41.桃色天国
社交場となる屋敷が集まる王都の歓楽街。
各地で疫病が確認されてから平民街へと続く路地は封鎖され、賑わっていた大通りは静かなものであった。
しかし、クラブという社交の場はいつもに増して人が集まっている。
疫病に、新しい魔導具に、通信や運送事業、消毒薬、お清め隊、サロン・シャティエルなど、みんな知りたいことは山ほどあって、昼夜関係なく社交に精を出しているのだ。
貴族街にはそういった大人の社交場とはまた違う、若いクラブもあった。
学生が本格的にデビューする前に出入りする場である。女性は幼い頃からお茶会で練習を重ねるが、男性には男性の社交があるのだ。
授業で手紙の書き方は習っても小粋なジョークは教えてくれないし、贈り物の作法は習っても流行りの装飾品は教えてくれない。
なぜなら教師は研究に人生を捧げたようなもので、恋もお洒落も捨て置いた人間が多いからだ。
では、どこでそういったことを学ぶか。
友人同士での情報交換は基本であるが、色事には実践も必要だ。
良家の御令息などは家門で房事の教育を施されるものの、平々凡々な家門では親に世話させるのが至極格好悪いことだという風潮があった。
けれど、好きな女の子を口説くときは百戦錬磨みたいな顔で格好付けたいし、何より噂が一瞬で広まる学院で下手な真似はできない。
剣術だって魔術だって訓練して初めて実戦があるのに、恋だけは実戦で学べだなんて道理が通らないだろう。
そこで、このジュニアクラブである。
本格的な社交に乗り出す前に、政治談義をより深く掘り下げたり、たまに失敗して派閥間のタブーを学んだり、キレイなお姉さんと色恋の真似事を楽しんだり、文通の練習相手になってもらったり、女の秘密を教えて貰ったり——
クラブは基本的にホスト不在の自由な社交場であるが、ジュニアクラブにはオーナーがいる。たまにジュニアをすっ飛ばして大人のクラブに出入りするような輩もいるが、色事に関心がありながらも自力で経験を積めない少年たちは、大抵がこの安心安全な桃色の楽園でキレイなお姉さんに手解きを受けるのである。
——というのは建前であり、ほとんどはただお姉さんとイチャイチャしたり、悪い遊びが目的でここに通っていた。
「ヒッ……」
「やだ、真っ赤になっちゃった」
今夜は珍しく、お姉さんに手を握られて情けない声をあげる男の子がいた。
建前をまっすぐ信じてやって来た初心で奥手な十七歳の少年Aである。
彼は今日という日を忘れることはないだろう。
彼は一年前に成人して来年には学院を卒業するというのに、婚約者どころか恋人だってひとりも出来たことがない。
普段から女の子に話しかけることすらできず、いつもオドオドしているが、実は人一倍プライドは高くてこういった場に忌避感を持っていた。
女に女の口説き方を教わるなんて情けない、とか。
初めては好きな人とが良い、とか。
本当に困っていると思われるのはいやだ、とか。
べ、べつに僕だってその気になれば恋くらいできるさ、とか。
けれど、強がっていられるのもこの日までだった。
この年頃になれば女の子を前にして赤面するたびに揶揄われ、やれ童貞だのやれ独身貴族一直線だの、やいのやいのと初心をバカにされるのだ。
揶揄われるくらいならまだ良いが、真面目に心配されたときなどは羞恥と情けなさで死んでしまいそうになる。
そしてついに今日、友人に『なぁ、一回くらい顔出してみても良いんじゃないか? 他の奴には黙っててやるから。ちょっとお喋りして、文通でもして貰えば少しは慣れると思うぞ?』と言われてポッキリと心が折れてしまった。
