39.顔面蒼白
マリアは目の前の扉をいくつか鳴らした後、ボーッと中庭を眺めたりしてしばらく時間を潰していた。
出迎えには少し時間がかかるだろう。
小さな屋敷といえど自室から玄関まで少し距離がある。
何から話そう…… まだ話さない方がいいかしら。
早く自分の功績を喋って褒めてもらい気持ちでいっぱいだったが、まだ手放しで褒められるほどではないという自覚もあった。
「こんな時間に何の御用かしら」
「先生! 夜分遅くにすみません」
ヘレンは口角をグッと下げ切って、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
これはなにもマリアに腹を立ててのことではない。彼女は人生に腹を立てているみたいにいつもしかめっ面でいるため、もうすっかりその通りに皺が刻まれているのだ。
「しばらく授業はお休みすると言っていたでしょう。なにかあったのですか」
「あ、いえ。ちょっと、先生のお顔が見たくなって」
「そうですか。お入りなさい。お茶を淹れましょう」
声は硬く表情は渋いが、ヘレンはマリアを追い返すこともなく屋敷に招き入れた。
リビングに向かう間、ヘレンの視線がチラチラとマリアを確かめる。マリアは授業の日でもないのに自然と背筋が伸びていた。
「先生、お邪魔でしたか?」
「いいえ。けれど、人を訪ねるときはまず手紙か通信で事前に知らせるようにと教えたはずです。上位のお屋敷に勤めるならば侍女の仕事ですけれどね。貴女がお仕え出来るところならばメイドの仕事になりましょう」
「……はい、申し訳ありません」
「それと。いくら顔見知りとは言え、その身なりで他家を訪問するのは失礼にあたります。道中で賊に襲われでもしたのかと肝が冷えました」
ヘレンの視線がマリアのドレスを上下すれば、マリアも自然とそれに会わせて視線を落とす。
そんなに酷いかしら?と、ドレスを見て。たしかに酷いわね、とほつれた裾や破れたレースを惜しんだ。よく見れば洗浄し切れていない鼻水や涙がシミになっている。
「賊と言いますか…… 可愛いちびっこ盗賊団に襲われちゃって……」
「……?」
「平民の子どもたちと少し遊んできたんです。慈善活動……? というものに興味があって」
「そうですか。ですが、いまは疫病が王都でも確認されているようですから、神殿に出入りするのはおやめなさい」
「どうして神殿だって分かったんですか?」
神殿と言ってもガーランドの神殿であるが、否定的な言葉に怖気付いて訂正は出来なかった。
「貴女、以前から神殿に出入りしていたのでしょう? 村に帰るような暇は無かったでしょうし、貴族が平民と顔を合わせるのは神殿くらいですからね」
「先生は何でもお見通しなんです…… なのですね」
「少し考えれば分かることです。しっかり物事を考えて過ごしなさいといつも言っているでしょう」
「はい……」
「マリアさん、その慈善活動とやらは教師の許しを得てのことですか」
「あ、えと…… はい、一応」
「一応?」
本当は教師にも内緒だった。
シェリエルが統治の授業でガーランドに通っていると聞いて、自分も連れて行って欲しいと言おうとしたのだが、アルフォンスからは「シェリエルに関わるな」と言われている。
でも、生徒がガーランドに慈善活動に行くのは認められているのだから、自分が行っても問題ないはず。
ちょうど助けてくれる人もいて、マリアにはこれが神の啓示のように思えたのだ。
「大丈夫です。他の生徒も一緒なので」
「授業の一環ということかしら」
「そうです! 課外授業で!」
「この時期に、ねぇ……」
ヘレンはしばし黙り込み、蒸らし終わった紅茶をティーカップに注いだ。
水分の抜けた細く皺の多い手は二人用のポットに耐えられるか心配になるほどだが、ぐらつく事もなく美しい所作で紅茶が弧を描く。
赤みがかった琥珀の液体から花のような香りが立った。
