牢獄の外へ
「『神子屠殺典』洗礼の章、か……」
アルフォリエの口から滑り出た言葉に、路地の空気が一段と冷え込む。
アルフォリエの瞳の奥で、これまで浮世離れしていた光が、不吉なまでの熱を帯びて蠢いた。
「『七大秘跡』の一角……。第一区画の惨状を見るに、あながち虚言とも言い切れぬわけだ」
アルフォリエは薄い唇をわずかに歪め、不敵な笑みを浮かべた。
世界の均衡を揺るがすほどの怪物――その恐ろしい名を知り、直接刃を交えたという男。ゼクフィスが放つ独特の威圧感と、逃げ越しにならない立ち振る舞いを品踏みするように見つめ直す。
「……面白い。実に興味深いぞ、人間。その化け物を退けたと言うか。ならば、いま地下牢に繋がれているというその男……眼帯は。その戦いに。どう関わっていたのだ?」
一切の情を排した静かな問いかけ。路地の出口を固める二人の女従者の手首で、無機質な鎧の音がかすかに鳴った。
気圧されそうになる息苦しさの中で、真っ先に一歩を踏み出したのはルナネアだった。
「ファイは……この街を守るために戦ってくれた!」
逃げ場のないアルフォリエの視線を正面から受け止め、拳を強く握り締めて叫ぶ。
「ファイの力があったから、わたしたちはあの恐ろしい魔族を退けることができた!街を破壊して市民を苦しめたのはあの魔族で……ファイは、わたしたちと一緒に命を懸けて街を守ろうとしてくれただけ!」
「えぇ。彼は悪くないわ」
リシェラも静かに、しかし引き下がらない凛とした声を重ねる。
「あの人がいなかったら、第一区画はどころか、この都市全体が壊されていたわ。彼は、私を……街を救った恩人です」
「……ほう」
二人の悲痛とも言える訴えを静聴したアルフォリエは、小さく喉を鳴らした。
整った面の陰に隠された好奇心が、一気に押し寄せるように膨れ上がっていく。
「……そうか」
低く響く失笑。アルフォリエは優雅な所作で豪奢な長衣の袖を翻すと、地にひざまずき、汗を流しているガロたち衛兵へ向け、その指先を突きつけた。
「衛兵。この者たちを自由にしろ。そして、余をその男の元へ連れて行け」
「……は!?」
ガロが弾かれたように顔を上げた。その顔には、自分の耳を疑うような驚愕と絶望が張り付いている。
「アルフォリエ様!?正気でいらっしゃいますか!?この者たちが助けようとした男は……眼帯の重罪人は、以前にもこの都市に対して取り返しのつかぬ大罪を犯した危険人物にございます!そのような怪物の仲間を野放しにし、手引きするなど断じて不可能です!上層部や教会の司教様への面目が――」
「貴様が。余に。口答えをするのか?」
アルフォリエの声から一切の感情が削ぎ落とされた。
路地を支配していた圧迫感が跳ね上がり、ガロの言葉が途中で凍りつく。
「……余の裁定に難色を示すか。ゴミのような頭蓋を弄している分際で、余に。貴様が。説法を垂れるつもりか?」
「滅相も、滅相もございません……!」
ガロは激しい恐怖に全身を苛まれ、再び地面に額を強く擦り付けた。
だが、アルフォリエは怯える男を一切情け容赦なく見下ろしたまま、さらに低く、真綿で首を絞めるような声で追い詰めていく。
「……忘れたわけではあるまいな。 貴様等が、その浅知恵で熱望した独立の悲願……そこに手を貸してやっているのが誰であるかを」
「っ……!!」
ガロの顔から、一瞬で血の気が失せた。
独立――その二文字が出た瞬間、周囲の衛兵たちの身体も硬直する。
「余の一言で、その歪な協力関係がどう変化するか……理解できぬほど愚かではあるまい。それとも、 貴様一人のくだらぬ面目のために、その全計画を反後にし、ユカラディピアが。余を。敵に回したいと……そう解釈してもよいのだな?」
「そ、そんなことは全く、全くもってございません!!」
ガロは声の限り叫び、狂ったように頭を叩きつけた。鈍い音が響く。
自分たちがどれほど立場的に弱く、この高貴なエルフの一言で自らの命どころか組織の存続すら吹き飛ぶという現実を突きつけられ、ガロの尊厳は完全に打ち砕かれていた。もはや反論どころか、息をすることすら恐怖だった。
「……分かればよい。不快な言葉を二度も吐かせるな」
アルフォリエは吐き捨てるように言い放つと、視線をルナネアたちへと戻した。その瞳には、人間どもの醜い権力争いへの蔑みと、それとは対照的な未知の存在への飽くなき探求心が同居している。
「案内しろ」
一切の躊躇を許さない命令が、静まり返った路地に響き渡る。
「その重罪人とやらが繋がれている地下室へ、今すぐ余とこの者たちを連れて行け」
「……あ、ありがとうございます」
リシェラが頭を下げた。ルナネアもまた、わずかに安堵の息を漏らしてアルフォリエへ一礼する。
「礼など不要だ。余はただ、余の興味に従ったに過ぎん」
アルフォリエは視線すら合わせず、退屈そうに長衣の裾を揺らした。その徹底した酷薄さの裏にある底知れぬ圧倒的な力に、二人は言葉を呑むしかない。
「……こちらへ……こちらへどうぞ……」
すっかり意気を挫かれ、青ざめた顔のガロが、すり抜けるような足取りで先導を開始した。
崩落したアーチの奥、鉄の扉を抜けると、湿った空気が肌を刺す地下階段が伸びている。壁の松明が橙色の光を揺らめかせ、一行の影を不気味に引き伸ばしていた。
カツン、カツンと。
アルフォリエの無駄のない足音だけが、静寂に包まれた地下通路に規則正しく響く。
やがて、通路の最奥に位置する、一際頑強な鉄格子の扉の前でガロが足を止めた。重い錠前に大きな鍵が差し込まれ、ギギギ……と不吉な金属音が地下全体に伝播していく。
「ここ、に……収監されております……」
怯えるガロの手によって、重厚な扉がゆっくりと、滑り出すように開かれていく。
扉の隙間から漏れ出す、濃密な空気。
薄暗い牢獄の最奥、影の中に静かに腰を下ろしている人影があった。
扉が開く微かな音に反応し、その男――ファイが、ゆっくりと顔を上げた。
「よぉ、生きてたか眼帯」
ゼクフィスが挑発気味に言う。
「ファイ!」
「無事だったのね。よかった」
「ゼクフィス……!?ルナネア!?リシェラまで……!?」
ファイが驚きに目を丸くした。
「ファイ・ニアスだな。……行くぞ」
アルフォリエが短く、それだけ口にした。
「は……?ちょっと待ってくれ、一体どうなって……?」
「説明は後。行こう、ファイ」
状況を理解しきれていないファイを置き去りに、ルナネアが手を伸ばす。
その横で、リシェラもまた胸の深い昂ぶりに戸惑うような眼差しで、そっとファイを見つめていた。
こうして、ファイ・ニアスは突如として現れたエルフと、仲間たちによって陽の届かぬ牢獄から引き揚げられた。