まだ「女を抱けば変わるぞ」とでも言われれば強がっていられたが、「文通」を勧められたのだ。
それほどなのか…… と、さすがに自分が心配になった。
それでまあ、友人にしつこく勧められたのでしょうがなく、本当に気は進まないけど、付き合いもあるし、断ったんだけど無理やり連れて来られたんだ、みたいな顔で座っているのである。
「お酒は飲める?」
「はひ……」
「良かった。これわたしのお気に入り。でも飲み過ぎないでね、緊張していると飲み過ぎてしまうことが多いから」
「ぅ。あ」
グラスに葡萄酒を注がれて震える手で受け取ると、Aは勢いに任せて一気に飲み干そうとした。が、たっぷり口に含んでコクンと飲下すと、次はちびりと少しだけ唇に付ける程度にした。
深夜遅くにベロベロになって帰ってくる先輩の姿を思い出したのだ。
「もしアレだったら、先に殿方とお喋りしてくる? 少し前まで学院生だった方たちばかりだから、話も合うと思うわ」
「いえ……」
チラ、と向こうのテーブルを見ると、どこかで見たことあるような青年が女の子を膝に乗せて、胸元を弄りながら女性の口説き方講座を開いていた。
学生たちは目をギラギラさせて聞き入ったり、反対に顔を背けて赤ら顔を隠したりと様々だ。
ハッキリ言って下品だし、あんな大人にはなりたくない、と少年Aは強く思う。
「お友達もどこか行っちゃったでしょう? 寂しくなぁい?」
「ひ、あ。はい。お姉さんが、いるので」
「まぁ、うれしい」
精一杯のカッコ付けにお姉さんはパッと華やいで、恋人みたいにギュッと腕に絡みついてきた。彼はヒンッ、と息を飲んで。
これは授業…… 課外授業…… お姉さんは教官…、お姉さんはロミルダ先生…… え、ロミルダ先生? 最悪離れてほしい。あ、違った、キレイなお姉さんだ、ヨカッタ…… いや良くないし! 近いよ、良い匂いするし、近いよ!
と、盛大に頭をとっちらかしている。
「ヲォ、オ姉さんは!」
何か言わなきゃと思って言葉を捻り出すが、酷く声が上擦っていた。お姉さんはそれでも笑わずに「なぁに?」と優しく聞いてくれる。
「お、お姉さんは、その、ここ、長いんですか」
「ふふ、年が分かっちゃう」
「アッ。失礼ッ、しました」
「嘘嘘。そんなに長くはないわ。学生のとき、婚約破棄されてね。家からも“賠償金は働いて返せ”ってここに……」
「え。そんな…… 破棄されたって、え、賠償?」
「良くあるのよ。あ、もちろん冤罪よ? なにも悪いことなんてしてないわ。罰としてここに居るなんて言ったら、ガッカリさせちゃうかしら」
お姉さんは戯けたように笑ったかと思うと、一瞬、フッ、と寂しそうに顔を曇らせて。また次の瞬間には無理やり笑った。
色事に疎い少年にだってこれが強がりだということくらいわかる。
どうしてこんなキレイな女がこんなところにいるのかと不思議に思っていたが、彼女の苦い微笑みに悔しさが込み上げてきた。
こんな感情初めてだ。
「ぼ、僕が……」
「ん?」
彼女を救えるのは僕しかいない!
右半身に伝わる柔らかい感触と、艶のある可愛らしい声。こんなドモドモ情けない自分にも優しくしてくれる天使のようなお姉さんはこんなところにいるべきじゃない。
と、彼はまじめに童貞を拗らせて、自分こそが彼女を救うのだと強く心に誓った。
「おね、え。いや、デイジーさん」
「はーい、そこまでー! 全員動くなー! これよりこのクラブは封鎖する! ハイハイ、逃げない逃げない!」
「な、なんだッ!」
傭兵かと思うようなガラの悪い騎士たちが入ってきたかと思うと、窓や裏口を塞がれて完全に取り囲まれた。
……え? ここ脱法クラブ?
