捨て駒
開けた土地へ抜け出た瞬間、頭上を覆っていた巨木の密林がわずかに切れ、重苦しい灰色交じりの薄光が落ちてきた。
地面は幾分か踏み固められており、周囲の鬱蒼とした木立ちから一距離を置けるだけの空白が広がっている。隊列の全域で張り詰めていた糸がふっと緩み、至るところで粗い息吐きと武具の擦れ合う硬い音がこぼれ出た。
「全員、その場に留まれ。馬を繋ぎ、少し脚を休ませるぞ」
タフノティシィの鋭い指示が静寂を切り裂く。
兵士たちは速やかに手綱を引き、幹の太い樹木へと馬を結びつけ始めた。長時間の行軍と先ほどまでの狂乱した泥濘戦で、騎馬の筋肉は限界近くまで硬直している。鞍を下ろし、張り詰めた後脚を擦り込むように撫でてやる作業が周囲で手際よく進められていった。
俺も手綱を木枝へ巻きつけ、短剣を腰の鞘へと押し戻す。金属の感触が指先をかすめ、微かな悪寒となって背筋を駆け上がった。
「……一息ついたら、すぐに出発かしらね」
リシェラが額の汗を指先で拭いながら、自身の馬の首筋を優しく叩いている。横ではルナネアが沈黙を守ったまま、自身の刀の柄にそっと触れ、呼吸を整えていた。
全員がそれぞれの動作で鋭気を養おうとしていた、その時だ。
「ファイ・ニアス。無事だったんですね」
背後からかけられた声に、肩を跳ねさせて振り返った。
そこに立っていたのは、見覚えのある軽薄そうな笑みを浮かべた紺髪の男――エサマだった。
「……エサマか。なんでお前がここにいる」
思わず警戒を混じえて問い詰めると、エサマは肩をすくめ、慣れた手つきで髪をかき上げた。
「酷い言い草ですね。私だってユカラディピアの衛兵です。ここにいたっておかしくはありませんよ。それより、逃げきったとは思っていましたが、指名手配されているはずの貴方がこんなところにいるなんて、一体どんな風の吹き回しですか?」
「……色々あったんだよ」
視線を僅かに逸らし、言葉を濁す。
死線を超えてここに立っている経緯を、いちいちこの男に説明する気にはなれなかった。過去の惨劇も、手に入れた力も、胸の奥に秘めたままにしておきたいことばかりだ。
「そうですか」
エサマは追及するでもなく、淡々とした声で受け流した。その底の知れない瞳が、俺の表情の裏側を探るように揺れている。
「お前こそ、俺なんかを逃がしてお咎めなしか?」
「えぇ、私はお咎めなしです。それにしても、いつも上で偉そうにしている連中の焦った顔といったら……あれは最高でしたね」
「そうか……」
胡散臭い男ではあるが、あの局面で彼の手助けがなければ俺が生き残れなかったのも事実だ。俺は軽く息を吐き出し、言葉をつけ足す。
「……ありがとうな。あの時は助かった」
「……あはは!」
俺の感謝の言葉が可笑しかったのか、エサマは口元を押さえ、喉を鳴らして笑い出した。
「お礼なんて言われる筋合いはありませんよ。私はただ、自分の興味に従っただけですから」
「ファイ……?その人は、知り合い?」
控えめな声と共に、ルナネアが歩み寄ってきた。握りしめた刀の柄から手を離し、不審なものを見るような視線をエサマに向け直している。
「あぁ。まぁ……腐れ縁みたいなもんだよ」
「へぇ、仲間がいたんですか」
エサマはルナネアをチラリと一瞥すると、興味深そうに眉を上げる。
「まさか、こんな危険な場所に連れ立つ同行者がいるとは思いませんでしたよ。お連れが戻ったようですし、私は私の仕事に戻るとします」
そう言い残し、エサマは何事もなかったかのように身を翻し、遠ざかろうとした。
――タフノティシィが率いるこの部隊の真の目的。
ふと、この遠征が始まる時から頭を支配していた疑問が顔を覗かせる。アルフォリエは資源の確保などだと言っていたが、そうとは思えない。資源を確保するのにこんな人数がいるだろうか?