彼女は長年そうやって紅茶を淹れて来たのだろう。年老いても洗練された所作は残るのだと改めて尊敬の念を覚える。
「美味しい……」
「夕食は済ませたのですか」
「はい。神殿で子どもたちと一緒に」
「平民の食事は口に合わないでしょうに」
「それが、シェリエル様が食事もご用意されたみたいで! とっても美味しかったです!」
「“ご用意してくださったので”」
「う……」
チクチクと言葉遣いを直されるものの、この日はいつもより優しかった。
授業ではなく、軽いお茶会としてもてなしてくれているらしい。
「せっかくですから練習の成果を見せて貰いましょうか。ドレスの補修をしてごらんなさい」
「な、今ですか!?」
「今です。その格好で外を歩くことを恥ずかしいと思わなくてどうするのです」
「……はぁい」
「返事は短く、簡潔に」
「はい」
染みるような紅茶の温度が身体中に広がると、ドッと疲れが押し寄せてくる。このまま眠ってしまいたいが、ヘレンは裁縫道具を取り出して当て布や糸を選んでいるし、このまま繕い物をするのは避けられそうにない。
溜息が聞こえないよう小さく息を漏らすと、一度立ってスカートの後ろ部分を確認した。
……やだ、後ろも破れてる。このドレスお気に入りだったのに。
馬になったときにドレスを踏まれたか、強く引っ張られたか。
マリアはドレスの紐を緩めるとドロワーズとシュミーズという下着姿になって、外用のローブを羽織る。
すると、ヘレンはもう糸の色合わせは終わっていて、あとは縫えば良いだけになっていた。
「やってごらんなさい」
「わたしがですか?」
「他に誰がやるのです」
「お手本を見せて貰えるのかと……」
「もう散々教えたことです」
お気に入りのドレスだからこそ自分の下手な補修で台無しにしたくない。せめていつものように難しいところをやって見せてくれれば気も楽なのに。
彼女はそれをわかっていて一から自分にやらせようと言うのだろう。
ここに来たことを少し後悔しながらも、マリアが裾布に針を通すと反対の方でへレナが染み抜きをはじめた。
「先生はなんでもできるのですね。繕い物も染み抜きもメイドの仕事なのに……」
「当然です。一度外に出れば引っ掛けた時などに補修するのは侍女の仕事。夜会の最中にドレスを汚せば控えの間で染み抜きも必要となります」
「へぇ……」
手元に集中し過ぎて口元が疎かになってしまった。
叱られる! と思って顔を上げると、ヘレンは両眉をこれでもかと上げてちびっこの涎の痕と格闘していた。
老眼なのか、少し手元が見づらいらしい。
「どうしました。手が止まっていますよ」
「あ。はい。……王宮でもドレスを汚す方がいらっしゃったのですね」
「ええ、好んで果物を召し上がられる方が…… 年のせいか、もうほとんど記憶の彼方ですけれど……、ッコホン! マリアさん、無駄口はおよしなさい」
そう言いながらもヘレンは無視することもなく無駄口に付き合ってくれるのだが。
……やっぱり先生もひとりだと寂しいのかしら。
彼女は夫に先立たれ、息子たちはそれぞれ独立して屋敷を構えたと聞いている。
「ヘレン先生は息子さんと一緒に暮らさないのですか?」
「彼らには彼らの人生がありますからね」
「家族なのに……」
「わたくしには家族など過ぎたもの…… これで良いのですよ。老いた母の世話で若人に苦労を背負わせてはなりません」
「先生がお世話されるところなんて想像できませんよ?」
彼女は下げた口角の片方を僅かに上げ、一緒に片眉もグイッと持ち上げた。
これはお小言を言うときの仕草だが、ヘレンは口は閉じたまま、フ、と口端が緩んで。
マリアはそれで「アッ……」と心臓が弾けそうになった。
笑ってくれたのだ。
ニコリともしないけれど、たしかに空気が軽くなった。ここに通い始めて、はじめてのことだった。
