謎のエルフ
「っ……!誰か上がってくるわ!」
リシェラが耳を澄ませ、息を呑むような極小の声で鋭く叫ぶ。
「チッ……!隠れるぞ、下がれ!」
ゼクフィスが咄嗟に二人の肩を掴み、崩れ落ちたアーチの陰へと身体を押し込もうとした。
だが、その一瞬の焦りが足元を乱す。
カツン、と。
ルナネアの靴底が、崩落した外壁の破片に引っかかった。転倒しかけた身体を直感的に立て直そうと踏み込んだ右足が、転がっていた小さな石ころを勢いよく蹴飛ばしてしまう。
カラカラカラ……ッ!
静まり返った薄暗い裏通りに、乾いた石の跳ねる音が明瞭に響き渡った。
「――誰だ!」
扉の奥から響く荒々しい怒号。
直後、地下への扉を壊破するようにして、地下牢から交代で上がってきたと思われる二人の重装衛兵が躍り出てきた。
「不審者だ!逃がすな!」
一人が腰の警笛を口にくわえ、渾身の力で吹き鳴らす。
ピーーーーーッ!!!!
甲高い警告音が教会の敷地全体に引き裂くように響き渡り、表の通りを固めていた二人組の衛兵の足音までもが速やかに呼応した。
「裏手だ!囲め!」
「挟み撃ちにしろ!」
正面の階段を守っていた衛兵たちもなだれ込み、あっという間に前後を塞がれる。
左右は崩壊した重厚な石壁。逃げ場のない狭い路地で、ルナネアたちは数本の槍の穂先を四方から突きつけられた。
「チッ……!」
ゼクフィスが苦々しく歯を食いしばる。リシェラも素早く身構えるが、ここで衛兵相手に刃を交えれば全区画に手配回状が回る。
完璧な詰み。完全な包囲網のなか、ルナネアの背中に嫌な汗が吹き出していた。
「動くな!武器を捨てろ!」
隊長らしき男が槍を握り直し、身柄を拘束しようと踏み込んできた――まさに、その一瞬だった。
「――誰が。ここで。何をしている?」
通り全体を絶対的な静寂で塗りつぶすような、透き通った、しかし逃げ場のない圧倒的な威圧感を孕んだ声が静かに響いた。
その一言だけで、今にも槍を突き刺そうとしていた衛兵たちの動きが完全に氷結する。
路地の奥、影の中から足音が近づいてくる。
足音すら優雅で、無駄が一切ない。
ルナネアたちが息をのんで振り返ると、そこには息をのむほど美しく、気品を纏った男が立っていた。
肩のあたりで寸分違わず切り揃えられた、鮮やかな紫色の髪。
透き通るような白い肌に、天を突くように尖った耳。人間の衣服とは明らかに一線を画す、御伽話の王様が着ていそうな豪奢な服を身に纏っている。
「……エルフ……」
ルナネアが呟く。
男の背後には、身体の一部に鎧を着けて、それでいて一部を露出させている、不思議な格好をした女エルフが二人、従者のように静かに佇んでいた。
男が発する底知れない圧迫感に、さっきまで猛威を振るっていた衛兵たちが一瞬で顔色を蒼白に変え、ひざまずくようにして頭を下げる。
「あ、アルフォリエ様……!」
アルフォリエと呼ばれた男は、身を縮こまらせる衛兵たちなどまるで路傍の石ころであるかのように一瞥もくれず、黒瞳でルナネアたちを見下ろした。
「ハーフエルフか」
アルフォリエはルナネアの耳元へ視線を一度落とすと、興味すらないように小さく吐き捨てた。その一言に込められた真意は、今のルナネアには分からない。
「アルフォリエ様……。恐れながら、なぜ貴方様のようなお方が、このような場所に……?」
隊長らしき衛兵が、汗の浮いた額を地面に押しつけんばかりの姿勢で、怯えた声を絞り出した。
アルフォリエは問いにはすぐ答えず、優雅な所作で指先を軽く一振りした。背後に控える、露出度の高い奇妙な鎧を纏った二人の女従者が、まるで影のように左右へ開き、路地の出口を完璧に封鎖する。
「第一区画で反乱が起きたと耳にしてな。様子を見に来てみれば……この有様だ」
