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眠れる森の悪魔  作者: 鹿条シキ
第九章 最厄期

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28.グレースの選択


 それは別れの儀式にしては少々華やか過ぎる祭壇であった。

 芝生から少し浮いて発光する美しい魔法陣。

 涼やかな風に子どもたちのワクワクした顔。

 花々が彩りを添え、グレースの複雑な心境を突き放してどこまで明るく賑わっている。


 グレースにとってこの二十年はあっさり手放せるほど軽いものではなかった。少し前まで、あの空虚な城での生活が自分の人生だと思っていたのだから。

 ついその気になって離縁を決断してしまったけれど、本当によかったのか。

 胸の内をくすぐるような、自分がまるっきり違う人間になってしまうような心地がして、ぼうっと儀式の準備を眺めている。

 まだ若い祭司が急拵えの魔法陣を確かめ、「な、何ですかこれは……」と目を丸めていたり、子どもたちがそれを取り囲んでワーワーと驚きの声を上げて覗き込んでいたり。

 賑やかで、和やかで。

 そのせいか、ふと過ぎったのはこの生活の始まりの日だった。——卒業と同時に結んだ婚姻の儀。

 それで、「そうよね、不安で当然だわ」と、騒めく胸にそっと両手を重ねて慰める。

 知らないものは怖い。新しいものは怖い。

 あのときだって、これ以上ないくらい幸せな気持ちだったのにやっぱり不安だった。

 あの日、二十年過ごしたベリー家から離れ。

 今日、二十年過ごしたガーランド家から離れる。

 積み重ねて来た日々は満点とは言えない。

 けれど。きっと。次の二十年はこれまでの何倍も素晴らしい日々になるだろう。

 

「だって、わたし…… 今までで一番、自分のことを愛せているのだもの」


 そうやって小さく言葉にしてみると、あたたかな安心に包まれる心地がした。


「お母様、ありがとう」


 イザベラの手がグレースの腕に添えられる。離縁にお礼を言われるなんて、とぎこちなく笑ってイザベラの手に自身の手を重ねた。

 触れた手には家族の温度があった。

 グレースにはこの先もイザベラと、それにフェルミンがいる。上等の人生だ。



「ではコンラッド様、グレース様。離縁の儀を執り行いたいと思います」


 イザベラに付き添われ、陣の真ん中まで歩みを進める。

 長くて短い夫婦生活。

 足を引き摺るように向こうからやって来る元夫の姿はもう知らない人に見えた。


「——我、命の加護賜いしマティア・ポートマン」


 三人で陣の中央に立ち、朗々と響くマティアの声が魔力を揺らす。

 祭司マティアの祝詞はユリウスとシェリエルが描いた魔法陣によく反応した。

 本来、魔法陣は魔力を含んだインクで描かれる。薬草や染料といったものを媒体として、この世界に魔力を留めるのだ。

 しかし、祝詞で陣を発現する魔法があるならば、純粋な魔力を固定することも可能だということ。その仮説により、ユリウスとシェリエルは内にある陣を世界に顕在させることに成功した。

 と、そのように説明されたが、グレースにはよく分からなかった。それ以外にもこの離縁にはよく分からないことが多いのであまり気に留めていない。

 そしてマティアの祝詞が終わる時。


「道分かつ二人なれど栄えしめ給へと——」


 サァー、と魔力の波が三人の足元から天へと駆け抜ける。自分のなかで何かがカチ、と組み変わった心地がした。それはイザベラも同じらしい。ふたりで見合わせて、新たな人生を受け入れる。


「これでおふたりは神々のもと他人となられました。神々は寛容です。かつての誓いに変化があることも自然のこととご理解くださるでしょう。これからの皆様に幸多からんことを」