少年Aはまずそれを疑い、つぎに「違法賭博とか? もしかしてお姉さんも違法な奴隷だった?」と、キョロキョロ部屋を見回して、無意識のうちにお姉さんを守るように肩を抱き寄せていた。
「学生はこっちに集まれぇ! 強制送還の命が出てるぞ!」
「おい、逃げるぞ。アレ、どう見ても摘発屋だ」
長椅子の後ろから友人の声がした。少年はグッと背もたれの向こうに首を伸ばして、「どういうこと?」と声を潜める。
「騎士団のなかにある対人部隊のひとつだよ。戦や護衛じゃなく、憲兵を纏めて犯罪に対応する部隊ね。罪人捕まえたり脱法クラブを潰したりするから摘発屋って呼ばれてる」
「てことは…… やっぱりここも?」
「違うわよ失礼ね! ここは由緒ある名門ジュニアクラブですッ」
プリプリ怒ったお姉さんも可愛かった。
だが、鼻の下を伸ばしている場合ではない。
恥を忍んでやって来たお店で摘発屋に捕まり、学院に強制送還されるなんて後で何を言われるか分からない。
恥晒しもいいとこだ。
「逃げよう…… お姉さんも!」
「え? わたし?」
「おね…… デイジーさん、僕と結婚を前提に付き合ってください! 好きです!」
人生最大の危機を前に、覚悟が決まった少年Aは盛大に童貞を拗らせて英雄みたいな顔で言った。
お姉さんは「キャッ!」と頬を赤くして、またふわふわの柔らかい胸を腕に押し付けくる。
「いや、え? どうした? いま?」
英雄となった少年に背後で呟く友人の声など聞こえるわけもない。
こんな恋の始まりも悪くないだろう。
すぐあとに騎士に首根っこを掴まれ、友人諸共物々しい馬車に詰め込まれることになるのだが。
◆
貴族街の外れにあるヘレン宅は歓楽街の賑わいも遠く、街から忘れられたような静けさだった。
シェリエルはユリウスと顔を見合わせたあと、マリアにひとつ頷いて扉を開けるよう促した。
マリアが震える手で鍵を取り出し、勝手に中に入る。
戸口からでも分かる消毒薬の匂い。人の気配は無く、空家のような物寂しさである。
ギシギシと床を鳴らして階段を上がり、ある扉の前で立ち止まると微かに魔力の揺らぎを感じた。
まだ生きている。一応は……
「先生、結界は大丈夫ですか」
「ああ」
「マリアさん、決して病人に触れないように。結界があるからと油断しないでください」
「はい……」
ギッ、と短い音をさせて開いた扉の向こう。
古い家具はよく手入れされており、整然とした室内は他者を寄せ付けない潔癖ささえある。
すでに死の準備ができているみたいな部屋——
そのなかで、寝台の側に掛かった家族の肖像画だけが、唯一、生への未練であるように思えた。
この部屋の主人はきっと、ものすごくきちんとした人なのだろう。自分にも他人にも厳しく、侍女のなかでも教育係を任されるような。マリアのような娘も根気強く教え続けられるような。そんな人だ。
しかし、寝台に寝そべる彼女はだらしなく口を開けたまま覇気のない濁った瞳で天井をジーッと見つめていた。
布団は微かに上下しているが、首元は土壁のように水気を失くしている。
「ヘレン先生ッ!」
「近寄らないで」
マリアはシェリエルの腕に阻まれて腰を折るようにヘレンに手を伸ばした。
「せんせ、ヘレンせんせっ……」
「シェリエルの忠告からまだ間もないが…… 記憶障害か? いや、元より理解できていないのか……」
「海馬が死んでいるんでしょう」
「ふむ、一度開いてみようか」
「マリアさんの生態を研究するのは後にしてください」
老婆は瞬きひとつしない。小さな呼吸音は掠れていて、声をかけてみたが何の反応もなかった。
思ったより進行が早い。マリアが屋敷を訪れた時はまだ会話が出来ていたと言っていたのに。
「ヘレン様、お布団失礼します。採血しますね」
シェリエルはそっと布団を捲って老婆の腕を取ろうとするが、緑がかった灰色の皮膚は乾燥した泥人形のようで、持ち上げると崩れてしまいそうだった。
