蘇る悪夢
牢の外へと引き揚げられる間も、俺の頭の中は酷く混乱していた。
湿った地下通路を抜けると、まぶしい陽光と、崩壊した第一区画の惨状が視界に飛び込んでくる。その中央に佇むのは、人間離れした美しさと絶対的な威圧感を纏う一人のエルフだった。見覚えのない紫髪の男。だというのに、衛兵は青ざめた顔で平伏し、ゼクフィスたちすらも一目置いている。
「……一体何がどうなってんだ?」
歩を進めながら思わず問いかけると、ルナネアが「後でちゃんと話すから!」と焦ったように俺の袖を引いた。その横でリシェラは、どこか迷いを含んだ眼差しで俺を盗み見つつ、口を固く閉ざしている。
やがて、先頭を歩いていた紫髪のエルフがピタリと足を止めた。
豪奢な長衣を軽やかに揺らし、緩慢な動作でこちらへと振り返る。その瞳に宿る光と対峙した瞬間、背筋に冷や汗が伝った。
「……あんた、誰だ?何がどうなって俺を牢から出した」
俺が警戒を露わにして尋ねると、エルフは不快そうに片眉を小さく跳ね上げた。
「無礼だな、人間。余の名はアルフォリエ。ゴミのような衛兵共に無意味な時間を割かせるくらいならば、余自らが渦中の存在を確かめに来た方が良いと考えたに過ぎん」
吐き捨てるような、徹頭徹尾上から目線の物言い。尊大という言葉すら生温かい態度に、言葉が詰まる。
「……アルフォリエ。助けてもらった形なのは礼を言うが……急に押しかけてきて何が望みだ?」
「礼など不要だと言ったはずだ。余が求めているのは、くだらぬ感謝ではない」
アルフォリエは細い顎を僅かにしゃくり上げ、俺の眼帯、そしてその奥にあるものを品踏みするように見つめてきた。その瞳の奥で、不吉な好奇心が蠢いている。
「……単刀直入に問おう、ファイ・ニアス。空に穿たれたあの裂け目……そして街を蹂躙した化け物。あれらにも。貴様等が。関わっているのか?」
探るような、だが一切の誤魔化しを許さない静かな問いかけ。
アルフォリエの放つ圧迫感が、再び周囲の空気を重く沈み込ませていった。
「……空の裂け目は知らない」
押し潰されそうな威圧感を正面から受け止めながら、俺は視線を逸らさずにと言い放つ。
「けど、化け物ってのがここで暴れ回ってたあの魔族のことを指してるなら……話は別だ。街を壊し、街の人たちを脅かしていたから、俺たちが退治した。それだけだ」
一切の虚飾を排した俺の言葉に、アルフォリエは僅かに息を吐いた。
薄い唇の端がかすかに持ち上がり、品評するような鋭い眼光が俺の表情の機微を余さず拾い集めていく。
「……なるほど。言葉の重み、瞳の揺らぎ……虚言の類ではなさそうだな」
アルフォリエはあっさりと俺の返答を受け入れると、興味が失せたかのように視線を外し、長衣の裾を軽やかに翻した。
「ならば、話は早い。余が貴様をあの不快な地下牢から引き揚げてやったこと……その恩義、無駄にはしてくれるなよ」
「……なんだって?」
急な話の切り替わりに、思わず眉をひそめる。
「やってほしいことがある、ということだ。対価なくして施しなど与えん」
取りつく島もない絶対者の口調。アルフォリエは細い指先をすっと掲げると、崩落した第一区画の遥か彼方――南の空へと向けた。
「これより南……貴様も耳にしたことがあるはずだ。『幻憶の森』。……その調査を、余の名において貴様に命ずる」
「『幻憶の森』……」
その歪な名がアルフォリエの口から滑り落ちた瞬間、喉の奥がカラカラに干からびる感覚に襲われた。
視界がぐにゃりと歪み、足元から冷気が一気に駆け上がる。指先が激しく震え、呼吸の仕方を忘れたように胸が大きく上下した。
「……何で、あの場所の名前が今ここで出てくるんだ……?」
心臓が暴論のような鐘を鳴らし始める。
『幻憶の森』――そこは俺にとって、あまりにも致命的で過酷な記憶が刻まれた地獄だ。
かつて俺が、命を賭して護るべきだった存在――リシェラ、そしてゼクフィスと道を分かつことになった因縁の場所。そこで起きた悲劇が、今の俺を作り出し、彼女たちの運命をも狂わせたのだ。
「本当に、行かなきゃいけないのか……」
必死に抑え込もうとした声は無残にもかすれ、荒い呼気が漏れる。動揺を隠しきれない俺の醜態を、アルフォリエは好奇を宿した眼光で見下ろしていた。
ふと視線を感じて横を向くと、ルナネアが「ファイ……?」と心配したように俺の顔を覗き込んでいる。
そして――その隣に立つリシェラ。
彼女は、俺の激しい取り乱し様に目を丸くしていた。
記憶を奪われ、俺との過去も、あの森で起きた絶望の瞬間すら忘れてしまっているはずのリシェラ。だというのに、胸の奥が痛むようにそっと自分の胸元に手を当て、戸惑いと痛切な色が混ざり合った瞳で俺を見つめている。
「……何にそれほど脅えている、人間」
