27.コンラッドの現実
『お前、穢れを溜めてるんだよ』
瞬間、コンラッドの内でとぐろを巻いていた不快なナニカが頭をもたげて牙を剥く。“ここに居るぞ”と主張するように、重たく暗い感情が暴れ出した。
穢れは自覚することで更に穢れを呼び込む。
ディディエはこの色鮮やかな午後の庭で、白昼堂々禁忌を犯そうとコキコキ首を鳴らした。
「お前が人に笑われていると感じたのは被害妄想だ。猜疑心が膨らんで、周りがみんな敵に思える。そう思ってしまったら何も信じられない。お前の味方であるはずの補佐官……、彼らのことも信用できなかっただろ? じゃあ誰を信じる? 誰もいない、お前に安心をくれる人はこの世界に誰もいなかった。そうするとさらに穢れは穢れを呼ぶ。お前は種を持っていた。光を当てずに奥底で眠らせていた。……知らないうちにずいぶん溜め込んだものだね。僕にも見えるよ、お前の罪悪感」
「私は、罪悪感など…… 悪いことは、していない……」
「そうかな? ま、民から搾り上げて私腹を肥やすことには罪悪感はないだろうね、そういう環境で育ったんだから。グレース様に対しても“当然の扱いだ”と、思っている。政治的な工作も、お前の持つ野心も、どれも罪悪感には結びつかない。それはお前の正義だから。——では何か」
「……」
「あの日、ユリウスの姿を見て思い出したんじゃない? お前が穢れに堕とした、お前が唯一愛した人を」
……もう嫌だ。聞きたくない。思い出したくない。それ以上、言わないでくれ。と、何度も心のなかで繰り返す。
「ディルク、アレ出して」
「……この場に、ですか? それは」
「いいから。いいよね、ユリウス」
「ああ、私も見てみたい」
渋々というようにディルクが空を裂いて箱を取り出した。ディディエはその箱を開けて、一枚の絵をコンラッドに見せる。
「なぜ、それが、ここに」
「今朝回収させたんだ。お前が城を出た後だよ」
王妃オフィーリアの肖像。
コンラッドが画家に描かせたお気に入りの姿絵であった。
「ユリウスは母親似か、面影がある。美しい人だね」
「おや、私の容姿を誉めるとは珍しい」
「お前じゃないよ、お前の母親を褒めてるんだよ」
「同じことじゃないのか? ん、でも私が知る母より少し若いね。学生の頃の絵かな」
「や、やめてくれ……」
「じゃあ、お前の愛人の話でもする? ちなみに、グレース様は相手を知らないけど。ここで言ってもいい?」
カヒュッ、と潰れた息で心臓が止まりかける。もう、最悪な気分だった。秘めた恋心を暴かれるどころか、閉じた罪悪感を掘り起こされ、大罪の糾弾にまで発展しようとしている。
夢だと思いたかったし、これが現実だなんて信じたくなかった。こんなことあって良いはずがない。
けれども悪魔に人の道理は通じないので、無慈悲な笑い声がコンラッドの脳味噌をぐちゃぐちゃにするのである。
「アハハ、待って待って! これさぁ…… “オフィーリア、君の頬に触れられたらどんな心地がするだろう。届かないと思うほどにこの胸は焦がれて身を焼き尽くしてしまいそうだ。心臓を捧げよというのならば喜んで差し出そう。ここにあっても君を思ってこの心臓は——”」
「こらこら、親宛ての恋文を子の前で朗読するな。さすがに気持ちが悪い」
「ア、ごめん。でもちょっと読んでみなよ。わりとロマンチスト。まとめて詩集にしよう。印刷事業、僕がやろうかな」
「ハハハ、本当だ。でもここ、言い回しがくどいね。もう少し簡潔にした方が良いと思う。読むのが億劫だ」
若かりし頃に書いて、結局出せずにいた恋文を目の前で読み上げられる。
それを想い人の子が添削する。
嫌な汗が吹き出してガタガタと全身が震えていた。
軽快な笑い声がピタ、と止んだかと思うと、ディディエのシンと落ちるような切ない声がとどめを刺しにくる。
「こんなに想っていたのにね。お前のせいで、死んじゃった……」
「私のせいでは…… 私は関係ない」
「ハァ〜、そうやって自分を守って来たんだろうけどさぁ。嫌なことは忘れて? 綺麗な思い出だけひっそり愛でて? でも残念! ユリウスが現れた。僕たちが城に遊びに行くよりもっと前、ヴァルプルギスの夜。それから就任式典。お前、城でもユリウスを視界に入れないようにしていただろ? あれ、良くないよ。無意識下に押し込めると自分で処理できないからね。それで、少しずつ——」
一度開かれた罪悪の念は膨れに膨れてどうにもならなかった。