温度はなく、生気もない。
シーツの上で固まった指先にナイフで傷を付ける。弾力のない肌はボロボロと崩れて、後ろでマリアが「ヒッ」と短く息を飲んだ。
「まさか、もう全身……」
「元々肉が少なかったからだろう。代わるよ」
「エッ!」
「キャーッ!」
ユリウスはナイフを取り出すと何の躊躇いもなくヘレンの手のひらに突き刺した。
引き抜いたナイフをシェリエルに向け、「ほら、魔導具」と、切っ先の雫を落とさないように短く言う。
シェリエルは慌ててナイフの下に魔導具を滑らせ、ユリウスが一振りすると魔法石にぽつりと血液が落ちた。
「もうちょっとやり方を」
「それで、病は?」
「あ、ええと…… ッ…… やはり土壁病と、あとミルドム風邪、ハピオ、みぞれ病、ですね」
「おやおや……」
「そんなにですか! 全部わたしがうつしてしまったの? シェリエル様ッ! ヘレン先生、助かりますよね?」
「さぁ……」
「そんな!」
「あの、消毒薬を使いました?」
「ぅ、はい…… 神殿から、そのお借りして。ごめんなさい! あの、昨日、ヘレン先生が少し熱っぽいと仰るので、神殿で消毒薬を使っていたのを思い出して! それで、今日。さっき持って来たんですけど…… 遅かったみたいで…… でも、そのときはまだ、こんな。お話もできたし、身体が動かないっておっしゃって、見よう見真似で、消毒薬で拭いてみたんですけど、ダメで……」
「まあ、そうでしょうね……」
「驚いた、五歳児ほどの知能しかないぞ……」
ユリウスは珍しいものを見るみたいに目をパチパチさせてマリアを観察していた。
今日のマリアはあの積極的な陽の気が控えめだからか、ユリウスもいつものようなアレルギー反応は出ないらしい。
「……にしても、生きているのが不思議なくらいですね。発熱で脳も臓器もダメになっていてもおかしく無いのに……」
「みぞれ病が発熱を抑えているんだろう。本来は熱を奪って凍死させる病だ」
「薬の開発に舵を切らなくて正解でしたね。個別に対応していたら絶対に助からないじゃないですか」
「最厄期の疫病なんてそんなものだよ。弱者は淘汰され強者と運の良い者だけが生き残る」
ユリウスは軽く言ってのけるが、記録として見るだけでもそれは凄まじいものだ。
「やるだけやってみましょう。ヘレン様には確認することもありますし…… この件で一人でも死者を出せばいくつか首が飛びます」
「例の“治療魔法”は完成したんだよね」
「ええ、でも…… 今日ガーランドで認可が降りたばかりなんです。王都では無認可ですから、内緒にしてくださいね?」
「もちろん。ついでに後始末くらいはしてあげるよ」
やけに協力的なのが気にかかる。
まあしかし、やるしかない。他に手は無いし、このために作った魔法なのだから。
シェリエルは内在世界から魔法陣を引っ張り出し、そこに先ほど検知した病の陣を組み込んでいく。
ブンッ、と寝台の上に展開した魔法陣は錬金術式と魔術式が組み合わさり、美しいペルシャ絨毯のようだ。その陣から降りる光の幕がヘレンの全身をスキャンするように通り抜けた。
身体が発光するとかそういうエフェクトはないし、ボロボロの肌が瞬時に元通りというわけでもない。
しかし——
「くフッ……」
大きく上下した胸から弱々しい空気の塊が発された。
「ずいぶん強引だね。これだけ弱っていれば死滅した病原体が血管に詰まるのではないか?」
「治癒は使えませんが、水魔法を使って血流の補強はしてあります」
「なるほど、君の頭は便利なものだね」
ワシワシと頭を撫でられ——というより捏ねられ、それをパシと手を払う。
もちろん、これだけで体内の病原体がすべて死滅したわけではない。すでに病原体が細胞に入り込んでいたり、常に増殖を続けているので、外から魔力で干渉しても病原体の数を減らして戦況をひっくり返すくらいのことしかできないのだ。
「あとは本人の体力次第ですが……」