 両腕を重ねて頭を下げるマティアに向かい、しっかり芯の通った背筋を傾けて感謝の意を示した。コンラッドはいまだ項垂れ、ブツブツとうわごとを溢している。


「さてさて! お二人の門出を祝してパァーっとやりますか! あ、コンラッド卿はそれどころではないかな? アハハ、まあいいや」

「あのディディエ様、彼は……」

「ああ、お気になさらず。もう他人なのですし」


 その時。どこからともなく艶のある低い声がディディエの言葉を遮った。


「何がお気になさらずだ」

「あ、お、お爺様……」


 あの、今まで愉快に場を支配していたディディエが声の主を見てサッと顔色を変える。

 グレースは「彼にも怖いものがあるのね」と、さっきまで頭にあったさまざまな疑問を胸にしまった。



 グレースと同じく、それを他人事のように見ている少女がひとり。

 今日、主役を張るはずであったシェリエルである。祖父ヘルメスに兄ディディエがシンシンと叱られる様子を「やっぱりダメよね」という顔でウンウン頷きながら眺めていた。


「もちろんアレは自分でなんとかするのだろうな?」

「あ、いえ…… お爺様がお使いになるかなと……」

「大領地の領主をか? すでに祭司様や他のご婦人方が一部始終を見届けた検体をか? そのような人間に何ができると? ディディエ…… こちらを見なさい」


 うろうろ地面を這っていたディディエの視線がチラッとヘルメスを見上げて、またすぐにヒュンとどこかに飛ぶ。

 普段なら「僕の目を見て、嘘を言ってるように見える?」などと言って退けるのだが、この時ばかりは頑としてヘルメスの目を見ようとしない。

 ディディエにとって唯一擬態が効かない祖父はマルゴットより厄介なのだ。


「あ、えっと…… そのぉ…… ご面倒なら処分していただいても良いのですが」

「これだけの者が見ていた人間をか? はぁ…… お前は本当に。目的のための計画は完璧に立てるのに、その後誰かに任せると決めたらそこからの配慮がまったくない。補佐官相手ならまだしも、私まで都合の良い掃除夫とでも思っているのだろう。だから身内にすら思い遣りがないとされるのだ」

「いえ、掃除夫だなんて…… そんなこと思うわけ無いじゃないですか。ただちょっと、頼りにしていると言うか……」

「学生を攫うのとは訳が違うのだぞ。あのときも私が保護者を黙らせるのにどれほど苦労したか」

「うっ……」


 ヘルメスは一切声を荒げることなく、淡々と数式を説明するみたいにディディエに言い聞かせた。

 散々偉そうにはしゃぎまわっていた男が皆の前でチクチク責められるのは、なかなかに辛いものがある。

 ディディエだってそれが分かっているからさっきコンラッドをそうやって虐めたのだ。きっと今ごろその効果を自身の身でよくよく実感していることだろう。

 

 というように、シェリエルは久々の無責任を謳歌しながら、慌てふためくディディエを余裕の笑みで眺めるのであった。

 兄のネチネチといやらしい虐めを傍観していたのもコンラッドに恨みがあってのことではない。「魔物になったら困るな」とは思っていたし、それ以前に「やり方が最悪……」とも思っていた。

 けれど今日だけは無責任な妹でいられたので何も言わなかった。


 だって、今日はお誕生日だから。

 だって、今日はお爺様がいるから。


 普段は「これはセーフ? アウトかしら?」と兄の愉悦を感知してはコチコチ倫理と擦り合わせているのだが、祖父がいるのだからそんなことを考える必要は無いと。

 ダメならヘルメスが止めるか叱るだろうと思って……

 しかしである。


「は、いえ…… でも。聞いてください! 僕はシェリエルの我儘を聞いただけで…… あ、いや。その、ユリウスが…… そう! ユリウスが殺したくないと言うので! 仕方なかったんですよ、グレース様には離縁してもらわないといけなかったですし。それはお爺様もご存知でしょう?」

 

 この兄、すぐに身内を売るのである。

 シェリエルはふと横にあるはずの気配が無いことに気づいてキョロキョロあたりを見回した。

 パッと目に留まったのは影を濃くした大きな桜もどきの魔木だ。ユリウスはシェリエルの育てた魔木からちょこんと顔を半分だけ出して影に徹していた。あれで一応隠れているつもりらしいし、完全に転移してしまわないのはあとでディディエに詰られるのが面倒なのだろう。

