中央区画 再来
「アルフォリエ様……!か、蚊帳の外の人間共を同行させるなど、それどころか『幻憶の森』への派兵だなんて……っ!」
背後で衛兵が、泡を食ったような叫びを上げた。
あまりの突飛な展開に、周囲の衛兵たちも呆然と立ち尽くし、ただ引きつった顔で固まっている。自らの都市の命運が、上層部の知らぬところでいとも容易く動かされていく恐怖。彼らにとっては、声すらまともに喉を通らないほどの衝撃だったはずだ。
だが、アルフォリエはそんな下々の狼狽など、一微塵も意に介さなかった。
不快そうに片眉をかすかに歪めただけで、衛兵たちをゴミクズでも見るかのような一瞥で黙らせる。
「……出立の時までに、最低限の準備を整えておけ。集合場所は中央区画、ここから最も近い大門だ」
「……中央区画?」
アルフォリエの何気ない指定に、思わず眉をひそめる。
「俺は重罪人扱いされて一度捕まってる身なんだ。中央区画へ入るのは困難かもしれない」
「くだらんことを気にするな、人間」
俺の至極真っ当な疑問に対し、アルフォリエは心底くだらなそうに鼻で笑った。
「誰の差し金でそこを通ると思っている。余の威光の前に、矮小な門番どもが何を言えるというのだ。貴様はただ、命令に従って面を晒せばそれでよい」
絶対的な力を持つ者ゆえの、圧倒的な理不尽。
己の言葉ひとつで世界の法則すら塗り替えられると信じて疑わない尊大さに、返す言葉を失う。
「……用は済んだ」
それだけ言い捨てると、アルフォリエは豪奢な長衣の裾を優雅に翻した。
二人の女従者を従え、崩落した第一区画の瓦礫の山を、まるで自家の庭園でも歩くかのような足取りで去っていく。背後に残された衛兵たちの青ざめた顔にも、俺たちの視線にも、一度たりとも振り返ることはなかった。
「……どこまでも自由気ままなやつだな」
遠ざかっていく紫髪の後ろ姿を見送りながら、俺は深い溜息とともに呟いた。
あまりにも自分勝手で、人を足蹴にするような男。だが……あの男の放った一言が、止まっていた俺たちの運命を、再び強引に回し始めたことだけは確かだった。
「――ファイっ!?」
張り詰めていた緊張が途切れた瞬間、急激な脱力感が全身を襲った。
膝から折れそうになる身体を支えきれず、その場に崩れ落ちる。乾いた土と石屑が、視界のすぐ前に迫った。
「ファイ、大丈夫!?怪我、痛む……!?」
「牢に閉じ込められて、体力も限界だったはずだわ。掴まって」
咄嗟に左右から差し伸べられた腕が、倒れ込む俺の身体をしっかりと受け止めてくれた。
焦燥感を露わにして顔を覗き込んでくるルナネアと、胸元に優しく手を添え、痛みを分かち合うかのように眉をひそめるリシェラ。温かい体温と柔らかな声が、冷え切っていた俺の感覚を少しずつ現実に引き戻していく。
「……あぁ。ちょっと……気が抜けただけだ」
かすれた声を振り絞り、情けなく息を吐き出す。
トラウマと過度の緊張で狂いかけていた心臓が、二人の手触りを通じてようやく一定のリズムを取り戻し始めていた。
「無様にへたり込んでんじゃねぇよ、眼帯」
俺の醜態を上から見下ろし、つまらなそうに鼻を鳴らしたのはゼクフィスだった。
一瞥だけを俺に寄せると、興味を失ったかのように肩をすくめ、背を向ける。
「命拾いしたからって浮かれてんじゃねぇぞ。あのエルフの言う通り、本当の地獄はこれからだ」
不器用な忠告を吐き捨てながら、ゼクフィスは手持ち無沙汰そうに腕を組み、崩れたアーチの陰へと足を進めた。
その背後――取り残された衛兵たちの姿があった。
彼らは解き放たれた俺たちに手を出すこともできず、ただ魂を抜かれたような絶望の表情で佇んでいる。尊厳を粉砕され、自分たちの組織や野望すら一人のエルフの気まぐれで容易く潰される現実。その恐怖に打ちひしがれたまま、引きずるような足取りで、幽霊のように去っていった。
「……行こう、ファイ。まずは体を治さないと」
「えぇ。診療所へ戻りましょう」
二人に肩を借り、重い足取りで歩き出す。
倒壊を免れた崩落区画の端、診療所へと辿り着く頃には、俺の体力は完全に底をついていた。
出迎えてくれた人たちの視線を背に受けながら、ベッドへと倒れ込む。
診療所の魔呪綴師が回復属性の魔呪綴で身体を癒してくれた。
「……ごめん、二人とも。世話をかけた」
「ファイが無事でいてくれるなら、わたしはそれだけでいいから」
ルナネアがベッドの脇に腰掛け、安心したように小さく微笑む。
その隣で、リシェラもまた、困惑を孕みながらも静かな温もりを宿した眼差しで俺を見つめていた。
「今日はもう休んでね。……明日のことは、明日考えればいいの」
包み込むようなリシェラの言葉に、重く湿った瞼が限界を迎える。
意識が深い闇へと沈み込んでいく中で、俺は小さく息を吐いた。
数日後、俺たちは再び『幻憶の森』へと向かう。
恐怖も、トラウマも、消え去ったわけじゃない。だが――差し伸べられた手の温もりだけは、暗闇の中で確かに俺の胸を支えていた。
――翌日、身体に走る鈍い痛みは回復属性の魔呪綴のおかげでなくなっていた。
特に大きな事件が起きるわけでもない。俺たちは疲弊した身体を休めつつ、崩壊した街の復興作業を手伝っていた。瓦礫を撤去し、負傷者を運び、土埃に塗れる。無心で身体を動かしている間だけは、『幻憶の森』という不気味な影から意識を逸らすことができた。
作業の合間、ふと頭をよぎったものがある。
……あの黒馬は、どうなった……?