低い声が路地に響き渡る。アルフォリエはそこで言葉を区切ると、首だけをゆるやかに動かし、ひざまずく衛兵たちと、身構えるルナネアたちを交互に視線で射抜いた。
「今一度問う。――貴様は。ここで。何をしていた?」
「……は?あ、あの……どういう意味、でしょうか……?」
隊長は恐る恐る顔を上げ、理解が追いつかないといった様子で喉を鳴らした。
「答えぬか……貴様は。余を。愚弄しているのか?」
アルフォリエの声から温度が急速に失われ、路地の空気が目に見えて引き締まる。わずかに険しさを増したその一言だけで、衛兵たちの背筋に激痛のような緊張が走った。
「も、申し訳ございません!滅相もございません!」
隊長は崩れるように再び地面に突っ伏し、なりふり構わず言葉を吐き出した。
「わ、わたくしめは第一区画の衛兵、ガロと申します!こちらの三名は、この有事に教会の裏手へ不法に侵入しようとしていた不審者にございます!教会へ入ろうとしたところを我々が取り押さえた次第で……!」
「不審者、だと?」
アルフォリエは吐き捨てるように呟くと、品踏みするようにルナネアたちへ視線を向けた。
「左様です!この教会の地下には、この街を破壊したとされる『眼帯の重罪人』が収監されたばかり!どこで知ったかは分かりませんが、この者たちは『眼帯の重罪人』を助けに来たようです!」
「ち、違う!」
ルナネアは咄嗟に前に踏み出し、叫ぶように言葉を否定した。
「ファイは重罪人なんかじゃない!それに……わたしたちが街を壊したわけでもない!」
「誰がそんな戯言を信じるか!」
ガロは地面に膝をついたまま、不機嫌そうに顔を歪めてルナネアたちを睨みつけた。
「先の戦い――あの戦いの現場にいたのは貴様らと、眼帯の男だけだ!自分たちは無関係で、あの男も罪人ではないなどと……今さら白々しい嘘をついても無駄だぞ!」
「街を壊してあの惨状を引き起こしたのは……金髪の魔族だった!わたしたちやファイじゃない!」
「黙れ!どこまで出鱈目を語れば気が済むのだ!実際、眼帯の男は以前にも――」
ガロが怒りで顔を真っ赤にし、激昂してルナネアを一喝しようと立ち上がりかけた――その、まさに瞬間。
「――待て」
静寂を裂くような一言が、路地の空気を再び凍りつかせた。
アルフォリエが、一歩前へ踏み出す。
紫紺の瞳に怪しいほどの光を宿し、ガロを、そしてルナネアを静かに見下ろした。その圧倒的な立ち姿と存在感に、ガロは怒声を喉の奥で詰まらせ、言葉を失う。
アルフォリエはルナネアをまっすぐに見据え、低く、美しく、そして逃げ場のない威厳を込めて問いかけた。
「……貴様。今。何と言った?」
言葉の重みに、路地全体が息を殺す。
「……金髪の魔族が現れたというのは、真か?」
アルフォリエの低い声が、静まり返った路地に重く響く。
ルナネアは息を呑み、逃げ場のない紫紺の視線を正面から受け止めながら、力強く頷いた。
「……本当。嘘なんかじゃない」
その言葉の途切れた隙間を縫うように、それまで後ろで腕を組み、不機嫌そうに黙り込んでいたゼクフィスが、一歩前へ踏み出した。
「『神子屠殺典』洗礼の章――『死導赦』シャルヴィエラ・デス・ペラード。……確か、そう名乗ってやがったな」
ゼクフィスの口から滑り出た物々しい異名に、アルフォリエの細い眉がわずかに跳ね上がる。その瞳の奥に、これまで見せなかった明らかな警戒と興味の光が揺らめいた。
「……その者は。今。どこにいる?」
アルフォリエが問い詰める。
ゼクフィスは鼻で笑い、肩をそびやかした。
「さぁな。俺たちが総力戦でぶっ叩いて、とどめまで刺したってのに、そのあと影みたいに消えやがった。完全に息の根が止まったのか、どこぞで生きて這い回ってんのか……そいつは俺たちにも分からねぇよ」