 なにをしているのかしら? なんて考えていたシェリエルに危機察知能力が欠如しているのは言うまでもない。このとき、正しいのはユリウスだったのだ。


「シェリエル。お前もお前だ、もう少しやり方を考えてだな……」

「わ、わたしですか! わたしは最悪だなと思っていました」

「ならばディディエを止めないか」

「え、でも、お兄様が任せろって! わたしに止められるわけがありません!」

「ほう? 元老院にはしっかり管理できると示したのだろう?」

「それは…… 時と場合によると言いますか…… だいたいなぜ兄の面倒を妹のわたしがみなければいけないのですか。おかしいです、わたしだって自由にのびのび暮らしたいのに……」

「は? 僕がいつお前に面倒見てもらったよ。シェリエルがのびのび好きなことできるように僕が手を尽くしてるんだけど?」

「はぁ? お兄様、それ本気で言ってます?」

「なに、文句あるわけ?」

「なんです、やりますか?」

「ふたりともやめないか。いまは責任の所在を問うているのではない」

「ではなぜお怒りに?」


 こんな時だけ兄妹の声が揃う。

 ヘルメスは本当に分からないのか? と言いたげにさらに眉間を厳しくした。


「この後の茶会はどうするつもりだ? 私は花を降らせて終わりか? 皆がシェリエルを囲んでいる間、私だけ穢れを溜めた者と会話し続けるのか? シェリエルだけは私を慕ってくれていると思っていたのに…… はぁ……」

「ぅ、ちが、お爺様大好きです……」


 ちょっとだけヘルメスは口元を緩めたがまだ厳しい皺を刻んでいる。

 ディディエは自分さえ良ければそれで良いので当たり前みたいな顔でキョトンとしていた。

 なので、シェリエルは理不尽なお叱りに困ってしまう。

 悪いのは全部お兄様とユリウス先生なのに。今日は誕生日だし、そんなに怒るならお爺様が止めればよかったじゃない……

 と、思いはしたが、それを口に出すのはやめた。

 ヘルメスの後ろでオロオロと涙目になっている男の子を見て、いままで祖父がなにをしていたか思い出したからだ。


「あの、ヘルメス様……」

「ああ、フェルミン。すまないな、うちの孫たちが君のお父君を虐めていたんだ。恨むならこの子たちを恨みなさい」

「……え、父上を? な、えと…… 虐めて?」


 フェルミンが困惑するのも当然のことである。

 彼は朝ガーランドの祖父母宅からイザベラに連れ出され、ヘルメスの待つこのサロンへと連れて来られた。

 そして、心の準備がてらこれからのことを聞かされた。

 今日両親が離縁するとか、父親とはこのまま離れて暮らすことになるだろうとか。

 それで、ヘルメスが花を降らせに行くというので「なんだろう?」と思いながら留守番をして、そのあと姉と一緒に戻ってきたヘルメスとまた話をした。

 今度はもう少し突っ込んだ話。ガーランド領についてどう思っているか聞かれたりとか、フェルミンが侯爵を継ぐことになるかもしれないと言われたり。

 何かあったのかな、と思っていればイザベラが出て行き、少ししてヘルメスが慌てて飛び出して行ったので気になってついて来た。そしたら父は廃人のようになっていて、ヘルメスが孫ふたりを叱り付けている。

 何がなんだか分からなくてオロオロしてしまうのも無理はない。


 ヘルメスはベリアルドの呪い持ちとしては人格者として知られているが、それは執着の特性によるものなので性根の部分は他と大して変わらない。

 故に、先のフェルミンへの発言も気が紛れるだろうと思ってのベリアルドジョークだった。

 フェルミンは「無垢な子どもがどれだけ心を鍛えられるか」の検体であったので、ここで穢れを溜めてしまうと意味がないのだ。

 孫ふたりは「笑ってはいけないのに……」と内頬を噛みながらプルプル肩を震わせているが、周りは大人も子どもも「うわぁ……」という顔で固まっている。

  

