37.蜂蜜色の微笑み
シェリエルたちは急遽用意してもらった会議室に向かう。
いつも通りリヒトが室内を一周しながら窓やテーブル、装飾品などに危険がないか調べ、安全が確認されると四人に入室を促した。
シェリエルに続いてモーゼス、サラ、それに賢者アウグストが会議室に収容される。
リヒトはそのまま部屋から出て扉を施錠した。
場所が変わってもやることは変わらない。これからリヒトが許可した人間でなければこの部屋には入れないし、リヒトが判断できない場合はモーゼスかサラが呼ばれることになっている。
「では、時間もありませんし説明させていただいても?」
「勿論だとも、始めようではないか」
賢者アウグストはホクホクと長く垂れ下がった口髭を撫で降ろす。
誰も先ほど起こった激戦の様子など知る由もないが、アウグストは自身が勝ち取った勝利の余韻に浸っていた。
それは、十分ほど前のこと。
賢者の塔には老人たちの心臓を止める勢いで擬似半鐘の音が鳴り響いていた。
シェリエルからの通信を報せるためのものである。
あるときは「共鳴のギフトに関する論文を探してほしい」だとか、あるときは「レーヴェ・ラスクの関数について教えてほしい」だとか、あるときは「属性比率を出す関数ってありますか?」とか。
将来有望、かつ、かわいい孫娘のようなシェリエルに教えを乞われれば、全員がメロメロと目尻を下げて我こそはと手を挙げるので、その度に賢者大戦が開戦することとなる。
この半鐘の音も、毎度だれかが心臓の具合を悪くするので助手たちは「またか……」と呆れ顔であったが、これも王国で一番賢い者たちが考え抜いた最善の策なので口には出さなかった。
人知れず通信に気付けばまず間違いなく他に秘匿し抜け駆けするし、ならば通信係に自身の助手を送り込もうと毎日配属で揉めるし、出遅れた助手はそのあと師からネチネチ責められる。
さすがに助手たちも「自分たちでやってください!」とストライキを起こし、塔内の至るところに音を転移させる魔導具が導入されることになった。
と、まあ、そのような経緯がありつつ。
半鐘の音を聞いた老人たちはピタ、と全員が手を止めて、今度は鐘が鳴り止まないうちに一斉に動き出した。
ある者は曲がった腰のまま脚だけ強化して化け物みたいに走り出し。ある者は重力を無視して階段を数段飛ばしで駆け上がり。ある者は螺旋階段の手すりに腰掛けてシュルシュルと降りていく。
数拍ほど心臓を止めていた者も無理やり転移で追い付き、ほぼ同時に塔の賢者が集まった。
これは騎士団や魔術士団でも見られない招集力である。
息を切らせた彼らは到着早々、大鏡に映し出されたシェリエルからの文を読んでいた。
『ガーランドで魔法の開発をしたいのですが、錬金術の知識が必要なのでご助力いただけませんでしょうか』
挨拶文は省略するのが通信の作法だ。
(ただ面倒だからという理由だがシェリエルは魔力削減と言って納得させた)
この一瞬の間に、賢者たちは彼女が今ガーランドに居ること、これから誰かが彼の地へ向かい新たな魔法を開発すること、その人数がひとり、もしくはふたりであることを理解する。
いつもの小さなお願いとは段違い。
新しい魔術の開発に立ち合えるなんてこの先一生無いかもしれない。
そこからはもう、恥も何もかなぐり捨てた大喧嘩である。
『転移で向かうならば空の加護を持つ私が』
『わしが一番研究が進んでおる』
『疫病対策で出向いているのだろう。ならば自分が最適だ』
などなど、最後は揉みくちゃになりながら少ない髪の毛やシワシワの頬を引っ張りあい、最終的に一番体躯の良い賢者アウグストが残った。
皆、老齢で普段から運動不足なのでこうした喧嘩も長くは続かないのだ。
そうして、シェリエルとのお出掛け権を勝ち取ったアウグストはササッと身なりを整え塔を降り、扉が分からず入り口付近でキョロキョロするシェリエルに「待たせたな」と賢者の顔で言ったのだった。