以前、この街に来る際、強奪に近い形で借り受けた馬のことだ。必死の前進を支えてくれた脚。後で必ず清算するつもりで、第一区画の馬宿に預けたはずだった。
理由もない胸騒ぎに突き動かされ、俺は一人、作業の足を止めて歩き出した。
第一区画の中央へと向かうにつれ、魔族が暴れ回った爪痕が露骨になっていく。
――辿り着いた馬宿は、原型をとどめていなかった。巨大な瓦礫と倒壊した木骨が、無残に押し潰されている。
「……そんなっ」
嫌な汗が背筋を伝う。俺は必死に瓦礫にしがみつき、持ち上げる。腕の筋肉が悲鳴を上げ、泥と埃が顔にかかる。
そうして抉じ開けた隙間の奥――視界に飛び込んできたのは、あまりにも残酷な光景だった。
「……あ」
そこにいたのは、俺を乗せて走ってくれたあの黒馬。
崩落した天井に押し潰され、歪んだ骨組みに身体を貫かれた姿。死後硬直の始まった皮膚、見開かれた眼球、そして死の瞬間の苦痛を物語るように、歪に引きつった歪んだ顔。
――言葉が、出なかった。
先ほどまで、俺はこの馬のことなど一度も思い出さなかった。自分たちの命、自分たちの過去、自分たちの恐怖――それだけに頭を割かれ、この場所に置き去りにしていたのだ。
俺の軽率な判断と無責任が、この命をこんな無惨な形で終わらせた。
「……ごめん……本当に、ごめん……」
絞り出すような声は、乾いた空気に虚しく消える。
謝って済む話ではない。殴られようが、罵られようが、当然の報いだ。それでも――逃げることだけは、絶対にしない。
「……ちゃんと、謝りに行くから」
死に顔から目を逸らさず、強く拳を握り締める。罪から目を背けたままでは、俺はまた大事なものを踏みにじる。冷たくなった馬の額に静かに手を触れ、俺は深く、深く頭を下げた。
――背中に重く伸しかかる罪悪感を消し去る術はない。だが、この痛みを忘れてしまえば、俺は本当の意味で人として終わってしまう。胸の奥に刻まれた新たな傷を抱えたまま、診療所へと足を進めた――
――翌日、早朝。
薄暗い朝靄の中、俺たちは数日間世話になった診療所の人々の前に立っていた。
「……色々世話になった。あんたたちのおかげで、こうしてまた歩ける。ありがとう」
「気にしないでください。お気をつけて……どうか、ご無事で」
温かい言葉に見送られ、『魔眼』の導きとか言ってどっかに行ったヴレイヴァを除く、俺、リシェラ、ルナネア、そしてゼクフィスの四人は馬に跨がった。手綱を固く握り締め、第一区画の崩落街を後にして馬を走らせる。
朝の冷たい風が頬を叩き、思考を少しずつ鋭利に研ぎ澄ましていく――
――第一区画の外をしばらく走ると、広がる自然が消えた。
その中心に突如としてそびえ立つ構造物を目にした瞬間、俺は思わず手綱を引いて馬の足を止めてしまう。
「……っ、あれが……中央区画の門……」
前回ここを通った時は、捕縛され、暗闇の馬車に揺られていた。
初めて真正面から見上げる中央区画の大門――その外容は、言葉を失うほどに荘厳だった。
第一区画とは、文字通り次元が違う。
白磁のごとき巨大な石壁には滑らかな装飾が施され、大門そのものには緻密な金箔の意匠が朝光を反射して神々しく輝いている。圧倒的な威容。圧倒的な格差。他を寄せつけない圧倒的な選民意識の壁が、そこにあった。
「凄いな……。同じ街とは思えない」
「『都市国家ユカラディピア』の中心……富と権力が集まる場所だもの」
並走するリシェラが、どこか影のある眼差しで巨門を見上げ、小さく息を吐く。
「綺麗だけど……なんか嫌な感じ。第一区画の惨状なんて、全く興味がないみたい」
ルナネアが不満そうに口を尖らせた。
権力の象徴たる美しさの裏に透けて見えるのは、持たざる者への残酷な切り捨て。
そして何より、この荘厳な門の向こうには、絶対者――アルフォリエが待っている。
「……行くぞ」
背筋を伸ばし、俺たちは門に向けてゆっくりと馬を進め始めた。