胸が苦しくてボロボロと涙が零れ落ちる。
最初は、若さゆえに燃え上がった嫉妬心だった。
それと、若さゆえに持て余した復讐心だった。
好きになった人が王太子の恋人だった。
もうどうやって恋をしたのかも覚えていない。あるのは強烈な愛憎だけ。いまこうして姿絵を見るまで彼女の笑った顔すら朧げだった。
でもたしかに愛していた。手に入らないと思えば思うほどその思いは強くなって、それを誤魔化すように権力を追い求めた。彼女を奪い去ったのがこの国で最上位に位置する王太子だったからかもしれない。
彼、アルフレッドに対抗心を燃やしては自分の方が勝っていると証明したかったのだろう。
貴族派の筆頭に立つため出来ることは何でもしたし、愛してもいない女と婚約までしたのに、人生を勝ち上がる手応えはあっても、どうしても心が慰められることはなかった。
彼女が王太子妃になったとき、コンラッドは彼女の幸せを滅茶苦茶にしてやりたいと思った。
王家になんて嫁がなければ良かったと、後悔させてやろうと。
自分に惚れ込んでいたはずのライアまでアルフレッドの妾になり、コンラッドのアルフレッドに対する恨みは自分でもどうすることもできないくらいに肥え太っていた。
それで、まだ自分に気があるらしいライアを利用しようと…… また関係を持った。
オフィーリアとアルフレッドは政略を含まない純粋な恋愛結婚であったので、妾としてライアを囲ったことには大層驚いたものだが、それでも利用できるならば好都合という具合に。
ライアが妾になったのも自分への当て付けと分かれば、利用されたアルフレッドを思って気分も良い。愛するまではいかないが、なかなかに可愛く思って報われない悲恋の慰めにしたのである。
そんなライアは出会った頃より、貴族らしくなっていた。
そうさせたのは自分だと分かっていながら、それもまた都合が良かった。
オフィーリアを追い落とそうとするライアに魔導具や人を与えて、好きなようにやらせた。自身の子を王族として育てる計画だって、その時に思いついたものだ。
それは王家に生まれただけでオフィーリアと結ばれたアルフレッドへの復讐心。
ライアがオフィーリアの子を始末したいと言い出したときには、この女も狂ってきたなと思っていたが、その子が悪魔であると聞いて涙が出るほど胸を痛めた。
あの美しく清廉なオフィーリアがアルフレッドと子を生したばかりに…… どんなに辛いことだろう。そんな子ども居ない方が良い、と。
悪魔は殺せないという。幽閉するしかない。オフィーリアから遠ざけるため……、そのためにまた人を与え、死人をどう処理するか教えてやった。
どんな犠牲も大義のため。本来幽閉されるはずの悪魔をあのアルフレッドが王宮に留めている。
どうやってアルフレッドに幽閉を決意させるか。
悪魔の証明はオフィーリアと国を救う正義なのだ、多少の犠牲は仕方のないことである。
しかし。それが間違いだった。
『もうすぐですよ。オフィーリア様は立ち直れないくらい、泣き暮れることになるでしょう』
ライアがそう言ってから少しして。
オフィーリアは死んだ。
実の子に穢され、魔に堕ちて死んだと言う。
魔物になったのか、その前に処分されたのかは分からない。あまりにも辛すぎてその時の記憶ははっきりしないが、王族のことなのでたぶん詳細は伝えられていなかったのだろう。
とにかく、それがライアの策であったことはすぐに分かった。彼女は自分と同じく、愛を憎しみに変えたのだ。復讐の相手は、オフィーリアと…… コンラッド自身。
取り返しの付かないことをしてしまった。
もう一生、オフィーリアは返ってこない。
自分のせいで、一番に愛した人を魂ごと消してしまった。
穢れに侵され救われることなく消滅した彼女の魂と、もう見ることのできない彼女の笑顔を思ったとき。
頭のなかでパチン、と何かが弾けて消えた。
それは正気とか、良心とか、愛だったのかもしれない。
不思議とオフィーリアに対する罪悪感は徐々に薄れていった。毎日彼女のことを考えたが、初めて会った頃の切ない恋心だけを反芻した。
ディディエの言った通り、切なく美しい記憶だけを自分の虚しい人生に毎日、毎日、刻み込んだのだ。
それが良かったらしい。顔も、たまに肖像画を引っ張り出さなければ思い出せないくらいだったが、コンラッドのなかのオフィーリアはそうやっていつも笑っていた。
けれど、自分のしたことを完全に消し去るなど到底無理な話である。