「——というわけで、まずは病の性質を再検証したいと思っています。すでに治癒をかけられるかどうかで選別されていますが、その根拠についても明らかにしたいと」
シェリエルは早口で喋りながらアウグストの理解度を測る。
はじめはデレデレと上の空のようにも見えたが、一応話は聞いてくれているらしい。
「なるほどのう。病も生きているか…… 面白い」
「病原の判別は出来ているので、今回アウグスト様にはそれを打ち消す錬金術式を構築していただきたいのです」
「うむうむ。やはりわしが来て正解であったな。わしはその手の術式が専門なのだ」
「心強いです!」
錬金術式は使用する言語が神語ではなく通常の言語(数式のようなもの)なので賢者たちの研究が進んでいる。
いくらシェリエルにハイスペックな脳と前世の知識があっても、それを専門に数世代に渡り研究してきた賢者たちには遠く及ばないのである。
「それぞれの病を写した陣はあるか?」
「はい。モーゼス、お見せして」
モーゼスが紙束を取り出し、机の上にそれらを左右に分けて並べる。
「こちらが治癒が有効なもの、こちらが無効なものになります」
「どれどれ」
魔法陣よりもう少し幾何学的な紋様の陣は病の設計図だ。健康な者、症状が同じ者、それらの血液を比較して相違点と類似点を地道に検証して行った。
病を特定するギフトがあったのでそれを解析し応用したが、一から研究していれば数年はかかっただろう。
「なにか分かりますか?」
「いんや。どの程度差異があるか確認しただけよ。まあ、この分なら問題なかろう。それぞれの病を持つ検体の血液が必要であるな。あとは……」
「血液はガーランドの民から提供してもらいます。治験も許可を得たので遺体ではなく患者で試していただくことになりますが、よろしいでしょうか」
「おお! まさか生きた検体で試せるとは! やはりそこらへんはベリアルドよのお、分かっておるわ!」
アウグストは花を飛ばすようにキラキラとした目でワッ、と両手をあげた。
そういえば、前にヨハンが遺体を買っていたクシヨンとかいう男が賢者に遺体を売っていたような……
「あの、失礼ですが…… 以前ベリアルドから遺体を購入していらっしゃいませんでしたか?」
「……ん? あ、うん? ナンノコトデショウカ」
明らかに目が泳いでいる。禁忌に関することなので容易に口にできないらしい。
「あ、ご心配なく。いまベリアルドでは遺体の解剖が合法になりましたので」
「なんと! それは素晴らしい!」
「やっぱり研究していたのですね……」
「オホンッ! いや、まあ、な。禁忌に手を出す者もいたことにはいた。が、仕方あるまい。生きた人間で検証するわけにもいかぬゆえ」
「……、何を研究されていたのです?」
「それこそ疫病の研究であったり、魔力が及ぼす人体への影響であったりだな」
「不老不死などは?」
「行き着く先が不老不死になるかのお。我らは特段寿命が長いゆえ、それも不思議に思っておったのだ」
貴族の中でも賢者は長生きで知られている。記録に残る最年長は百五十歳を超えるというので、シェリエルはまた懲りずに賢者を人外枠に入れた。
けれどそれも馬鹿にしているわけではない。ひとりが百年近く研究できるので、その理解度や専門性の高さは測り知れないのだ。
シェリエルはまるでユリウスと喋っているかのように、何の遠慮もなくアウグストに自論と仮説を話すことができた。
「では、病原を生命体と仮定して、滅するか排除するような術式は組めそうですか?」
「その前にどう術式を付与する気だ? 錬金術はその陣に対象を通す必要がある。その際、対象は陣により一度分解されるゆえ、生きた人間を通すことはできぬぞ?」
錬金術は分解、解析、記録、再構築が基本の魔術式である。
