鱗と鳥の魔獣
巨門を潜り抜けた瞬間、世界の色彩が一段落ちた。
『幻憶の森』――足を踏み入れた途端、肌を刺すのは湿った冷気と、腐敗した落葉が混ざり合ったような生ぬるい臭気だった。頭上を埋め尽くす巨木の枝葉は陽の光を完全に遮り、鬱蒼とした暗緑色の静寂がどこまでも広がっている。
「気をつけろ。入る度に呪いの性質が変わる樹海だ!生半可な気持ちで入れば、直ぐに死ぬぞ!」
先頭を進む、黒い手袋に黒い装備で、他の衛兵とは違う気配を持つ青髪の男――タフノティシィの厳格な声が、湿った空気に重く沈み込む。
俺は手綱を握り直し、周囲を鋭く警戒した。
以前足を踏み入れ、凄惨な悪夢を見せられた悪名高き魔の森。今回は一体どんな悪意が俺たちを待ち構えているのか。
身体の芯にまとわりつく微妙な違和感。だが、それがこの森固有の呪いによるものなのか、単なる恐怖心から来る錯覚なのか、今はまだ判別がつかない。得体の知れない気配だけが、静かに俺たちの皮膚を撫でていく。
「……チッ、気味の悪い森だな」
すぐ後ろでゼクフィスが不機嫌そうに低く唸り、リシェラや、俺の馬の影に隠れるように静まり返っているルナネアも、硬い表情で息を殺している。
全員が静寂のなかで身を固くしながら前進を続けていた、その時だった。
「――魔獣だ!前方に魔獣が出たぞ!!」
部隊の先頭から、切迫した悲鳴のような叫びが上がった。
一瞬で隊列に緊迫した空気が走る。前方の兵士たちが素早く剣を抜き、交戦態勢に入っていく音が静寂を切り裂く。
「怯むな!応戦せよ!」
先頭の数名が武器を構えて飛び出したが、直後、甲高い骨の砕ける音と、凄まじい肉の裂ける音が森に響き渡った。
「ぐあぁぁっ!?」
一人、全身甲冑を纏った兵士が、まるで紙くずのように吹き飛ばされ、巨木の幹に激突して動かなくなった。鮮血が太い幹を赤く染め上げる。
「なっ……!?」
「あそこ!!」
リシェラの切迫した声に弾かれたように視線を向ける。
樹木の影から這い出してきたそれを目にした瞬間、猛烈な生理的嫌悪感が込み上げ、喉の奥が乾いた。
以前見たような狼などではない。
一見すれば四本脚の四足獣――猫科の肉食獣に近い骨格をしている。だが、その表面を覆う質感があまりにも狂っていた。
毛皮はなく、まるで茹で上がった甲殻類のように赤く肥大化した無数の魚の鱗が、皮膚全面をびっしりと覆い尽くしている。動くたびに擦れ合うギチギチという湿った不快な音が周囲に響く。さらに頭部には目も耳もなく、ただ裂けた口の隙間から、細い鳥の脚のようなものが何十本も束になって蠢き、外の空気を探るようにペタペタと自身の顔面を叩いていた。
「……気持ち悪ぃ面しやがって」
ゼクフィスが顔を歪めて吐き捨てる。
獣の枠組みに無理やり異質なパーツを貼り付けたようなその歪な造形は、視界に入るだけで脳の裏側を痺れさせるような不快感を放っていた。
「馬を下りるぞ!動きを制限される!」
俺は即座に馬から飛び下りた。腰の鞘からルカーパの形見である一振りの短剣を取り出す。刃に反射する鈍い光を視界の端に収め、柄を固く握りしめる。
ゼクフィスも馬を棄て、俺の右へと滑り込んだ。
「下がらせないわ!独自魔呪綴――『天界の杭』!!」
後方に陣取ったリシェラが素早く短い魔呪綴を綴る。彼女の手元から放たれた光輝く杭が、四足獣の身体へと突き刺さっていく。
「頼む、リシェラ!」
短剣の刃を低く構え、間合いを測る。
鱗をギチギチと鳴らし、顔面から生えた鳥の脚を蠢かせる異形の四足獣が、低い唸り声と共にこちらへ向かって地を蹴った。
「来るぞ……ッ!」
直後、裂けた口内から鳥の脚を押しのけるようにして、赤黒く濁った毒水が猛烈な勢いで吐き出された。