「……? おや、セルジオなら嘔吐するくらい笑うのだが…… 年寄りのジョークは通じなかったか」

「ん、フフ…… お爺様、ッ、ちょっと」

「お前が笑うところではないが? 反省しているのか?」

「ひどい、こんなの笑うに決まっているじゃないですか、ね? シェリエル」

「ちょ、ッフフ、わたしに振らないでください。もう……」


 少し空気が緩んだことで(緩んだのはベリアルド三人だけで他は凍り付いているが)、魔木の影からユリウスが出てきた。

 ヘルメスはユリウスに向き直ると眉間の皺を解いて目尻の皺を柔らかくする。


「ユリウス、あれは魔物にするか?」

「いや、ある程度まで安定させてほしい」

「ある程度、ね。はぁ…… いつになったら帰れるのやら」

「手間なら王宮に入れておいて陛下と並べて世話すれば良い」

「それはどちらも余計に穢れを溜めるだろう」

「ハハ、楽しいね」

「それは結構」


 シェリエルはその会話を不思議に思いながらも、ヘルメスの怒りが収まったらしいとホッと息を吐いてディディエとふたりでそろそろと移動した。

 イザベラの陰に隠れて自分の存在を消す。


「なにをやってるの?」

「コンラッド様の処遇が決まるまでわたしは居ないことにしてください」

「無理があるでしょう…… それより、お父様は大丈夫なのかしら。さすがに、アレは……」


 イザベラはマティアに背中をさすられながら虚な瞳で下を向く父親を視線で指して、微かに瞳を揺らす。

 コンラッドのすぐ近くではリヒトが剣に手をかけて「魔物になったら切る」という顔で待機していた。当然、マティアは涙目で懸命に祈りを捧げている。


「気になりますか?」

「そりゃあ、ねぇ…… 誰だってそうでしょう?」

「まあ、たぶん、酷いことにはなりますが大丈夫だと思いますよ」

「どこが大丈夫なの?」

「法的に?」

「そうよね、ベリアルドの手を取るってそういうことだものね」

「……? ああ! 寓話的だと思っていたのですけど、アレは認識の齟齬だったのですね」

「貴女の家門の非常識のせいよ。……ハァ、そうだわ、フェルミンを紹介するわね。今日は貴女の誕生日だと言って連れて来たの」


 イザベラはオロオロしながらヘルメスにくっついてるフェルミンを呼び寄せる。パッと安心したように顔を明るくしたフェルミンが、しっかりとした足取りでシェリエルたちの元へとやってきた。