いつかアルフレッド王に施した強制的に筋肉を増やす治癒は出来そうになかった。いまそれをするとせっかく減らした病原体まで増えてしまうから。
出来れば今夜話を聞きたい。
ダメ元でもう一度魔法を重ねる。
「シェリエル、あまりやり過ぎると負担になるよ」
「分かっています……」
「穢れも祓っておこうか」
「特に何も感じませんが……」
ユリウスはひとりで祓いの祝詞を唱えはじめていた。薄暗い寝室に清らかな声音が響いて、それが終わると同時に澱んだ空気を一掃する。
新緑に囲まれた爽やかな朝のような心地良さに驚いた。
それまで何も感じなかったが、思いのほか穢れが溜まっていたらしい。染み付いていた、と言うべきだろうか。部屋が清潔で良く整理されていたせいか、はたまたそれが他所の家庭の匂いのように自然な物だったからか、祓うまでその穢れに気付かなかったのだ。
「呼吸が戻ってきたね。喉元が引き攣っているから、拭いてやりなさい」
「あ、わたしが…… わたしにやらせてください。また、病を移してしまうでしょうか……?」
張りのない弱々しい声に違和感を覚えて振り返ると、マリアがゾッとするような無表情で立っていた。
「え、マリア、さん?」
彼女の瞳に光はなく——常人ならばこうなって当然なのだが、シェリエルは「いま?」とギョッとしてしまう。
いつものマリアを思えば回復の兆しが見えたことで素直に喜びそうなものなのに、彼女は初めて絶望を知ったみたいな顔をしていた。
「わたし…… どうすれば良いですか」
「そうです、ね…… 結界を追加します、濡らした布で古くなった皮膚を拭ってあげてください」
「よろしくお願いします……」
シェリエルは「あれ?」と思いながらマリアの両手に結界を重ねて、「本当に?」と思いながら無言で部屋を出て行く彼女の背を見送った。
「どうしたんでしょう?」
「さあ?」
「まさか、今頃になって事の重大さを理解した、なんてことありませんよね?」
「そんなに都合良く人の脳が発達すると思うかい?」
「え、むしろまだ理解してないと?」
「漠然と“大変なことになった”と思っているくらいじゃないかな」
「えぇ……」
ふたりが失礼を極まりない推測を重ねていると、寝台がギシッと音を立て、ヘレンがケホケホと苦しそうに咳をした。
ゆっくりと瞬きを繰り返し、乾いた瞳に水分が戻っていく。
「ヘレン様、お気付きになられましたか?」
「……ッ、ケッ、シェリ、……るさま」
「はい、シェリエルと申します。お初にお目にかかります」
ヘレンは途端に汗をかきはじめ、呼吸も激しさを増した。いまの方がよっぽど辛そうだが、生きているという感じはする。
乾いた唇の隙間から湿らせるように少しだけ水滴を落とすと、ヘレンは弱々と口元を動かして慎重に嚥下した。
「……こ、まま、……なせ…… くだ……い」
「……?」
「死なせて、このまま」
「どうしてですか。マリアが病を持ち込んだのだと分かっていますよね?」
ヘレンはシワシワと瞼をゆっくり閉じて、量を増やした水をコク、コク、と飲み込んだ。
ハァ、と息を吐き出して、次に瞼を開けたとき、彼女の瞳には強い意志が宿っていた。
苦痛から逃れたい老人の瞳ではない、これは……
「あの、娘は、挫折を知りません。あなたが、来た、ということは、大変なことをしでかしたのでしょう? 人の死から、学ぶことは多い。わたくしの、」
彼女に凄まじい覚悟を見た気がした。
まだマリアと出会って日は浅いはずなのに、何が彼女をそこまでさせるのか。それに、自身の死を“挫折”にするなど、学びどころか呪いになりかねない。
マリアを恨んでいるというふうでも無く、無駄死になるという不安も見えない。
もう助からないと諦めているのだろうか。
彼女の考えに微塵も共感出来ず、理解も出来なくて、シェリエルはどうして良いか分からなくなってしまった。
「其方、死にたかったのか」
「……殿下」