オフィーリアを殺した悪魔を憎み、そして恐れた。
無事幽閉されたというが、彼が解き放たれればどんなに恐ろしいことになるか……
毎夜夢に見た。悪魔が耳元で「その節はどうも」と囁く夢を。
まだ幼かったから、ライアのことには気付いても自分のことまでは分からないだろう。そう思ってないと気が狂いそうだった。
コンラッドに残ったのは、恐怖心と、野心と、復讐心だけだったのである。
それなのに。どうして……
ディディエはそのユリウスと一緒にやって来たのに、どうして彼らの意図に気付けなかったのか。
あんなに警戒していたのに。
なぜコンラッドはあれほど怖れ、悪夢にまで見るユリウスを前に平然としていられたのか。
答えはコンラッド自身にあった。
正気を保つために自身に言い聞かせた「ユリウスは気付いていない」がコンラッドのなかでは真実になっていたのだ。
自己暗示——コンラッドは自分で自分を洗脳した。
もう、とうの昔に正気を失っていたのである。
「その節はどうも」
頭のなかを覗き込んだみたいに、ユリウスは爽やかに言った。
震えが止まらず、もう胃はからっぽなのにドク、ドク、と吐き気が込み上げてくる。
「あ、回想終わった? で、どう? 思い出した? 罪悪感がどんな味か」
「そんな、つもりはなかったんだ……」
「お、懺悔が始まったぞ。祭司を呼べ! あ、呼んでたね。よかった……、……プッ、アッハ、アハハ!」
ディディエは一人で言って一人で笑って、あんまり笑いすぎて椅子から転げ落ちた。それをユリウスがよいせ、と椅子に戻してやって、「最悪な人間を見た」と言ってサラサラ一緒に笑った。
二人とシェリエル以外は何が起こっているのか分からない。コンラッドが穢れを指摘され、さらには王妃への恋心を暴かれて泣き出したと思っている。
まあ、だいたい合っているのだが。
「ちが、私は、ただ彼女を」
「あー……、大丈夫大丈夫。話さなくていーよ。べつにお前の事情を聞いたからってそれに同情できるわけでもないし。ベリアルドに情状酌量って概念無いんだよね。酌量出来るだけの共感力がないから、ンハハッ」
「は? ……や。じゃあ、なぜ……」
「自覚がない奴虐めてもつまんないでしょ。赤子に怒鳴り散らすようなものだ、虚しくなる。経緯には興味あるけどそれは勝手に調べたし」
ディディエは結構な厚さの紙束を取り出してバタバタともう片方の手に叩きつけながら、「心の揺れは自分で読み解くから面白いんだよね」と、ゆらゆら陽炎のように笑った。
なにもかもぶち撒けて楽になることすら許されない。心根を外から弄り回すだけで、その感情を肩代わりしてくれることも、寄り添い同調してくれることもない。
誰にも理解されないコンラッドの感情は、自分ひとりでどうにかするしかないのである。
しかしだ。もう手に負えない——
「お前はさ、自分に嘘を吐くことに慣れちゃったんだよ。だからいくつか条件が揃うと脳が都合の良いことを信じ込んでしまう。今回だってそう。自分の嘘が真に思えて、現実が曖昧になった。領主の仕事に影響が無かったのはどれも感情に直結するものでは無かったから。政治的判断は問題なかっただろ? でも穢れの種を抱えたままだった。だから少しでもそれを刺激されると知らないうちに飲まれてく。頭も心も恐怖でびしょびしょになって、種から芽が出ちゃった。アハハ、穢れって厄介だね」
どろどろと渦巻く穢れはコンラッドにも自覚できるまでになっていた。
都合の良い夢から覚めてしまった。
あるのは身を切るような辛い現実と穢れだけ。
おかしくなっていたのは自分だった。
彼らは自分を魔物に堕とす気なのだろう。
それでも良い。
もう終わりにしたい……
ディディエが何か言うたびにコンラッドから貴族の矜持も人としての尊厳も削ぎ落とされていった。彼の声音だとか、呼称だとか、言葉尻だとか、目が家畜を見るそれだとか、そうやって作られた空気がコンラッドの人格をすり潰していく。
家畜以下の外道。
愛する人を穢れに堕とした愚か者。
妻に、娘、他人の視線が痛い。
……死にたい。
「……殺して、くれ」
「おやおや、それは感心しないな」
「は……?」
「私がどうしてこれまで君たちを自由にさせていたと思う?」
ユリウスはニコニコと機嫌良さそうにコンラッドの顔を覗き込んだ。
「い、あ……」
「ハハ、ハハハ…… 良い顔だ。そうだ、そのまま、忘れないで。私と、母のことをずっと想っていてほしい」
