英雄の行方
――二日前、ファイが連行されてから、数時間後。
「はい、これで傷口は塞がったよ。無茶しすぎなんだから、本当に」
白を基調とした清潔な診療室。柔らかい光を纏った手掌をかざし、白い服の男が溜め息をついた。
緑色の魔呪綴が引きかけると同時に、肩に走っていた激痛がすっと引いていく。
「……ありがとう」
ベッドの端に腰を掛ける。
隣のベッドでは、緑髪の男――ゼクフィスが不機嫌そうに剣の柄を弄び、その反対ではリシェラが傷の癒えた自分の頬を撫でている。
第一区画の崩落現場から保護され、ルナネアたちが連れてこられたのは救護施設だった。
手厚い治療を受け、命に別状はない。だが、部屋を包む空気は重く沈んでいた。
「……おい」
沈黙を破ったのはゼクフィスだった。柄を叩く指を止め、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせる。
「あの眼帯の野郎……ファイだったか。あいつ、結局どうなったんだ?」
「……第一区画の地下牢に留置されているみたい。指名手配犯として裁判にかけるって、衛兵たちが言っていたわ」
リシェラが静かに応える。その声には、割り切れない複雑な色が混ざっていた。
「おかしいわ……」
リシェラは胸元に手を当て、ぽつりと呟いた。
「助けてもらったお礼も言えていない。それに……あの人が私の名前を呼んだ時、胸の奥が妙にざわついたの。まるで、もっと前から知っていたみたいに」
「……」
ゼクフィスが苦々しく顔を歪める。
「やっぱり、私たちが忘れてるんじゃないの?」
「……今そんなこと考えてもしょうがねぇだろ」
ゼクフィスは不機嫌そうに鼻で笑い、剣の柄をトン、と床に叩きつけた。
「理由がどうあれ、あいつはここにいねぇ。捕まって地下牢にぶち込まれた……それが現実だ」
すげなく言い捨てるゼクフィスの言葉に、室内の空気が再び冷え込む。
ルナネアは膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。
胸の奥で渦巻くモヤモヤは消えてくれない。
「そういえば……ヴレイヴァは?」
リシェラの問いに、ゼクフィスが鬱陶しそうに天井を仰ぐ。
「あいつなら、治療が終わった途端に「『魔眼』が導いている」とか意味不明なこと抜かして、どっか行きやがったよ。相変わらずイカれてやがんな」
頼りになりそうな戦力の一人は、すでに当てにならない。
ルナネアは意を決し、二人を交互に見つめた。
「二人とも……わたしと一緒に、ファイを助け出しに行こう」
「あぁ……?テメェ、正気かよ」
ゼクフィスが呆れたように眉をひそめる。
「相手は第一区画の連中だぞ?仲間だって他に大量にいやがるだろうよ。そんな所で殴り込みだぁ?無茶苦茶言うんじゃねぇよ」
「でも……!」
リシェラが身を乗り出す。その瞳には明確な意思が宿っている。
「私も、ゼクフィスの言う通り無謀だと思う。……だけど、このままあの人を放っておくなんて絶対に嫌よ。助け出したいの」
「……どいつもこいつも正気じゃねぇな」
ため息を吐くゼクフィス。
第一区画の警備網を突破して地下牢からファイを奪還するなんて、今の自分たちだけでは到底不可能に近い。
それでも助け出したいという焦燥感と、圧倒的な現実の壁。
――そこから、どうやってファイを救い出すか。
打開策が見えないまま、重苦しい沈黙が診療室を包み込む。
「何か……何か方法はない……?」
ルナネアはすがるような思いで、ふと視線を窓の外へと向けた。
雲ひとつない、不気味なほど鮮やかに晴れ渡った青空。だが、その高空には異変が起きている。
はるか上空、都市全体を包み込んでいるはずの不可視の結界――そのさらに奥、空間そのものにまるでガラスにヒビが入ったかのような
黒い裂け目が走っている。
「……あれ……」
ルナネアがぽつりと呟いた。
「あぁ?なんだよ」