錬金術式をそのまま人に通すとなると、元に戻せたとしてもそれが元の人間であるかという倫理の問題に直面した。
「魔術式に組み込みます。治癒魔法が人の免疫や細胞の活性化に作用するということは、魔法なら人体を通過できるはずですから」
「ふむふむ。少し前では考えられんかったが…… 魔術を改変できる其方なら可能であろう」
「皮膚疾患のあるものから試していただけますか? その前に分類ですが、血液が届き次第そちらはわたくしの方でやりましょう」
「よかろう、ではわしはそれまで仮組みしておくかの」
さすが賢者様。椅子に腰掛けた途端、目を瞑ったかと思うと腕組みをしてブツブツと漏らしている。
すでにモーゼスから神殿に連絡させているので、すぐにでも始められるだろう。馬ならば馬車より格段に早い。
その間にアウグストの白衣を用意し、口当ての布に対物理結界を施した。
「シェリエル様、ヨハンが到着しました」
「通してちょうだい」
駆け込んできたヨハンは汗で濡れた髪を振り乱し、息切れの合間にシェリエルに吠えた。
「お、嬢、ちゃん! 賢者様呼んだって⁉︎」
「アウグスト様が来てくださったわ、ヨハンもこちらで助手をしてくれる?」
「お、ぉぉ……」
誰にでも不遜な態度でお馴染みのヨハンがカクカクと手足を一緒に出して、瞑想中の賢者の前でピタと固まってしまった。
一緒にやって来たメアリが固まったままのヨハンの代わりに血液の入ったガラス瓶を並べ、資料をモーゼスに手渡している。
この様子だと屋敷に入る前の洗浄から白衣の着替えも全部メアリがやったのだろう。
「ねぇ、メアリ。ヨハンどうしちゃったの?」
「これが普通なのです。平然としているモーゼスがおかしいのですよ」
「そう…… ヨハンにも敬意ってものがあったのね」
メアリはクスクス笑いながらヨハンの後ろに立つと、ゴスッと腰をひと突きして腰を落とさせ、ボサボサの髪を縛ってやっていた。
「ヨハン、これから病原の再選別を始めるわ。それが終わればアウグスト様が錬金術式の構築に入るからそれを補佐するように」
「お、」
「大丈夫? 無理そうなら神殿に戻っていいのよ」
「やる」
目をパチパチさせたヨハンはハッと正気を取り戻して並べられた小瓶を確認しはじめた。
しっかり札を確認した小瓶は広げた病原陣に載せていく。
「はじめるわよ」
シェリエルはそう言って小さな陶器の器の上に錬金術式を展開し、その上に小瓶から血液を一滴垂らす。
これは血液の情報を読み取るものだ。
そのあと、また別の器に垂らした血液に簡易的な祓いの儀を行った。祓った血液をまた同じように錬金術式に通してみる。
通常の血液と、祓った血液、ふたつの陣が出来上がった。
「祓いでどうにかなるのか?」
「一応、確かめておこうと思って。祓いの儀で回復した患者がいたでしょう? 免疫が復活したからなのか、病原自体が祓われたのか分からないじゃない」
「たしかにな。祓いで病原が死ぬなら、他の魔法は毒になるってことか」
「そういうこと」
もし病原の穢れを祓うことで病が治るならば、その病は治療法がまったく違うものになる。穢れは魔力に反応するため、祓い以外の魔法は病状を悪化させる恐れがあるのだ。
これまで医者や神殿が治癒をかけてみて効くかどうか、祓いをしてみて効くかどうか、で選り分けて来た病たちを錬金術によって更に詳細に解析していく。
反治癒魔法とされる病原をひとつひとつ祓い、その変化を見る。いまのところ祓っても変化はなく、それは穢れによって変質した病原は元に戻らないことを示していた。
しかし、それも半分を超えた頃。
「あッ…… これ」
「お? 変質してるな」
何かが変わったことは分かるが、それが病原であるかはまだ分からない。
「健康体の血液陣ある? 分離済みのものを」
「展開するか?」
