26.コンラッドの思考
花々が風に揺られる色の賑やかな午後の庭。
舞い上がる迷い花。悪戯な風の色。
それは平和を切り取った優美な絵画であり、地獄に続く凱旋パレードであった。
コンラッドは耳奥にある鼓動に合わせてズクズク断続的に頭蓋骨の中身を締め付けている。
テーブルを囲む面々はと言うと。
これでもかと口角を吊り上げたディディエと、相変わらず何を考えているか分からない薄い微笑みのユリウス。
それから、発光する不思議な花束を観察しているシェリエルに……——
コンラッドは背もたれのある椅子に身体を預けたことで少し気持ちを落ち着けることができた。二本足で立つよりよっぽど安心できる。そうしてできた余裕でふと見慣れない貴婦人に目をとめて、「アッ……」と小さく声をあげるのである。
「ぐ、グレース、か……?」
「……」
間違いようもなく妻グレースであったが、疑問符が付く程度には確信に欠けていた。
ぼんやりたるみのあった頬や顎は輪郭をはっきりさせ、肌に柔らかく光を集めて背筋をピンとして、ゆっくりと睫毛を上下させている。
「おや、いまお気付きに? 離縁されたと言っても少々薄情なのでは?」
「そういうわけでは。いやしかし、あまりにも…… 様子が……」
変わっていた。地味で、自己主張が少なく、物置部屋で忘れ去られた祖母の古い骨董品のような女だったのに。
派手になったわけではない。それどころか、装飾品のひとつも付けず、色味といえば淡い紅をひいただけ。パッと目を引くわけでもないのに凛と咲く水仙のような、芯の強さと控えめに花弁を伏せる奥ゆかしさがある。
若さへの嫉妬心など微塵も見せずに、刻まれた小さな皺すら愛するような、丁寧な慈しみがそこにはあった。
「女性は恋をすると変わると言いますがね…… くく、……」
嫌味を含んだコンラッドの困惑で、キーン、と耳鳴りみたいな静寂が訪れた。
自分のひと言で空気が変わったのは明らか。
ハッとしてテーブルを見回すと、今度はそれが弾けるように「アハハ、アハハハッ!」と笑いが起きた。シェリエルはまだ花に夢中で、グレースは伏し目がちに小さく肩を震わせている。
コンラッドは自分が笑われているのだと正しく理解してカッと心臓を燃え上がらせた。
冗談を言って人を笑わせるのと、自身の振る舞いを人に笑われるのでは、その笑い声はまったく別のものになる。
これは後者。少し前、サロンで感じた不快感をより強くした、怒りにも似た羞恥心だ。
「アハ、ふはハッ、グレース様は恋心でアレを毎日?」
「まあ…… 似たようなものですわね。うふふ、でしたらわたくし、“真実の愛”を見つけてしまったのかもしれませんわ。ふふ、この歳で」
「恋に年齢は関係ありませんよ、自信を持って」
「励みになりますわ、うふふふ」
ディディエとグレースのうふうふとまろいやり取りは、声音は穏やかなのにコンラッドの燃える心臓を消し炭にする勢いだった。
二人が恋仲であればこれほどの侮辱はない。
そうでなくとも、やはり侮辱であった。
自分ひとり、何も分かっていない道化になった気分で、居心地の悪さがとぐろを巻いて胸に巣食うのだ。
「そうです。今日は祝いの席ですから、ついでと言ってはなんですが離縁の儀、済ませてしまいますか」
「は?」
「もうそろそろ祭司様もいらっしゃると思いますから」
「祭司様が…… しかし」
「おや? 離縁には合意されたのですよね?」
コンラッドはこんな状態でおいそれと離縁の儀をするわけにはいかなかった。離縁状で誓約はしたが、いまならまだ取り消すことができる。
菓子だのサロンだのという事業のことをはっきりさせないまま、このよく分からない状態で離縁するわけにはいかない。
だがいきなりそこを突いては欲につけ込まれる。まずは相手に責を作り、優位に立ったところで利を差し出すように仕向けなくては。
そうやって利に意識を向ければ少しばかり普段の落ち着きを取り戻せた気がした。
「ええ、まあ。だがね、少しおかしな噂を耳にしたもので。その辺りをはっきりさせておかないと」
「ほう?」
ディディエはにんまり笑って脚を組み、膝の上で手を組み合わせて軽く背もたれに寄りかかった。
余裕に満ちたその態度に、コンラッドはこの離縁にベリアルドが絡んでいるのでは、と鼓動を速くする。