アルフォリエの酷薄な声が、凍りついた空気を切り裂いた。
「過去に何があろうと、余の知ったことではない。貴様が。拒絶の意思を示せる立場だと。本気で思っているわけではあるまいな?」
「……ッ」
思わず息を呑んだ。
ほんの僅かな反応や動揺から、俺の中に深く渦巻く過去の影をあっさりと看破してみせたアルフォリエという男の、底知れない観察眼と直感の鋭さに、背筋へ冷や汗が伝う。
だが――ここで取り乱したまま飲み込まれるわけにはいかない。
荒くなる呼吸を力任せに押し殺し、震える指先を固く握りしめて前に出た。喉の渇きを噛み殺しながら、俺を見下ろすエルフの瞳を見返す。
「……何のために、そこへ行くんだ?」
かろうじて絞り出した声で問う。
「あんたが何を企んでるのか知らないが、簡単には頷けないな」
俺の必死の抵抗に対し、アルフォリエは呆れたように短く息を吐いた。
「相変わらず理解が遅いな、人間。拒絶の権利など最初から無いと言っているのだが……まぁいい。無謀な狗に最低限の餌を与えるくらいは興のうちだ」
豪奢な服の袖を優雅に揺らし、アルフォリエは酷薄な笑みをその端整な顔に浮かべた。
「二日後の早朝……余の国の兵、並びにこの『都市国家ユカラディピア』の連合兵を、直々に『幻憶の森』へと派兵する」
「派兵!?」
予想だにしなかった単語が飛び出し、思考が完全に凍りつく。
「あんな……悪夢みたいな場所に派兵……?一体、何のためにそんな真似を……」
「理由など、貴様等に深く説明するつもりはない」
アルフォリエは取りつく島もなく、そう言い放った。感情の籠もらない声が、第一区画に響き渡る。
「……強いて言うならば、資源の確保、並びにあの森に眠る謎の解明……といったところか。貴様の矮小な頭蓋で理解する必要などない」
「資源の確保に、謎の解明……」
「何度も言わせるな。貴様等に拒否の権利など、最初から存在しない」
細い指先で自らの髪を軽く撫で上げながら、アルフォリエは嘲笑うかのように俺を見下ろす。その圧倒的な圧迫感の前に、言葉は喉の奥でつかえ、声にならなかった。
「俺は……」
『幻憶の森』――あの凄惨な記憶が刻まれた場所へ、再び足を踏み入れる。
想像するだけで背筋を凍りつかせる恐怖と絶望に、足がすくみ、体が金縛りに遭ったように動かなくなる――その時だった。
「……わたし、ファイと一緒に行く」
静寂を破って真っ先に声を上げたのは、ルナネアだった。
怯える様子を見せるどころか、力強く拳を握り締め、俺の前に一歩を踏み出す。その瞳には一切の迷いも恐れもなく、まっすぐな信頼の光だけが宿っていた。
「ファイがどれだけ辛い思いをした場所なのかは……分かんない。でも、ファイが一緒なら、わたしはどこへだって行く」
「ルナネア……」
「……私も、一緒に行くわ」
ルナネアに続くように、リシェラが静かに、しかし確かな意志を込めて足を踏み出した。
記憶を失い、胸の奥に原因のわからない苦しみを抱えているはずの彼女が、それでも俺の為に動いてくれた。
「あなたのこと、まだ何も思い出せない……。でも、心のどこかで、あなたを一人にしちゃいけないって思ってるの。だから……私も行くわ」
「リシェラまで……」
二人の迷いのない言葉に、息が詰まる。
胸の奥から湧き上がる温かい熱が、過去の恐怖で凍りつきかけていた俺の心をじわじわと溶かしていく。
「……チッ、冗談じゃねぇぞ」
重苦しい沈黙を切り裂くように、舌打ちを響かせたのはゼクフィスだった。
ゼクフィスは肩をすくめ、いかにも不服そうだと言わんばかりに不機嫌な顔で鼻を鳴らす。
「……眼帯、テメェ一人に任せておくと、またろくでもねぇ事態を引き起こしそうだ。貸しを一つ作っておく分には悪くねぇ」
「ゼクフィス……お前まで」
「勘違いするなよ。俺は俺の目的のために行く。テメェの子守りをするためじゃねぇ。分かったら、疾く、決めろ」
口では悪態をつきながらも、その瞳には仲間を見捨てる気など微塵もない強さが宿っていた。
目の前に立つ三人。
記憶を失っても俺の側にいようとしてくれるリシェラ。どんな時もまっすぐに信じて飛び込んできてくれるルナネア。不器用ながらも背中を預けてくれるゼクフィス。
失うのが怖くて、トラウマに囚われて逃げ出そうとしていたのは、俺だけだったんだ。
三人の差し伸べてくれた手が、言葉が、冷え切っていた腹の底に確固たる覚悟を灯していく。
「……分かった」
深く呼吸を吐き出し、震えていた両脚に力を込めて、アルフォリエを真っ直ぐに見据える。
「あんたに助けられたのは事実だ。その派兵……俺たちも同行する。『幻憶の森』へ連れてってくれ」
「……ほう」
俺の返答に、アルフォリエはどこか満足げに目を細めた。