「お願い」
ヨハンの展開した血液陣を写し取り、祓いで変化した血液から余計な情報を抜いて比較の錬金術式に突っ込んでみる。
するとどうだろう。
「祓いで病原が消えたみたい。えーと…… これは、人魚病……? 声帯が腫れ上がる病気ね」
「どうなる? 祓いでいけるか?」
「いいえ、これは血液サンプルだったから祓えただけで、宿主が穢れを溜め続けるようなら祓いじゃ追い付かないはずよ」
「んじゃ精神疾患に分類だな。人に移るものか?」
「これを見る限り、元は常在菌みたいだから人には移らないと思うわ」
「よし、なら人魚病患者は帰すか。隔離してあるが、他の病を貰うかもしれねぇし。通いで祓えば充分だろ」
「そうね。モーゼス、神殿に文を」
「はい!」
そのあとの検証でウイルス性と見ていたいくつかの病にも穢れによる変質が見られた。
これにより、病は三種に分類されることになる。
一、ウイルス性。
生物としての要件を満たさず、治癒魔法で免疫力を上げることができる。
二、細菌性。
治癒魔法により病原まで活性化するので薬で症状を抑えて免疫力を上げる必要がある。
三、変異性。
穢れにより常在菌や細胞そのものを変質させるもので、祓いとメンタルケアで回復が見込める。
病が整理できたことでシェリエルには疫病終息までの道筋が見えてきた。
「根治出来そうか?」
「完全に病原を殺すことはできないと思うわ。あと、全員を治癒するには人手と資金が足りないわね」
「致死率の高いものだけに絞るか」
「そうね。あと、平民で食い止めないと大変なことになるわよ」
「細菌性と変異性の病か。魔力が高いと一瞬で重篤化するな」
「それだけじゃないわ。無駄に免疫力が強いと保菌したまま発症せずに他者に感染させる恐れがあるの。その場合、菌も耐性を付けるからどんどん病が強力になる」
「……茶会や夜会で人との接触も多いしな。こりゃやっぱ学院戦は中止がいいんじゃねぇか? 嬢ちゃんは学院戦のためにやってんだろうけどよ」
「う、学院戦…… やりたい……」
「そんなにかよ」
呆れ気味のヨハンの呟きに返す言葉もない。
でもシェリエルにだって楽しみのひとつくらい必要なのだ。
せっかく剣術の訓練だってしているし、命を賭けずに平和に戦えるなら戦いたい。
皆んなと一緒に戦って、勝って、素直に喜びを分かち合う青春は実戦では出来ないことだった。
実戦だと必ず誰かが命を落とすのだから。
「二週で終息させるわ。あと十日…… それまで貴族にまで広まらなければ学院も警戒を解くでしょう」
「本気じゃねぇか……」
珍しくやる気を出したシェリエルにリヒトが来訪を告げる。
「シェリエル様、ガーランドの皆様が入室をご希望です」
「いいわ、通して」
ズカズカとやってきた元迷子係三人衆。城に入る前に洗浄と消毒はされていたはずだが、なぜか更に派手な衣装に着替えている。
入り口付近に記された線まで来ると、「ここでお話しください」とリヒトが制止した。
「どうされました?」
「ガーランドの貴族二十四名が投資を決めたぞ! 少なくとも大金貨単位で投資すると約束させた」
「キャア! 素晴らしいです! こんな短時間で!」
「これから夜会を開いて他の貴族にも呼びかけるつもりだ。金のことは心配要らない、ほかになにか出来ることがあるだろうか」
急に目の前の三人が輝いて見えてきた。
魔導具の筐体は平民の領分であるし、魔力だって魔鉱石を使えば人手を必要としない。
それだけの資金があれば人手不足を解決できるのである。
「ありがとうございます。では、ガーランドの職人に魔導具の筐体作りをお任せしても? 商業の盛んなガーランドであればベリアルドよりも職人は多いはずですし」
「よかろう!」
「賃金はきちんと支払ってくださいね。より良い食事をとることで病に負けない強い身体を作ることができます」