「空の……あの裂け目。少し前からあったけれど……また少し、広がってる……?」
ゼクフィスとリシェラも引き寄せられるように窓際へと歩み寄り、空を見上げる。
「……本当ね。一体何なのかしら、あれ?……」
リシェラが息を呑み、細い指先で窓ガラスをなぞる。
言われてみれば、確かに数時間前よりほんのわずかに亀裂が伸びており、そこから黒泥のような不吉な何かがじわじわと滲み出ているようにも見えた。
空を侵食するように広がり続ける不穏な空間の裂け目。魔族の襲撃。リシェラたちの記憶。
点と点がつながらない。けれど、全てが目に見えない暗雲の中で複雑に絡み合い、この街――否、ユカラディピア全体が崩壊に向かって静かに狂い始めている――そんな底知れない恐怖が、ルナネアの背筋を冷たく撫で上げた。
「……チッ、気味の悪い空だぜ」
ゼクフィスが忌々しそうに舌を打ち、窓枠を拳で小突く。
「ここの衛兵の連中は、こんな異常事態に何とも思わねぇのかよ。それとも、気づいてて見ぬふりをしてやがるのか」
「……分からないわ。でも、シャルヴィエラの襲撃といい、この空の亀裂といい、ただの事故には思えない……」
リシェラが不安げに胸元を抱きしめる。
都市全体を覆う不穏な空気。そして、その異変の渦中に一人で投げ込まれ、地下牢に囚われているファイ。
「ゼクフィス、リシェラ。……やっぱり、このまま待っているわけにはいかない」
ルナネアは二人に向き直り、もう一度強い眼差しを向けた。
「わたし一人でも、ファイを助け出す方法を探す」
「……探すったって、どうやって探すんだよ」
ゼクフィスが呆れたように鼻を鳴らす。
「相手は街を牛耳る連中だぞ。情報も鍵もねぇ俺たちがウロウロしたところで、逃走した罪人扱いされて同じ牢屋に放り込まれるのがオチだ。それこそ衛兵共に都合の良い理由を与えるだけだろうが」
「それは……」
ルナネアは喉を詰まらせた。
正論だった。感情に任せて動いたところで、具体的な策など何一つ持ち合わせていない。
指先をギュッと握りしめ、悔しさに唇を噛む。
「……でも、この部屋でじっとしてるのはもう限界よ」
助け舟を出したのはリシェラだった。リシェラは窓の外、崩壊した街を忙しく行き交う人々に視線を向けながら落ち着いた声を出す。
「ゼクフィスの言う通り、無謀な突入は危険だけど……ずっとここに籠っていたら、得られる情報すら手に入らないわ。それに、ほら……」
リシェラが顎で示したのは、部屋の隅にある小さな薬草棚と、ドアの隙間から覗く廊下の様子だった。
「傷の治療はもう終わったでしょ?ここは怪我人が次々に運び込まれる場所よ。いつまでもベッドを占領していたら迷惑だし、診療所の外の空気を吸いに行くくらいなら、衛兵だって引き止めないはずだわ」
「……ま、確かに診療所の匂いには吐き気がしてたところだ」
ゼクフィスは大きなため息を吐くと、壁に立てかけてあった剣を引き寄せ、乱暴に腰に着け直した。
「決まり」
ルナネアは二人に深く頷くと、身支度を整えて診療室の重い扉に手をかけた。
廊下に出ると、白衣を着た医療スタッフや甲冑の衛兵たちが忙しなく行き交っていた。どこかピリついた空気の中、「少し風に当たってきます」と短く告げると、衛兵の男は怪訝そうな顔をしながらも小さく手を振って許可を出した。
ギィ、と重厚な玄関の扉を開け、三人は救護施設の外へと踏み出す。
肌を刺すような陽光と風が同時に押し寄せてきた。
見上げる空には、相変わらず不気味な黒い亀裂が居座っている。だが、街を行き交う市民や露店の商人たちは、誰一人として空を仰ぎ見ようとはせず、ただ慌ただしく日常をこなしていた。
その光景に強烈な違和感を覚えながら、ルナネアは地面を踏みしめる。
「まずは情報集め……ファイのいる場所を探らないと」
一歩間違えれば自分たちも捕まる綱渡り。それでも、ファイのために、ルナネアたちは不穏な空気が渦巻く第一区画の喧騒の中へと歩き出した。