そんなまさか。妻は、ただ一方的に彼に懸想して、それで舞い上がって、こんな暴挙に……
それが分かっていながらディディエに瑕疵を作る気でいるのだが。
もしこれが二人の企み、もしくはディディエの策略ならば、もう自分は何手も遅れを取っている。しかしベリアルドがこの離縁に加担する理由が分からず、だから最初にその選択肢を排除したことを思い出し。風に揺られる花々よろしくジレンマと踊るコンラッドは大した軌道修正も出来ずに順番待ちをしていた台詞を吐くのである。
「君は…… どう、するつもりだね。君が妻を誑かし、妻が狂ってしまったと不名誉な噂が流れているが?」
「ふふ、僕が? だ、そうですけど。グレース様、僕に惚れました?」
「まあ…… ディディエ様があと十年早くお生まれになっていれば、それもあったかもしれませんわね」
「ハァ、これですよ。いつだって僕は“坊や”扱いだ。恋に年齢は関係ないと言うのに、辛いな…… ンハハッ」
二人の会話にはコンラッドに対する嫌悪も何も無い。ただ冗談を言い合って笑っている。それは、この糾弾がまったく相手にされず、見当違いの噂を信じた馬鹿者として扱われるのと同義であった。
ユリウスは興味を無くしたのかシェリエルと一緒に花に魔力を込めたりして、たまにこちらを一瞥するくらい。
どうやって会話を成立させるか、まずはそこからだった。
「しかしだね。そういった噂が出回るような事態を招いた君にも責任はある。次期領主である君がそのように無責任な態度であれば、次代のベリアルドも——」
「お前の常識でベリアルドを語るなよ」
落とすような低く短い声が通り過ぎて、コンラッドは反射的に口を閉じていた。
けれどディディエはにこやかに笑みを浮かべたまま。顔と声が一致しなくて……
この時点でコンラッドはひどく後悔した。
こんな、サロンから逃げるように飛び出ててきて、熱に浮かされたように庭に足を踏み入れ、流されるまま席に着いて。そのような状態で対峙できる相手ではなかったのだ。
彼を若造と侮ったのも事実。何の策も武器も持たないまま、戦場に立たされたようなものである。
「コンラッド卿…… すでに離縁状に署名したんでしょう? それをひっくり返すならそれなりの理由が必要だと思いません?」
「だからそれは…… あ、ああ。事業…… 服飾事業をガーランドに任せるという話。それが、どうにもおかしなことに、菓子の事業であるとか、妻が責任者だとかいう話になっているようだ。これは一体。どこから話が漏れたのか…… 離縁状には事業を任せるなど記されていなかった。何か不備があったのではないか、と。だからもう一度補佐官を通して事実確認を……」
「ディルク、離縁状を持って来い」
いま頭に思い浮かんでいた人物の名がディディエの声で発され、頭で描いていた人物がどこからともなく書を持って現れた。
ディディエはそれを眺めながら「本当ですね、そんな条文は見当たらない。ただの噂でしょう。噂って大抵が根も葉もないものですし」と、誓約書をテーブルに放り投げて、軽く笑い飛ばす。
「では、菓子の事業というのは……」
「ああ、それは本当ですよ」
「へ?」
「ここ。変わった造りでしょう? 社交クラブのように、貴婦人が自由に集いお茶をしたり菓子を購入出来るサロンなんですよ。もちろん、菓子はシェリエルの考えたベリアルドの菓子です」
改めて見ると本当に変わった屋敷だった。一階はほとんどガラスが嵌め込まれていて、庭は広くテーブルがいくつも並ぶ。
屋敷内にもテーブルが。良く目を凝らすとガラス張りの衣装箱のようなものまである。
「そ、それは…… 誰が」
我ながら愚問である。そんなもの、ベリアルドが経営するに決まっている。
なのに、散々聞かされたおかしな噂話のせいで、コンラッドには嫌な予感がこびり付いていた。
ディディエとグレースがフッ、と視線を合わせ、揃ってコンラッドに向き直してニコ、と笑った。
もうこれだけでコンラッドにも分かってしまった。
離縁の裏にいたのはベリアルドで、そのベリアルドがなぜか妻グレースに大事業を任せようとしている。
爵位も持たない女を責任者に置くなど、貴族の常識では考えられない。だからこそ、コンラッドには予測できなかった。
これがもし、首謀者がベリアルドであると気付けていたならどうだろう。それでもやはり同じこと。