「なるほど、たしかに一理ある!」
「それと、公衆衛生の整備を急いでください」
「公衆衛生? ……薬を開発するのではないのか?」
三人は同じように首を傾げて、思っていたのと違う、みたいな顔をした。
シェリエルにはまだやることが残っているのでそこらへんの説明はモーゼスに任せようと目で合図する。
モーゼスは手洗い、うがい、身を清め消毒することで病の元である病原を払うことができると話す。
浴場は無理でも汚水、汚物の処理の仕方を教えるように、とも。
穢れの概念しかなかった貴族たちも神殿での体験で思うところがあったのか、真剣に聞き入っていた。
「ふむ、ではそちらもフェルミン様に進言してこよう」
「フェルミン様はいまなにをしていらっしゃるのですか?」
「アルバラ殿やアリシア嬢と領地としての制度を話し合っておられるよ」
「なるほどです! シェリエル様、私も同行してフェルミン様に治験や進捗についてお伝えしてこようと思います!」
「助かるわ、モーゼス」
シェリエルは兄や師に対し報連相が足りないと常々思っているが、その実、自身も他人への報告は遅れがちである。
三人とも個人で解決できることが多いので、他人と連携するという意識が薄いのだ。
モーゼスはそんなシェリエルの悪癖を理解し、どの段階で誰に何を伝えるべきか考え、しっかり主を補っていた。
シェリエルは「補佐官らしくなって……」と、モーゼスの成長ぶりを嬉しく思った。
なお、自身の悪癖には気付いていないので治すという考えには至っていない。
ガヤガヤと賑わった会議室が再び落ち着きを取り戻すと、先ほどまで思案していた賢者アウグストがヨハンに張り付いて新しく分かった病の分類について聞いていた。
「ほうほう、これは面白い。穢れにより人体を変質させるとは!」
唇をわなわなさせるだけのヨハンに代わり、シェリエルがズイと割り込んだ。
「穢れにより強制的に癌化が進むような病もありました。これらは外科手術により治療が可能でしょう」
「外科手術?」
「身体を開いて臓器の一部を切除するのです。病による癌化は臓器が決まっているようですし、確証が持てれば切除も選択肢のひとつかと」
「ほほほ、やはり其方は面白いことをするの! 身体を開いて臓腑を切るか。実に不謹慎!」
「えぇ……」
褒められているのかいないのか。
気を取り直してまずは細菌性と見られる土壁病で試してみることにした。似たような症状で魚鱗病という病があるが、魚鱗病が硬質な魚の鱗のように皮膚が変化するのに対して、土壁病はボロボロと崩れやすい乾燥した皮膚になる。
これは治癒をかけると一気に乾燥して砂のように崩れてしまうので、治癒厳禁の病とされている。
「術式で魔力から治癒の加護を一切抜かねばならんな。あとは…… 病原を殺したあとどうするか」
「錬金術で生物を殺すこともできるのですか」
「分解後に再構築しなければ良い。問題はそれが人体にどう影響するかだ。再構築して排出させる方が安全かもしれんの」
「血液だけで試せますか?」
「うむ。再構築する際に尿や便、汗と似たものに変えてやれば勝手に排出されるだろう。これは安全性は高いがそれなりに治験が必要になる」
「患者はたくさんいるので症例の心配は無いかと」
「そうじゃの! 腕が鳴るわい!」
賢者が張り切って腕まくりするので、シェリエルはそれを静かに元に戻した。病原に汚染された血液を扱うというのに危機感が無さすぎる。
しかし、さすが賢者様。
しばし空間を見つめて黙したかと思うと、つらつらと呪文を唱えながら空間にいくつもの陣を浮かび上がらせた。
それから短杖をタクトのように振ってそれぞれの陣を動かし、式を分解して組み合わせてを繰り返していく。
「わ! これ、ユリウス先生が教えてくれたやつ!」
「ほう、あの王子が。陛下が塔から論文を持ち出しておったか」