「なぜだ、なぜ…… 私を、恨んでいないのか?」
「ん? どうだろうね…… あれは君たちの選択だ。その結果が相応であって欲しいとは思うよ。だが死を罰とするのはどうかと思う。たしかに死は辛く悲しく恐ろしい。では生が何より辛い人間は? 死は救いにならない? 善く生きた人間もいつか等しく罰を受けることに? 死を罰にするのは死んだ者に失礼だと思わないかい? ね、“死”の概念は個人の心持ちで変わってしまう。そんな不確かなものを君たちの結果にするのは少々面白みに欠けると思うんだ」
「……ユリウスさぁ、それしっかり恨んでるよね。逃す気無いじゃない」
「ハハ、本当だ。これが恨みか、ハハハ…… ハーぁ…… 調子が出てきた」
「アハ、最悪な人間を見た」
「お互い様さ」
コンラッドは彼らが何を言っているのか分からなくて、とにかく、死より恐ろしいことが待っているのだけは分かって、ギュッと目を瞑った。
たしかにいま自分は死んで楽になりたいと思っていた。
妻に娘、無垢な瞳を揃えた子どもたちに侮蔑や同情の視線を向けられて、自分という人間が恥ずかしくて仕方ないのだ。
消えて無くなってしまいたい。
こんな姿を見られたくない。
昨日まで人々に賞賛されていた自分の姿が嘘になっていく。
この地獄が更に続くのかと思うと……
穢れがもたらす負の感情は飲まれた人間にはどうすることも出来ない。
よって、コンラッドの地獄に終わりはない。
その終わりは人でなくなるとき。
「ではコンラッド卿」
急に“貴族”として扱われて、その瞬間に貴族の自分になる。汗に濡れた前髪を震える手でかきあげて、そのまま顔を隠すように首を垂れて頭を抱えた。
「僕たちは貴方の恋心を責めているわけじゃない。でもね、グレース様が貴方と夫婦で居たくない理由、分かるでしょう?」
グレースは何も知らなかった。けれどコンラッドはいま突きつけられた自身の醜悪さを目の当たりにして、「そうか……」と腑に落ちる。
醜悪なものを見るように子どもたちにまで忌避されて、自信も、自己を肯定する気力さえも失われてしまった。
だからコクリと頷いて、力なく立ち上がる。
「離縁の儀を……」
「うんうん。そうですよね」
ディディエはパッと子どもたちを見回して「ほら、同意しただろ?」と得意そうに胸を張ったが、全員が「よ、よく分からなかった……」という顔をする。
当たり前だ、ディディエはこの誘導の核となるコンラッドの過去を一切語らせなかったのだから。
「ま、いいや。では祭司マティア、離縁の儀をお願いしても?」
「あ、はい…… 畏まりました」
ゲルルトの後任である祭司マティアも一部始終を見ていたので「私まで穢れを貰いそう……」と泣きそうだった。
当たり前だ、離縁の儀をするからと呼ばれたが、人の尊厳を奪う見せ物があるとは聞いていなかったのだから。
「ユリウス魔法陣描いてー」
「少し試してみたいことがあるんだけど、いいかな?」
「なに? 長くかかりそ?」
「いや、上手く行けば普通に描くより早い」
「わ、わたしも手伝います! 何をするのです?」
シェリエルは途端に存在感を強くしてユリウスの隣にちょこんと寄った。そんな楽しそうなこと独り占めさせません、と目を輝かせて彼を見上げるのである。
ユリウスはフ、と口元を緩めてシェリエルの頭に手を置き、「では私が授業を引き継ごうかな」と優しく手を上下させる。
シェリエルはそれにキュッと心臓を締め付けられた。
ユリウスがあまりにも穏やかに笑いながら極道な虐め方をするので誰もその変化に気付いていなかったが、彼自身、ずっと胸の内に重たい感情が積もっていた。
だからシェリエルはそれに気付かないフリをしてバカの顔をする。
好きにやれば良い。
向き合うことでどれだけ穢れを溜めようと、自分がそれをすべて祓ってやれば良いのだから。
自分に触れる彼の手のひらから、ユリウスのソレが薄くなっていくのを感じて、「仕方のない人……」と思って。
「先生! 魔法陣、おっきいの描きましょ」
「そうだね」
「それで何を試すのですか?」
「うん、魔導具に陣を付与する要領で儀式陣も内在世界から転写できないかなと思って」
「わ! 助かります!」
「出来たとしても少ししか維持できないだろうけど」
「え、じゃあわたしの試験……」
「ふふ、残念」
ふたりで笑いながら、おっきな陣が描ける庭の外れへ向かって歩いた。