嬉しくてドキドキする。マリアはもう表情を整えることもできずに、喜びのままに目尻を下げた。
「なんです、だらしのない」
「ふふ、いいえ。なんでもありません」
「それを飲んだらお行きなさい。寮の門限があるでしょう」
「はい、そうします」
マリアはゆっくり丁寧にほつれた裾を縫い直し、のろのろ破れたところに裏から当て布をして補修した。
彼女の、独りで過ごす夜が少しでも短くなれば良いと思って。
◆
翌日。ガーランドでの課外授業が三日目となったその日。
ガーランドの特別研究室(ただの空き会議室)は凄まじい熱量を持っていた。
「ハァ〜、天才じゃ、天才の所業である! これを為した者を探せ! 讃えるのじゃ! ハッ、わしじゃった! わしが天才じゃった〜! ガハハ!」
「アルノ定理二乗三分岐ゴートを代入して…アー、ちがうここは減算した方が速いな、いや待てそれだと土壁の定理も見直せるぞ、ボイモット化してアレをこうしてコレをこう!」
「ファ〜〜〜……」
賢者はそれぞれ狂気のなかにいた。
「ふぁー、すごい楽しそう。こんな賢者様初めて見た!」
「ダリア様もお忙しいのにありがとうございます。助かりました」
「いーの、いーの! 帰りにガーランドの魔獣片付けて行くし!」
「魔獣…… やはり街に降りて来ているのですね」
「多少はね。穢れのせいでちょっと殺気立ってるというか、縄張り争いが激化してるみたいなんだ」
「片付けるというと、討伐を?」
「いんや。祓いをして魔獣が嫌がる結界でマーキングし直すだけだよ。ここからは出て来ちゃダメだよって」
「そうなんですね、よかったです」
「シェリちゃん獣好きだよね〜」
「まあ、人よりは」
「え、そうなの? そういう性癖? てか、あのドラゴンどうなった?」
「シエルですか? 森に帰しました」
「へぇ、あんなに可愛がってたのに」
「人とは生きる速度が違いますから…… 人に慣れてしまっても、わたしが死んだあとシエルはまだ数百年生きないといけないでしょう? 人の暮らしに慣れさせるべきではないのかなと」
「そっか。いろいろ考えてるんだね」
「これでも一応……」
シェリエルは賢者の護衛でやってきたダリアとダラダラ喋りながらも、次々に渡される書に目を通し、分類したり纏めたりしながら仮説の検証を行なっていた。
ダリアはダリアで何もしてないように見えるが、これでいて本当に何もしていない。
扉はリヒトが守っているので、この時間は彼女にとって休憩時間なのだ。
「ねー、ちょっと寝て来て良い?」
「はい。さっきからそう申し上げていますよね」
「ちょっとは引き止めてよ〜! 久しぶりなのに」
「あ、じゃあ」
「じゃあって……」
「学院戦、魔術士団の方ではどのような話になっているのです? 決行前提ならばもう準備は始めていますよね?」
「うん。準備はしてるよ。罠とか監視の魔導具の準備は士団でも立派な訓練のひとつだからね。学院戦が中止になっても無駄になるわけじゃないんだ」
「……ふむ。では本当に上の決定次第という……直前でひっくり返る事もあるわけですか」
「あ、シェリちゃん学院戦やりたいんだっけ?」
「はい。去年楽しかったですから」
「珍し〜、そういうの面倒とか言いそうなのに」
「ベリアルドは単独で動けるので。派閥で纏まるとなったら面倒かもしれません」
「あー、それある! しかも毎年微妙に所属領が変わるでしょ? アレさ、結構めんどくさいんだよね。どこに忖度するとか、元の派閥との摩擦とか」
「あぁ……」
「ねぇ、聞いてる?」
「聞いてますが」
「それでさぁ、個人行動するとすごい怒られるの。いい気になるなよ! とか言われちゃったりして」
「大変ですね」
「ま。今年やるとしたらシェリちゃんも大変だと思うけどがんばってね」
「はーい……」
「聞いてないね? もう! 知らないッ! 寝るから!」
「おやすみなさいませー」