「な、なるほど…… それで……」
幼児に賢者の論文を与えるとは少々英才教育が過ぎるのではないだろうか。あの論文ヲタクはそうやって出来上がったのか、と小さなユリウスを思い浮かべて苦く笑う。
そんな調子でアウグストは簡単な受け答えをしながらも、発光する文字列をウネウネと動かし続けていた。
シェリエルはそれを夢中になって読んでいたが、専門的な関数はまったく分からなかった。
シェリエルにとって魔術式はプログラミングである。言語として構築する魔術式は解けても、物理の公式のような錬金術式はまた別物なのだ。
「よし、できたかの」
「は、早い!」
「ホホホ、これが賢者よ」
高笑いするアウグストであったが、額にはびっしょりと汗をかいていた。クタ、と椅子に腰掛けると「あとは任せた」と言って陣を維持したままヨハンの前に持っていく。
「嘘だろ、俺がやんのかよ……」
シェリエルはアウグストが組んだ錬金術式を完璧に写し取って、それを紙に転写する。
その間にヨハンは陣に血液を垂らし、器で受けた血液を再度比較用の陣で検証した。
「どう? 変化した?」
「変化はしてる。が、これが人体に影響ないかと排出されるかはまだしばらく検証が必要だな」
「ではそれをヨハンにお願いするわ。賢者様には次の病原があるもの」
「……おい、この量を今日一日でやらせる気か?」
「まさか。二日よ」
「ヒッ……」
小さく息を飲む音がふたつ。
汗だくのアウグストは椅子で顔を真っ青にしていた。
「……シェリエル、塔からもう二、三人連れて来てもよいかの?」
「警護が間に合いませんから、騎士団長にお願いする必要がありますね」
「騎士団には及ばん、ダリアを呼ぼう」
「ではわたくしの方で手配しておきましょう」
それもいつの間にか戻って来ていたモーゼスに投げる。
モーゼスはコクコク頷いて魔導具から伝令を飛ばしたかと思うと、今度は申し訳なさそうに「シェリエル様……」と目を泳がせた。
「どうしたの? なにか問題でも?」
「そのぉ…… そろそろお時間です」
「あっ……」
さすがに賢者まで呼び出しておいて「授業が終わるので帰ります」とも言えない。
「居残りね。夕食の時間までやって行くとアルバラ先生に伝えてくれる?」
「ハイ!」
モーゼスはなにが嬉しいのかピカピカ笑顔で出て行った。
サラは自分の魔導具で学院に連絡を入れ、モーゼスを送り出したリヒトは扉の向こうで「了解」と言うように軽く頷く。
出来た側近たちである。
余計なことに気を回さずともやりたいことに熱中できるのは彼らのおかげだ。
シェリエルは「終わったらボーナス出さなきゃ」と思いながら組み込み用魔術式の構築に入った。
◆
一方、ボス不在の神殿では。
「アンタたち、子ども部屋に行くよ」
「こどもべや!」
ガーランド迷子係三人衆が去った後、女は休憩がてらヘジとメメを連れて神殿の官舎へと向かっていた。
疲労はあるが、ゴミ溜めみたいなスラム街で残飯を漁っていた日々を思うと幸せの証にさえ思える。
貴族のお医者様に怒鳴られることはあっても、そのあときちんと何がいけなかったのか教えてくれるし。
寝床は清潔で、ベリアルドでは浴場もタダ。
おまけに朝夜しっかりした食事が出てくるうえに、大鍋で煮込まれたシチューには鶏肉だってゴロゴロ入っている。
しかも、なんと給金が出ているらしい。
衣食住面倒見てもらって、さらにお金まで貰えるなんて。
たまに、自分はあの湿った路地裏で一度死んで生まれ変わったのではないかと思うくらいの変わりようだ。
両手に繋いだヘジとメメは目に入るどれもが珍しいのか、あっちへこっちへと好き勝手進路を切っている。
「ね、ね! あっち、なに!」
「また今度! いっぱいおともだちが待ってるよ、まっすぐ歩きな」
「そんなに?」
「五人くらい」
「ぜんぜんじゃん」