ベリアルドではすでに女の——未成年のシェリエルが事業を興しているが、それはベリアルドだからだ。「ベリアルドだから」という異常者の烙印が本来なら見えたはずの事実を霞ませた。
これは政治や謀略に長けたコンラッドだからこその見落としである。
頭の悪い人間ならば、深く考えずに「そういうこともあるだろう」と思うかもしれないが、人が動くには必ず理由があり、貴族はそれが利や家門の名誉なのである。
ロランスほどの大領地と利を交わすならば分かるが、ただの領主夫人にそこまで肩入れする意味などあるはずがない。
どこをどう捏ねくり回してもベリアルドに利が無く、無力なグレースがこの大博打に乗る理由も無いのだ。
「気でも狂ったか……」
「先天性です。こればかりは治るものでも無いらしいので」
「ふざけるなッ!」
堪らずガラッとした大声で怒鳴りつけていた。
悪い夢が続いている。早く醒めてくれと願うように、出口のない悪夢からなんとか抜け出そうと、自分自身に叫んだのかもしれない。
「アハハ、らしくないですねぇ。そんなに感情的にならないでくださいよ。ただのベリアルドジョークです」
「貴様…… 何を企んでいる。イザベラの縁談も嘘だったのか」
「いえ、それも本当ですよ。衣装もちゃんと仕立てていますし。まあ、事業を卿にお任せするかは分かりませんが」
「騙したな……」
「えー、そんな、人聞きの悪い。ただお話を持って行っただけでしょう? 大きな事業ですから、いくつか候補を並べるくらいはしますよ。社交が何たるかを知らないわけでも無いでしょうに、何を今さら……」
「クッ……」
「おや、噂をすれば。祭司様が到着したようですね。そこのユリウスが儀式陣を描きますから、この庭でどうぞ」
「しない……」
「ん?」
「離縁はしない……」
コンラッドは真っ赤に充血した目でグレースを睨み付けて言った。
それは、意趣返しであったのか、打算であったのか、人が違ったみたいに美しく変わった妻を惜しいと思ってか、ベリアルドの介入によって“失意に暮れる妻を笑い者にする”という計画が潰れたからか。
そのすべてであったのか。
瞬時に、「離縁してはいけない」と判断して儀式を拒絶した。
離縁状はそこにある。燃やしてしまえば離縁の話自体が無かったことになるので、あとはグレースを連れ帰って閉じ込めておけば……
菓子の事業はそのまま自分が引き継ぎ……
もうベリアルドには一切関わらない。グレースはこれまで以上に外出を制限して馬鹿な考えを起こさないよう徹底的に教育して……
詐欺にあったと訴え出てベリアルドの利権をすべて奪ってやる……
コンラッドの頭には論理的な思考が支離滅裂に走っていた。
整合性のない思いつきもどこがおかしいのか分からないが妙に噛み合わない。どれもしっくり来ないのにすべて正解のような気がして、頭のなかで火花が弾けるみたいにパチパチ生まれては爆ぜて消える。
そこにスッと通るユリウスの笑い声が幕を下ろすように降ってくる。
「ハハ、彼、大丈夫かい? やり過ぎないようにね、死なれては困るよ」
茹だる脳みそに冷や水を浴びせられたみたいに熱くて冷たかった。手は汗でびっしょり濡れている。
ディディエの「アハハ! 本当だ!」という砕けた笑い声がさらにコンラッドの温度を奪っていった。
もう、何を言っていいのか分からなくて。何を言っても笑われそうで、ジワ、と目元が熱くなる。悔しいのか。怖いのか。それすら分からない。とにかく嫌な心地。
「妻に捨てられた夫ってこんな感じなんだねぇ。あ、違うか。うーん、なんだろうね。ちょっと聞かせてよ、コンラッド・ガーランド」
「あ……」
「ふはッ、喋れなくなっちゃった? いやでもさすがだね。こんなになっても取り乱したりしないんだ? ゲルルトとか酷かったのに。これはこれで面白い…… ね、ね、遊んでいい?」
「君、今の今まで散々遊んでいただろう」
「お兄様、やるなら早く済ませてくださいね。せっかく皆がお祝いの用意をしてくれたのですから」
「シェリエル、いままで花に夢中だったじゃん」
「一旦満足したのでお茶会を始めたいと思いました」
「あっそ」
コンラッドは耳を塞ぎたくて持ち上がりそうになる腕を必死に握り合わせて堪えていた。悪魔たちがワーワーと明るい声で自分を陥れる相談をしている。
そして、嫌に軽薄な藤色の号令がコンラッドの終わりの始まりを告げた。