脳内の処理がひとつ減ったことでシェリエルの書をめくる速度は少しばかり上がった。
もうほとんどの病に対する錬金術式が出来上がっており、ひとつは治験に入っている。
が、これからどういう順番で治験をして行くかも熟考する必要があった。
なるべく汎用的な式からやれば、微調整があったときに他の式にも応用できる。あとは比較的簡単なものから少しずつ。
細胞を直で叩くような式も開発されてしまい、シェリエルの責任はグンと跳ね上がってしまったので。
「モーゼス、隣はどうなっている?」
「はい。先ほど正式に治験の法案が通り、お清め隊の講習の目処も立ちました。これからガーランド領内の有志を集めて明日から順次神殿に派遣するそうです」
「ありがとう、引き続きあちらとの情報共有をお願いね」
「ハイ!」
モーゼスは元気よく返事すると、賢者の周りをウロウロしながら御用聞きをして回った。
塔の助手までは連れて来れなかったので、雑務はモーゼスやメアリが受け持っている。
開発補助はヨハンひとりで回しているので彼は現場にいたときより数段顔色が悪くなっていた。
「ヨハンも寝て来たら? 今日も夜まで居るからわたしが代わるわ」
「おう…… これが終わったら……」
ヨハンは顔も上げずにちびちび魔力を削って式を展開し、血液を垂らして反応を見る。
その向こう、扉口ではサラが出入りする人間の洗浄と消毒、着替えを手伝っていた。
白衣は毎度着替えてガーランドのメイドに洗って貰っていて、念のため一日二回は検査の魔導具で感染の有無をチェックしていた。
血液を使った検査であるが、この世界の人間は平民でも微量の魔力を持つため、病原が僅かでも体内にあれば検知できるという優れものである。
サラはにこにこと指先に針を突き刺して血液を採取しているが、モーゼスはそれを横目に見てブルブルと震え上がっていた。
こうしたシェリエルたちの努力があり、さらに翌日、課外授業四日目には新しい治癒魔法——抗病原魔法に実用の許可が降りる。
許可を出したのはガーランド領領主代理フェルミンだ。
領地の持つ裁量権を使い、ガーランド内に限るとした上で領地全体を実験場にした。いまだ反論の声はあるが、迷子係改め医療促進委員会となったあの三人組が尽力してくれた。
この日は最後の試験と周囲への根回し、治療手順を纏めるなどしてまた夜遅くに学院に戻ることになった。
◆
「はぁ、疲れた〜。時間外労働が過ぎる……」
「労働なのかい? 給金はどこから?」
「こんなときに揚げ足取らないでください」
自室に戻るとなぜかユリウスとディディエが晩酌していた。
ディディエは最近、シェリエルがタリアから個人的に取り寄せたピリッとした植物油と、ガーランドが他国から輸入しているブルーソルト、それに、口の中でパチパチ弾ける火炎ペッパー(カイエンペッパーではない)を使った凶悪なポップコーンにハマっているらしい。
ブルーソルトはミントのような清涼感のあるソルトで、火炎ペッパーと合わせるとそれこそ火が付いたように舌が痺れるそうだ。
ちょっとしたお土産のつもりでいくつか香辛料を持ち帰ったのだが、兄はこの悪魔的なポップコーンを口に入れてはヒーヒー言いながら笑い転げている。
「ひぁ〜、まひでやひゃいよこぇ(マジでヤバいよこれ)」
「舌がバカになりますよ?」
「もうはかになっえう(もうバカになってる)」
「……先生は平気そうですね」
「私のはただの塩味だよ。辛味は痛覚だからね、こんなものを好んで食す人間は被虐嗜好者と言うほかない。要するに君の兄君は頭のおかしい変態貴族というわけだ。早く牢に入れた方が良いと思う」
「おっしゃる通りですが、そう思うなら止めてください」
「散々言ったが? 料理人にも忠告したがディディエがクビにするぞと脅したんだ。だから好きにさせてやろうと思う」
「左様ですか……」
いや、そこまでしてパチパチさせたい?