「お初にお目にかかります。フェルミン・ガーランドと申します」

「お会いできて光栄です。フェルミン様」


 両親の離縁が済んだことも、父親の異常も分かっているだろうフェルミンはそれでもハキハキと挨拶をして貴族らしい笑みを浮かべていた。


「シェリエル様、本日は…… ご生誕記念のお祝いを申し上げます。母と姉から話を聞かされていたので、お会いできるのを楽しみにしておりました」

「ありがとうございます……」


 さすがのシェリエルもこの状況でお祝いを言われるのは変な気分だった。

 モーゼスより頭ひとつ分くらい背は高く、人懐っこい笑みだが落ち着きがある。柔らかく聡明な瞳はグレース似なのだろう。

 そのフェルミンは一度イザベラを見てからキュッと眉を寄せた。


「あの…… シェリエル様は、姉の…… 姉と、姉妹の契りを交わされたとか」

「はい。ええ…… お世話になっております」

「……」

「……?」


 微妙な沈黙。

 父親を廃人にした男の妹と義姉弟になるのが嫌なのだろうか、とシェリエルにしては真っ当な察しが降って来た。

 そりゃそうよね、と。


「フェル?」

「あ、すみません。あの、なんでも無いのです! あ、えと…… 姉様、あ。姉上、は、その」


 今度はイザベラが疑問符を浮かべて、急にドモドモしはじめたフェルミンをジッと見ていた。

 フェルミンはキュッと顔を真っ赤にして涙目でシェリエルを見つめる。

 それぞれの視線が三角を描いたところに。


「あー、君かぁ、イザベラ君の弟君。へえ〜」

「あ、わ…… ディディエ様」


 隠れ場所を探していたディディエであった。

 フェルミンは反射的にイザベラの後ろに隠れそうになり、寸前でそれを堪えて貴族の挨拶をする。

 シェリエルは「父を廃人にした張本人に対しても礼儀を忘れない良い子だな」と思った。

 もちろん、フェルミンは何があったのか知らないだけである。


「お兄様、フェルミン様を虐めたらさすがにお爺様が許しませんよ」

「分かってるよ、僕だって何も考えて無いわけじゃないんだから」


 フェルミンはふたりの会話を目の前にして、ギリギリ涙を堪えて「い、いじめる?」と子どもみたいに聞く。

 それにディディエはグッと顔を覗き込むように腰を折って「どうしようかな〜」とにっこり笑うので、シェリエルは思わず「お爺様ぁーーッ!」と祖父を呼んだ。


「おい、やめろ、冗談に決まってるだろ!」

「ディディエ様、ヘルメス様がお呼びです」


 スッと背後に現れたアロンに、ディディエは「あー……」と瞳を上に向けてトボトボ歩いていった。


「ヘルメス様って凄いのね…… 印を交換させていただきたいわ」

「ふふ、お爺様は凄いのです。ですが基本的には面倒を嫌うので無視されると思いますよ……」

「放置すればより面倒なことになるとお知らせすれば良いのでしょう?」

「わぁ、さすがお姉様」

「……姉上」


 モジモジふたりを見上げるフェルミン。シェリエルもイザベラも「?」と視線を合わせて微かに首を傾げた。


「僭越ながら……」


 後ろに控えていたアロンがコソッとふたりに耳打ちする。


「フェルミン様はシェリエル様に嫉妬されているのかと。イザベラ様を取られたように思われたのではないでしょうか」

「あら……」

「まぁ……」


 フェルミンは首まで真っ赤にしてワッ!と両手で顔を覆った。

 フェルミンからすれば、父ももちろん心配だがやっと話せるようになったイザベラがまた自分から興味を失くすのではと不安だったのだ。


「フェルミン様はイザベラ様が大好きなのですね」

「うぅ……」

「フェル? 本当にさっきの話、分かっているの?」

「え、ええ…… 大変なことになってしまった、と」

「分かってるのかしら……」

「そう言えば、爵位はどうなるのですかね。あの様子では領地の運営は厳しいでしょうし」

「え、考えていなかったの?」

「フェルミン様が継ぐようには手配していますが、時期はまだ。こんなことになるとは思っていなかったので、空白の期間が出来てしまうなと」

「……それを分かっていてディディエ様を放置したのね?」

「え、それは……」


 シェリエルが気まずく思っていると、顔色を悪くしたグレースがふらつきながらやってきて、支えを求めるようにイザベラの肩に手を置いた。


「シェ、リエル様? その話…… フェルミンはガーランドを離れるのでは…… 無かったのですか」

「あ……」


 グレースの声は震えていた。夫が離縁に合意したと聞いて、条件をすべて飲んだと思っていたのだろう。

 ディルクは遠くで涼しい顔をしているし、アロンもモーゼスも何食わぬ顔で控えている。

 イザベラだけが悲痛に眉を寄せて「あのね、お母様。聞いてちょうだい」とグレースの背を撫でていた。


『ベリアルドに助力を乞えば勝てる。だが、自分たちが望んだ結果になるとは限らない』


 それはオラステリアで古くから知られる言葉である。


「お母様、フェルミンは……」

「グレース様、離縁の儀にフェルミン様が参加されなかったので、ガーランドに籍を置いたままになっています」

「そ、それは…… そんな」

「母上と、姉上はもう家族では無くなってしまったのですか?」

「フェルミン…… ああ、なんてこと…… わたくしったら、なんてことを……」


 グレースはつゆつゆ涙を流してフェルミンを抱きしめる。

 フェルミンは何かを察したのか、そっと母の背中に腕を回した。


「母上、私は大丈夫です。何か事情があったのですよね」

「でも貴方をひとりガーランドに残して行くなんて」

「母上」


 フェルミンはグッと両腕で母の身体を押して、強く、柔らかく微笑んだ。


「フェル……」

「先ほど、ヘルメス様からお話を伺いました。私は貴族の、ガーランド家の責任を全うしたいと思います」

「……でも」


 フェルミンは母を安心させるように笑って、優しく手を握る。

 彼はこの日、少しだけ大人になろうとしていた。


※「インを交換する」=「連絡先を交換する」

この場合の印は文通の魔導具に発行している個人の印アドレスです。

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『眠れる森の悪魔』1〜2巻


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