胸の中にくすぶっていた違和感が、確信へと変わる。
「エサマ!」
去りかける背中に向け、俺は思わず声を張り上げて呼び止めた。
エサマは足を止め、首だけをこちらへ振り返らせる。
「エサマ、この部隊は一体何なんだ?それに……お前はこの『幻憶の森』について、どこまで知っている?」
俺の問いかけに、エサマの口元が再び怪しい笑みを刻んだ。
俺の切迫した問いかけを受けると、エサマは去りかけていた足を止めた。
「仕方ありませんね」
笑みを浮かべたまま、エサマは軽やかな足取りで俺たちの方へと戻ってくる。一歩刻むごとに、彼の周囲に漂う掴みどころのない胡散臭さが重みを増していくようだった。
隣に立つルナネアが、警戒を露わにして刀の柄へ再び指をかけた。エサマはそれを意に介する様子もなく、俺の真ん前に立つと、周囲の雑音を遮るように音量を落として口を開く。
「まず初めに、この部隊は、ユカラディピア家が支配する『都市国家ユカラディピア』の軍とムドラニア家が支配する『ラ・ムドラニア帝国』の連合軍で構成されています。それは知ってますね?」
「あぁ」
「今回の派兵は『都市国家ユカラディピア』の独立を支持してもらう上で必要だった資源を献上するためのものです」
「資源……」
アルフォリエからも聞いた言葉だ。
「そうです。ユカラディピアは以前にも、この『幻憶の森』に何度か派兵をしています。その内に一回だけ、これより先の地帯で綴力の結晶である綴力岩が見つかってるんです」
「その結晶を俺らが取りに行くのか?」
「表向きはそうです」
「表向きは?」
エサマの言い方が引っかかる。
「えぇ、恐らく本当の目的は、この森の実力判断です」
どういう意味だろうか?実力判断。一体何のために。
「簡潔に言いましょう。私たちは――捨て駒です」
「は?」
エサマから唐突に出た言葉。その真意が……分からない。捨て駒?捨て……駒?
「何で俺らが捨て駒になるんだよ。さっきだって魔獣を簡単に突破出来ただろ?このまま行けばその綴力岩とやらのところまで行けるんじゃないのか?」
「事はそう単純じゃありません。さっきの魔獣、犠牲は何人出ましたか?」
「俺が見たのが全員なら一人だ」
「そうです。一人も犠牲が出たんです」
エサマの声に迫力が籠る。
「私は数度、この森に入ったことがあるんです。勿論、もっと手前で止まりました。内容はこの森にかかる呪いの種類の調査です。その時に私は魔獣に何体か会いました。さっきの魔獣もその中にいたんです。そして、私が会った中だとあの魔獣は――この森最弱に近いと言えます。他にも数体弱い魔獣はいました。ですが、あれより強い魔獣はゴロゴロいます。ましてやこの先などどれほど強い魔獣がいるか分かったことではない。私の言いたいことは分かりましたか?」
語り終えたエサマは、細めた目をいっそう細め、俺の表情を突きつけるようにじっと見つめてきた。その瞳には、俺たちの混乱や動揺をどこか楽しんでいるような、観察者特有の光が宿っている。
「……俺らは戦力が不足していると言いたいのか?」
「えぇ、そうです。恐らくは、意図的に戦力を減らしたのかと」
「何のためにそんなことを……」
「さっき言いましたよ。この森の実力判断です。どれほどの実力があれば帰ってこれるのか、どれくらい奥に行けば死ぬのか、その見極めに私たちは使われたんです」
「……」
「まぁ、あくまでもこれは私の推論です。信じるかどうかは貴方次第です」
そう言い放つと、エサマは今度こそ満足したように首を振った。大袈裟に手を一回だけ振って背を向け、そのまま先頭集団の雑踏の中へと消えていく。その背中を見送る俺の胸中には、重い塊が沈み込んでいた。
「ファイ……今の話……」
「……あぁ。でも、今は進むしかない」
ルナネアの不安げな声を押し殺すように答え、俺は短く息を吐いた。
そこへ、少し離れた馬の影からゼクフィスが歩み寄ってくる。剣を腰に収め、去っていったエサマの背中を忌々しそうに睨みつけながら唾を吐いた。
「気味の悪ぃ野郎だ。テメェ、あんなやつの揺さぶりに乗るなよ。何が出ようが、疾く、切り伏せるだけだ」
「……分かってる」
ゼクフィスの威勢のいい声に肯きつつも、思考の渦は収まらない。後方から戻ってきたリシェラも真剣な面持ちで俺たちの顔を見比べ、何かが起きつつあることを察して口元を固く結んだ。
「――出発の準備を整えろ!馬に乗り込め!」
広場の中央から、タフノティシィの怒号のような号令が響き渡った。
休んでいた兵士たちが一斉に動き出し、金属音と革の擦れる音が再び開けた土地を満たしていく。張り詰めた緊張感が、先ほどよりも一回り強い圧迫感となって皮膚を押し刺した。
「行こう」
俺は幹に縛り付けていた手綱をほどき、馬の首筋を軽く一撫でしてから、その背へと飛び乗った。
鞍の上から見渡す広場の先――鬱蒼とした巨木が再び視界を埋め尽くす森の奥へ向かって、暗い道筋が伸びている。
手綱を握る指先に力を込め、短剣の感触を確かめる。
エサマが残していった言葉の重みを胸の奥に押し込め、俺たちは静かに脚を踏み出した。