頭のおかしい人の考えることはよく分からないな……
まだ笑い転げるディディエは涙目で酒をひと口含むと、コクと嚥下してから「ハー、たのし!」と上機嫌で呂律をハッキリさせた。
治癒の加護を持つディディエはパチパチと治癒を繰り返しているらしい。
そんなふたりを残してドレスルームに入ると、サラに手伝って貰って簡単に着替えを済ませる。
もう夜だしあとはお風呂に入って寝るだけなので、胸下で切り替えのある緩いシュミーズドレスにした。
ローブは後でいいかとそのままリビングに戻ると、ふたりがパッとこちらを見て固まる。
「へりえる……! ンッぐ! ローブ着なよ! 破廉恥だ!」
「えぇ…… 今更では?」
「それ寝巻きじゃん!」
「寝巻きじゃありません! 三百年ほど前に流行ったそうなので立派なお出かけドレスです!」
とは言っても生地やデザインは今風にアレンジしている。膨らみを持たせる必要がないので立体的に裁断する必要がなく、しかし、だからこそ寝巻きにならないよう品を持たせることが難しかった、とデヴィッドが言っていた。
「いや、それ! 夜会用のドレスとしてだろ! シェリエルにはまだ早いよ!」
「あ、たしかに……」
失念していた。楽な服を極めんとアレコレ試行錯誤していたが、元はと言えば未成年は身体のシルエットを出すことが許されていないのだ。
だから騎士服のときでもドレスコートを着るし、腰から下はなんとなく布を重ねてふんわりさせている。
最近作ったシュミーズドレスのなかでも薄手のものを選んでしまったシェリエルはワッ!と焦ってサラから受け取ったローブを羽織った。
「君に露出癖があったとはね」
「だから、そういうつもりでは……」
「ユリウス見過ぎ! 変な気起こしたらタダじゃおかないぞ!」
「はいはい、心得ているよ、兄さん」
「キィ〜! 本当さぁ! ちょっと魔法が出来るからって調子に乗るなよ、お前なんてエッチなお姉さんにトラップ仕掛けられたら即死だからな」
「聞き捨てなりませんね、お兄様。いまの話どういう意味ですか? そんなところに行くご予定が?」
「ア。ちが、これは例え話で…… 説明しよう、このユリウスという男はだね——」
「殺すよ?」
「怒んないでよ、怖いじゃん……」
ディディエが珍しくシュンとするほどユリウスの声は地の底をうねるような低音であった。
と、そこに。
「シェリエル様、リヒトから来客の報せが……」
サラが遠慮がちに声を差し込んだ。
何かしら? と思ってリヒトとやり取りしている途中の魔導具を見せてもらうと、そこには“マリア”の文字が。
ディアモンには許可無く入れないはずだが…… 何かあったのだろうか。
嫌な胸騒ぎがして急ぎ足で入り口に向かう。
「マリア様? どうされました?」
扉の向こうでは背を丸めたマリアが青ざめた顔色をフードで隠していた。チラチラ覗く瞳は潤んでヨロヨロと震え、影のせいかと思った顔色もやはり真っ青だ。そのマリアが突然涙を煌めかせて泣き縋ってくる。抱きしめる趣味もないし何かと思ってとりあえず両手を上にあげた。
「の…… シェリエルさん…様…… たすけ、て……」
「、?」
「助けて、ください…… 先生が、先生が……」
「え? 先生? どちらの? なにがあったのです」
襲撃か、と思って騎士服を着替えてしまったことを悔いた。しかし、マリアはブンブンと首を振って散らばった髪の合間に涙を飛ばす。