「みんなー! 集まれー! ディディエ先生の特別授業を始めるよー!」
「ハーイ!」
花の咲き溢れる王都の楽園で、最悪の授業が始まったのである。
わらわら集まって来た少年少女。そのなかには嫌そうに眉を寄せるイザベラや、いつの間にか居なくなっていたベルティーユたちの姿もあった。門の方からは見慣れない桃色の髪が向かってくる。
ディディエがスッと立ち上がって、コンラッドの周りをゆっくり往復し始めた。
「じゃあ、ここにいるガーランド侯爵を教材にするよ」
「ディディエ先生ー! 他領の領主様を教材にしても良いのですか?」
「モーゼス、それを良しとするのが補佐官の仕事だ。後でディルクに習いな?」
「は、ハイ!」
シェリエルの「ハイじゃないのよ。ハイじゃ……」と言う呟きも、ユリウスの「ディディエ先生ー」と低い声でモーゼスの真似をして無視される様子も、コンラッドにはクスクス、ゲラゲラという笑い声としか認識できないでいた。
ぐるっと子どもたちに囲まれたコンラッドはおぼつかない息をして、脳にせかせか酸素を送るので精一杯なのである。
「……さあ、コンラッド卿。いま楽にしてあげますからね。肩の力を抜いて。ゆっくり息をするんだ。吸って、吐いて。そう、いつもやっているでしょう? 不安ですよね、急にわけの分からないことが続いて。ふふ、でも、もう大丈夫。安心して」
ゆるゆると流れるように話し続けるディディエの声を聞きながら、「あ、俺はいま不安なのか」と素直に思った。さっき怯えに気付いた時と同様。一度不安を自覚してしまったら、もう不安で不安で仕方ない。
ディディエの「大丈夫」は余計に不安を駆り立てるので、何も安心できないし、何がこんなに不安なのか分からないし、それで余計に不安になるというのを繰り返しているのである。
「さて、コンラッド卿。祭司様もいらっしゃったので離縁の儀をしてもらいたいなと思っているんですが」
「し、しない……」
「ではみんな、ガーランド卿はどうして離縁したくないと言っているんだと思う?」
挙手をする人間はいない。モーゼスが手を挙げそうになっていたが、隣のシャマルにパシ、と手を押さえられている。
ベリアルドの民だからと言って皆が性根を腐らせているわけではないのだ。むしろ彼らを反面教師にして善良を心がける者が多く、それなりにやって行けるのもお上の悪性に耐性があるだけのこと。それを人は図太いとか鈍いと言うが、生徒たちはこの状況でも学びになると思って集っている。
すなわち、図太いし鈍いのである。
「はい、ディディエ先生」
が、ここには最悪がもう一人いた。
ユリウス・オラステリア、生まれた時から性根が捻じ曲がり、それをさらに大人たちに捻り切られた感情不全の廃嫡王子である。
「ではユリウス君」
「ディディエが言ったように、彼はいま不安で現実を飲み込めていない。だからそんな状態で離縁しては取り返しが付かないと本能で理解し、拒絶を示している。思考も何もない、子どもがむずがっているようなものだろう」
「よろしい。ま、だいたいはそんなところだろうね。ではこういう時、どうやって相手に要求を飲ませるか」
「はい、ディディエ先生」
「お前はもう良いよ、黙ってろ」
「……」
これにシェリエルは「せっかく先生が授業を受けるところを見れると思ったのに」としょんぼりしていた。
ちなみに兄の悪趣味に口出しする気はない。今日に限っては自分に責任は無いと思っているので。
「正気を失った相手に要求を飲ませる方法だけど。まず、大きく分けてふたつ。完全に現実から遠ざけるか、現実に引き戻すかだ。対極の方法だけど、どちらも可能だよ。前者は洗脳に近いね。今日は…… 授業だから後者で行こう。だって、もう彼、洗脳に近い状態だからね」
コンラッドの腰から首筋にゾッと寒気が這い上がった。
洗脳…… なんてされていない。俺は正気だ、おかしいのはこいつらで……
「く、薬でも盛ったか……」
「違いますよ。うーん、まあ、洗脳されている人間に『洗脳されてますよ』なんて言っても信じないだろうけど。少しずつ解いて行きましょうか」
「は?」
まだ状況が飲み込めないコンラッドを置き去りにして、ディディエは「パン!」とひとつ手を叩く。
