ばしたあの化け物か」
「えぇ。三段階目が、あの怪物と同じ『幻生種』。基本的に遭遇した時点で討伐は不可能と考えた方がいい、この森特有の生態系を逸脱した存在です。特徴としては、人間に匹敵する高い知性と固有の強力な能力。加えて――」
エサマは一瞬だけ言葉を切り、背後の俺たちを振り返ることなく続けた。
「――周囲の綴力を自給自足し、傷を再生させる底なしの生命力を持っています。要するに、生きた自然災害のようなものですよ」
「怪我……回復してなかったぞ」
ふと脳裏を掠めた光景に、俺は思わず呟いていた。
「あの『幻生種』……身体中に傷を負ってた。削れた肉も塞がってなかったはずだ。自給自足で再生できるなら、なんであの傷は治ってなかったんだ?」
俺の指摘に、エサマの足取りがわずかに緩む。
「……鋭いですね」
前方を向いたまま、エサマは感心したように細く息を吐いた。
「理由は定かではありません。ですが……何者かが、『再生そのものを不可能にする傷』を与えたと考えるのが妥当でしょう。まぁもしかすると、怪我を負ってすぐだったのかもしれませんがね。いくら傷が癒えるとはいえ、多少の時間は必要ですから」
「再生すら出来ない傷……?そんな無茶苦茶な真似、誰ができるって言うんだよ」
「心当たりがないわけではありません」
エサマの静かな声が、樹海の静寂に溶け込んでいく。
「かつてこの地に派遣された過去の派兵隊の中に一人、規格外の怪物が混ざっていたという記録があります。恐らくはその者の仕業かと。……この森には、過去に六度の派兵が行われた歴史がありまして――」
淡々と語り続けようとするエサマだったが、ハッと気づいたように言葉を区切った。
「失礼、少々喋り過ぎましたね。今は警戒に集中すべきです」
「待って、エサマ。お願い……私も気になるわ。教えて欲しい」
中央を歩いていたリシェラが、すがるような目でエサマを見る。未知の恐怖に包まれたこの森で、少しでも多くの情報を欲しているのは皆同じだった。
「長くなりますし、移動の妨げになります」
躊躇うエサマに、リシェラのすぐ後ろから低い声が落ちてきた。
「構わない、俺も話を聞かせてほしい」
声を上げたのは、衛兵たちの中に混ざっていた男だった。気圧されるような鋭い眼光、そして右頬から首元へと走る太い裂傷痕。若い容貌に似合わず、一目で修羅場を潜ってきたと分かる重厚な雰囲気を纏った赤髪の男だ。
エサマが足を止め、静かに振り返る。
「……貴方は?」
「失礼、俺はセニモ・パーティラノだ」
赤髪の男――セニモは短く名乗り、力強い手つきで腰の二振りの剣の柄を握り直した。
「……分かりました。警戒を怠らないことを条件にお話ししましょう」
折れたのはエサマだった。仕方ないと言わんばかりに小さな溜息を漏らし、再び前方に視線を向けながら歩調を保つ。
「過去、この不気味な樹海には六度の派兵隊が送り込まれています。しかし――無事に生きて帰還できたのは、後にも先にも五度目の派兵の時だけです」
静かな声で明かされた事実に、息を呑む気配が背後に広がる。
「……生還できたのは、たったの一度だけ?」
セニモが低く問いかける。
「えぇ。しかもその一度において生きて戻れたのは、たったの一人。残る五回の派兵隊は、影も形もなく全滅しています」
「そんな……ッ」
リシェラが胸元で手を固く握りしめ、顔を強張らせた。だが、すぐに疑問が浮かんだようにエサマの背中に問いかける。
「待って、エサマ。そこまでの強い人がいたなら……今回の派兵にその人がいないの?その人がいてくれれば……」
「参加したくとも、不可能だったのです」
エサマの返答は素っ気ないほど冷ややかだった。
「その者はかつて、世界最高峰と謳われた『最強の魔呪綴師』でした。しかし……その五度目の派兵で相見えた悪夢のような存在によって、二度と解けぬ呪いを刻まれたのです」
「呪い……?」
俺が繰り返すと、エサマは僅かに頷いた。
「えぇ。当時の記録によれば、元々その派兵の時、森全体を覆っていたのは『周囲のあらゆる存在から綴力を剥奪・消失させる呪い』でした。その魔呪綴師は死闘の最中、森そのものの呪いに侵された上、敵対した存在から追い打ちのように直接的な封印の呪いを受け……結果、二度と魔呪綴を使えぬ身体となったのです」
「綴力を完全に失い、封じられた……」
その言葉の重みに、俺の喉が渇いた。
この過酷な世界において、綴力を奪われることが何を意味するか。ましてや、あの無敵に近い『幻生種』に再生不能の深手を負わせるほどの規格外の男が、だ。
「最強と呼ばれた者すら道を絶たれ、二度と戦えなくなる場所……それが、私たちが今足を踏み入れている森の正体ですよ」
「……」
誰も言葉を発することができなかった。
張り詰めた空気の中、足音の摩擦音だけが重く響く。
最強とまで称された男が牙を折られ、力を奪われて敗れ去った場所。俺たちが今いるのは、そんな正真正銘の地獄なのだという事実が、重く胸にのしかかっていた。
嫌な汗が頬を伝い、湿った腐葉土の匂いが一層濃く感じられる。
静寂が再び俺たちを包み込もうとした、その時――
――ピチャン。
かすかな、だが確かな水音が耳朶を打った。
「……?待て」
俺は足を止め、全神経を耳に集中させる。
「どうしました、ファイ・ニアス?」
「水の音……?」
俺の発言に、全員が息を呑んで耳を澄ませた。
微かなせせらぎの音が、木立の奥から絶え間なく聞こえてくる。
「行ってみましょう。ですが警戒は怠らずに」
エサマの合図で、俺たちは足音を潜めつつ小走りで音のする方角へ向かった。茂みを掻き分け、太い幹を迂回した先――俺たちの視界がふっと開けた。
「これは……川、なのか……?」
そこに広がっていたのは、深い樹海を切り裂くように流れる山あいの清流だった。浅くはあるが、川幅はそこそこに広く、透明な水が岩肌を叩いて白い飛沫を上げている。
不気味な暗闇の中で、そこだけが僅かに日光を反射して輝いて見えた。ひとまずの安全を確認し、兵士たちの肩から緊張がほんの少しだけ抜ける。
だが、川べりに歩み寄ったエサマの表情は、安堵とは程遠いものだった。
「……おかしいですね」
エサマは川面を見つめたまま、低く呟いた。
「過去の派兵記録……と言っても、まともなデータが残っているのは五回目の生還者のものだけですが……」
エサマは静かに首を横に振る。
「その記録のどこにも、この森に水場が存在するという記述はありません。川はおろか、小さな池すらなかったはずです」
「じゃあ、ここは……」
リシェラが息を呑む。
「えぇ。私たちが今いるこの場所は……本来、到達するはずだった領域とは全く異なる場所である可能性が極めて高いです」
突きつけられた新たな事実に、広がっていた束の間のみずみずしい安堵は、一瞬にして不穏へと塗り替えられた。