「いつでも逝けるように準備してたね? 彼女が穢れないことも理解していて、教材にすれば死にも価値が生まれると?」
「……」
ヘレンは苦しそうに口を歪めて、乾いた皮膚に涙を染み込ませた。
「悪いけど、死なれては困るんだ。自責の念は他でどうにかしてもらおう」
「な……」
ユリウスの意味深な言葉に、ヘレンはボロボロと皺を崩しながら目を見開いた。
シェリエルはさっきからなんの話をしているのか、と怪訝に眉を寄せる。
「先生? どういうことですか?」
「彼女は母の侍女だった人だよ。ふふ、アルフォンスもなかなかやるじゃないか。私でも見つけられなかったのにね」
「え、な、……え?」
「アルフォンスには“ライアの息が掛ってない者にしろ”と助言したんだ。私としては離宮に出入りしていない者という意味だったんだが、アルフォンスはどこまでライアの手が伸びているのか判断出来なかったんだろう。前王妃の侍女ならば問題無いと踏んで、さらに念を入れ、死んだとされている女を探し出したんだね」
「ということは、ヘレン様は当時の…… 何かを知っている……? それで身を隠していた?」
「そう」
ヘレンは肯定するように、自身を罰するように、硬く目を瞑る。
“アルフォンスはなぜ死を偽装した人間が訳ありだと思わなかったのか”という疑問はあるが、そこはいま考えても仕方がない。
「待ってください! じゃあ、これは、偶然ではないということですか? マリアさんに通行証を渡したのは……」
「ああ。おそらくライアだろう。病を持ち込むことまで見込んで、ついでに彼女の口を封じようとしたんじゃないかな」
パッと目を見開いたヘレンは青ざめていた。
それは忌まわしい過去に追いつかれたみたいな怯えようだった。
「でも王都に病が広がればライア様だって危険です。そこまでするでしょうか」
「すでに王宮は人の出入りを制限しているし、死なば諸共という捨て身の可能性もある。往々にして狂った人間の考えなど常人には理解できないものだから、深く考える必要はないよ」
「考えを予測出来なければ後手に回ります」
「それで良い。彼女が何をしようがそれは彼女の責任で、すべてを阻止する義務はない」
「え? 先生はライア様の悪行を止めたいのでは無かったのですか?」
「いや? まあ、例の物の回収はしないといけないけれど、それ以外はべつに。意図はどうであれ通行証を渡すことは彼女の正当な権利だしね」
「でも、そのせいで…… わたしだって、罹患したんですよ」
「それはとても残念だと思う。けど——」
ユリウスはスッとシェリエルの耳元に唇を近づけて、誰にも聞こえない声で囁いた。
近くには瀕死のヘレンしか居ないというのに、それがふたりだけの秘密であることを強調するように。
「——ッ!」
シェリエルはカーッと顔を赤くして、拗ねた子どもみたいにユリウスの胸元を拳で叩いた。
恥ずかしかったし、悔しかったのだ。
マリアが桶に水を張って戻って来たときには、ヘレンの呼吸もずいぶん安定していた。
マリアはグズグズ鼻を啜って濡れ布巾でヘレンの身体を拭いてやる。
「ごめんなさい。ごめんなさい…… わたしのせいで」
「……」
ヘレンは「大丈夫」とも「いいのよ」とも言わなかった。
ボロッと乾いた土のような皮膚が落ちると、下には新しい皮膚ができていた。
「なんだかあの魔力結晶を思い出しますね。もしかして魔力」
「それはない」
「そうですよね」
マリアの両腕にはゴム手袋のようにピッタリとした対物理結界を施している。全身の結界は固体を通すので、白衣を着せてマスクも装備させている。シェリエルがそれぞれの効果とどうしてそれが必要なのか説明すれば、マリアはその度に顔色を暗くしていた。
彼女は知らなかったのだ。知らなかったし、見聞きしたものから察することができなかった。
だからどうということもないが、これから荒れるぞ、とシェリエルは頭を重たくした。