「はい、というわけでね。コンラッド卿は妻に離縁を迫られ、妻の不貞を疑った。そりゃあ、それまで従順で自分に惚れていたのだから、それくらいしか見当が付かないのも当然だ。その前に僕と仲良くお喋りしているところを見ていたしね。それで最厄期——コンラッド卿のなかで辻褄があってしまう。人って自分に都合の良い因果は結び付き易いから。きっとこうだろうってね。ま、今回は他の理由が見当たらなかったのも大きいかな。それはね、コンラッド卿が自信家で、自己を否定することを拒絶しているからだ。妻が自分を嫌うはずがない。愛されて当然。他の男に目移りしたのも自分の魅力が陰ったのではなく、穢れに狂ったから。これが事業や政治ならもう少し慎重だったかもしれないけど、これは利害じゃなく自分の威厳に関わることだから、相手が穢れで狂ってしまったと思いたかったんだね」
違う、そんなことはない。と、否定の言葉が頭を埋め尽くすが、それは見透かされた自分の本性を認めたくないという気持ちの表れであった。
子どもたちに向かって講義していたディディエはクルッと振り返る。
「ここ最近、社交の場で面白いように皆が話を信じたでしょう? 何を言っても肯定され、馬鹿面で慰めてくれる彼らに気分を良くしたよね。でもひとつ嘘を付けば辻褄を合わせるためにまた嘘を付かなくてはいけない。だってそこには真実も含まれるから……、誰でもいくつかは裏が取れてしまう。それで繰り返し本当のことみたいに話していると、だんだん自分もそれが本当に思えて来る。手元にはそれを裏付ける証拠も揃っているしね。次第に何が嘘で何が本当か分からなくなってくるんだ、自分の吐いた嘘までも…… それでね、卿のなかで少しずつ現実と虚構の境目が朧げになって来たんだね。嘘を吐くときは本当のことに嘘を混ぜなさい、なんて言うけど、あれは良くない。嘘を吐くなら全部だ。もしくはほんの少しだけ真実を混ぜる。その小さな真実だけで相手を信じさせて、自分の頭はしっかり守らないと。……こういうことになる」
コンラッドは大きく息を吐こうとして、ビシャ、と胃液を吐き出した。
強烈な酸が喉を焼いて、乾いた舌に纏わりつく。ディディエは笑って水の入ったグラスを寄越したが、ゼェゼェ息をするだけのコンラッドは黙って袖で口元を拭った。
このとき、コンラッドは自分が吐いた嘘が何だったか瞬時に思い出せなかったのだ。
妻の不貞は自分の仕立てた嘘だったか、いや真実だと思っていた。服飾の事業も……、あれは真実に少し話を盛っただけ、いやあれはそうなるはずだった。妻の生活の面倒を見る、あれは、ええと。あれは、違約金ではない。迎えに、いつか迎えに……
コンラッドは迎えに行くどころか、戻ってきた妻を嘲笑い追い返す気でいたのに、もう今は目の前の妻を救うのだと思い込んでいた。何から救い出すのかまではわからない。ぼんやり、泣きながら改心した妻の姿が浮かぶだけ。
そうやってグルグル考えて、腹の底から震えが起きたのである。
「そんな状態で今日、またサロンに顔を出したでしょう。そしたら今度は自分の知らない話で盛り上がっている。しかも、その噂話の主役はコンラッド卿だ。噂と嘘は似ている。知らないうちに現実が曖昧になったまま、ワーワーと囃し立てられて、余計に混乱したはずだ。冷静だったら、そうだな…… 噂の出元を地道に探って精査出来たんだろうけど。笑い声と沈黙。音の緩急は不安を煽る。拠り所になるはずの確固たる真実がない状態だと、まともに情報を処理できない」
ディディエは見て来たかのように先ほどのサロンの様子を語った。頭を開いて中身をスプーンで掻き出すように、記憶をそのまま覗き込まれるみたいに。コンラッドが感じた嫌な気配を再現するのだ。
「あれは、お前の仕込みか……」
「んー……、いいえ? サロンの客人に僕の仕込みは居ませんよ。ただ、貴方がいない別の集まりには顔を出しましたけど。そういう意味では仕込みと言うのかな。ま、彼らに悪気はないので。悪気があったのは僕だけっていうね、ンはは」
「これは、なんだ……」
「貴方がいま感じてる不安? 状況? 真実? まあ、簡単に言うと……」
ゴクリと喉が鳴った。飲み込んだ唾が胃液で焼けた喉を痺れさせる。
ディディエは一度言葉を切ったかと思うと、夜の帷を下ろすみたいに暗い声で言った。
「お前、穢れを溜めてるんだよ」
※タイトルはわざとです