「わたしの、先生…… ヘレン先生が、様子がおかしくて。皮膚が…… あの、ボロボロになって。動かなくて。……起き上がれないって。熱もあるの……」
「は?」
思わず乾いた声が溢れたが、頭はしっかり働いていた。
“わたしの先生”ということは殿下から紹介してもらった元侍女とやらか。若くても五十代、皮膚に疾患がある病は魚鱗病か土壁病、他にもあるけれど発熱が伴うのはそのふたつ。動けないということは関節が固まってしまったか内臓まで侵食があるか。貴族の高齢者ならば一気に中等症まで進んでもおかしくない。
でもなぜ。
マリアが通えるということは王都に住んでいるはず。まだ王都でそのふたつの病は確認されていないし、貴族には……
「マリア様、どうしてその方が病を患われたのか心当たりは? 近頃旅行をしただとか、他領の商人を秘密裏に呼び寄せただとか」
「え、それは…… その、えと」
マリアは青い顔からさらに血の気を引かせて、まさに顔面蒼白といった様子である。ぶるぶると音がしそうなくらい肩を腕を脚を震わせて、ガチガチ歯を鳴らしていた。
「知っているのね? 正直に言って。その方の治療もだけれど、感染源によっては王都に屍の山が出来るわ」
「ヒッ…… あの、わたしが……」
「?」
「わたしが…… ガーランドに行きました……」
——バチンッ!
思わず手が出ていた。
マリアの頬を打った手がジンジン痺れて、頭が沸騰したように熱を持つ。
しかしそれは反射的なものだった。息を吐くと同時に幾分か冷静さを取り戻して、床に倒れたマリアに駆け寄る。
「申し訳ない、つい…… いま治癒を」
「いいえ、構いません。そのお力をどうか先生に」
「これくらい誤差の範囲です」
別に彼女の為じゃない。証拠を隠滅したいだけだ。
杖も使わず手のひらをマリアの片頬にあてるとジッと治癒の魔法をかける。
ついでにこのまま頭を潰してやろうか……
やはり、冷静ではなかった。
シェリエルの頭のなかではすでに最悪の事態が展開されている。先生とやらが発症したならば感染してから一日か二日経っている。その間マリアは授業に出ていたはずで、学院にも感染者がいるはずだ。
「あー、本当に……」
「シェリエル様、その者はどうしますか」
「連れて行くわ。リヒトはプロキオン先生とアルバラ先生を呼んで来て」
「ハッ!」
リヒトは床がめり込むほど踏み込んで駆け出したが、廊下の端まで行くと立ち止まって懐から魔導具を出すような素振りをしていた。
オロオロ首を振って、アセアセと魔導具に何か書き込むと、また物凄い速さで駆け出した。
「マリア様、いまから隔離の結界を施します。この指輪を絶対に外さないように。指が飛んでも走って拾うのです。それが結界の媒体になるので、術が解けたらその分人が死にますから。いいですね」
「死…… え、でも。わたしは何ともなくて…… 病気になんて、なってません」
「無症状なだけで保菌してるのでしょう。考えても分からないなら口を閉じてじっとしてて」
「はひ……」
シェリエルはマリアに指輪を嵌めさせるとそれを起点に結界を展開した。
最悪なことに、すでにシェリエルも防護結界を解いている。
きっとリヒトは大丈夫だろう。命の加護がある者は多少の病原は取り込み次第自身の免疫が殺すので保菌する確率が低い。
が、全の属性はいわばマスター権限を持つというだけで、自身の魔力が命の属性で染まっているわけではないのだ。
そのため、シェリエルもこの間に感染した可能性がある。自分にも結界を張り、急いでマリアを部屋に引き摺り込んだ。