強烈な酸の臭いが鼻腔を突く。直撃すれば防具ごと溶かされる――そう直感した時には、退路を削るような広範囲の飛沫が視界を埋め尽くしていた。
「ファイ、使って!!」
ルナネアの叫びが響く。
「独自魔呪綴――『水土抱擁』!!」
突如、俺の足元の土塊が生き物のように盛り上がり、足裏を押し上げた。
視界が強烈な浮遊感と共に跳ね上がる。頭上を通り過ぎていく毒水が、背後の大木をジュッと惨烈な音を立てて溶かしていくのが見えた。
「……助かった!」
空中で体勢を立て直し、落下速度と上昇の勢いをそのまま殺さずに短剣を逆手に持ち替える。
下から見上げる異形は、予期せぬ俺の跳躍に反応できず、顔面から生えた細い脚を狂ったように蠢かせるばかりだ。
無防備に晒された頭頂部。びっしりと覆う赤い鱗の隙間を狙い定め、全体重を乗せて刃を突き下ろす。
「死ねッ!」
ドチュッ!と頭蓋を断ち割る不快な感触が手に伝わり、鈍い手応えと共に短剣が脳天深くまで没した。
ギチギチと鱗を鳴らしながら痙攣した四足獣は、そのまま勢いよく泥地に突っ伏し、二度と動かなくなった。
短剣を引き抜き、荒い息を吐き出しながら立ち上がる。
呼吸を整える猶予すらない。
泥を跳ね上げる重い足音が、今度は二つ重なって鼓膜を揺らした。
落ち葉の奥から姿を現したのは、先ほどと同型の異形が二体。
ギチギチと音を立てて波打つ鱗。顔面から伸びる無数の鳥の脚が、血の匂いを察知して一斉にこちらへ向かって蠢く。
「二体同時か」
右の個体が低い唸りを上げ、口内から毒水を覗かせる。
受けに回れば間違いなく削り切られる。思考を巡らせ、柄を握る手に一層力を込めた――その時だった。
「――っ!!」
視界の端を、閃光のような一筋の刃が通り抜ける。
迷いのない踏み込みと共に繰り出された一撃は、左側の魔獣の首元へ深く喰い込み、赤黒い体液を撒き散らさせた。
「ルナネア……!?」
「ファイだけに、危険な思いはさせない……!」
普段の姿からは想像もつかないほど鋭い眼光。ルナネアは刀を構え直し、態勢を崩した魔獣の眉間へ間髪入れずに突きを叩き込む。
「援護するわ、二人とも!」
後方からリシェラの凛とした声が飛び交う。
「独自魔呪綴――『天界の杭』!!」
上空から降り注いだ光の杭が、右側の個体の前脚を地面へ縫い留めた。
巨体が縫いつけられ、激しい暴れ様で地面を削る。
「ありがとう、リシェラ!……合わせるぞ、ルナネア!」
「うんっ!」
ルナネアが左の個体を一刀のもとに切断するのと同時に、俺は縫い留められた右の個体の懐へ肉薄する。無防備な首筋へ短剣を振るい、一気に横一文字へと引き裂いた。
噴き出す体液を浴びながら地面へ着地する。
二体の巨体が立て続けに横たわり、完全な沈黙が訪れた。
「助かった。ありがとう、二人とも」
「手こずってんじゃねぇよ。こっちは、疾く、終わったぞ」
豪快な破砕音と共に、すぐ隣の樹木が大きく揺れた。
振り返ると、剣を担いだゼクフィスが、頭部を吹き飛ばされた魔獣の死骸を踏みつけながら不敵に笑っていた。
「……どうやら前のやつらも終わったみてぇだな」
ゼクフィスの視線の先――先頭集団の方角でも、金属音と悲鳴が止んでいた。
「隊列を整えろ!立ち止まるな!」というタフノティシィの怒号が響き渡り、兵士たちが慌ただしく動き始める。俺も短剣の血を拭い、再び馬の手綱を握り直して列へと戻った。
大地を踏みしめ、重苦しい静寂の中を進むことしばらく。
鬱蒼とした巨木の密集地帯が途切れ、前方の視界が急に開けた。
そこは、森の深部へと続く小さな広場のような空間だった。