「アー、おにんぎょ、おにんぎょ!」
「大祭司様の像だよ」
方々に両手を引っ張られながらも女は真っ直ぐに廊下を歩いていた。
病室として使っている部屋をいくつか通りすぎ、だんだん人の気配が消えてきたころ。
「だれもいないねー、あっちはいっぱいいたのに」
「キャッ!」
「ァだッ!」
遠くの喧騒を振り返りながら歩いていたヘジが別の方向からやってきた誰かとぶつかり、衝撃のままに尻もちをついた。
女は右腕をグイと下に引っ張られながら、アラ? と相手の女を見る。
髪は薄茶に近い蜂蜜色だが平民よりも格段に明るく、身なりからも貴族のお嬢さんであることは間違いない。
「え、すい、失礼致しました! お怪我はありませんか!」
「わたしは大丈夫です。ごめんね、坊や。大丈夫?」
「うん、だいじょぶ」
彼女は優しげに微笑んでヘジに華奢な綺麗な手を差し出した。水仕事なんてしたことなさそうな白くて柔らかそうな指先はヘジの手をしっかり握って引き起こす。
「あの、お嬢様はどちらに……」
「わたし、学院から慈善活動のために来たんです。でも、みんな忙しそうで…… 庭の天幕を見て回っていたらこんなところに出てしまったの」
なるほど、彼女も迷子らしい。
貴族の学院がどういうものか想像が付かないが、昨日も大勢がやって来たので今日はこの方が当番かなにかなのだろう。
疲れでフラフラする頭でそんなことを考えていると、ヘジが反対の手を彼女と繋いだままポカンと口をあけて彼女を見ていた。
「シェリエルさまのおともだち?」
「そうよ、シェリエルさまのお手伝いに来たの」
「わぁ!」
「そうでしたか。その…… ええと、なにを……」
「なんでもするわ! わたしにできることはある?」
貧民の自分に彼女になにが出来るかなんて知るわけもない。ただ、傷ひとつ無いキレイな手を見れば洗濯や看病ができないことだけは分かる。
「では…… 子どもたちをお願いしてもよろしいでしょうか」
「そんなことで良いの?」
「はい、大変ありがたいです。看護師の手も空きますし、この子たちの他にも親に連れられてきた子どもたちがいて」
「そうなのね! 分かったわ、任せて!」
彼女は自分の出自なんて知らないのかもしれない。でも、平民であることは頭巾から出た髪色で分かるだろう。
それに、小汚い平民の子とだって躊躇なく手を繋いでくれた。
女はいたく感動して、彼女に子どもたちを任せることにした。
「では案内します」
「ありがとう。わたし、がんばるわ」
ニコッと笑った彼女は野花が揺れるような愛らしさだった。
高貴な生まれでもこんなに気さくに接してくれる人がいるのか……
シェリエル様やアリシア様、昨日牢に入れられた貴族たちもまた違う親しみやすさで胸が温かくなる。
それは子どもたちにも伝わったらしい。
メメはお姫様みたいなお姉さんに照れているのか、口をモニョモニョさせながら彼女の方をチラチラと盗み見ている。
「あのね、あのね。ぼく、ヘジだよ」
「ヘジね、覚えたわ。よろしくね」
「でね、あっちがメメ」
「メメちゃんはまだ恥ずかしいかな?」
「んーん」
首を振るメメに彼女はクスクス笑って言った。
「マリアよ。お姉さんのことはマリアって呼んでね」
「マリア!」
「まいあ!」
女は「マリア様でしょう!」と叱りつけたが、彼女は「いいの、子どもだし」と言いながら無邪気に笑っていた。
無事に案内を終えた女は一応報告しておこうとヨハンを探す。
「あれ、ヨハン様は?」
「ボスならいま馬で出てったよ。メアリ様も一緒にね」
「そりゃ、一大事だね。なにかあったのかい?」
「それがね、賢者様がいらっしゃったみたいだよ。こりゃあえらいことになったもんだね」
「なんだって、賢者様が⁉︎」
思いがけない話に、女はいま報告しようと思っていたことをすっかり忘れてしまったのだった。





