第7話 世界でただ一人
深夜のファミレスで、店員は水を一つしか持ってこなかった。
「ご注文がお決まりの頃、お伺いします」
店員は白羽ヰナにだけそう言って、俺の前には何も置かずに去っていった。悪気はない。あるわけがない。あいつの世界には、この席に一人しか座っていないんだから。
「……すみません。わたしのを使ってください」
ヰナが自分の水をこっちに押し出して、律儀に新しいおしぼりまで添えた。
「あんたが謝ることじゃないだろ」
「でも、慣れません。あなたが目の前にいるのに、いない扱いされるの」
「俺は五日目にして慣れかけてるよ。人間の適応力ってすごいな」
「……冗談に、しないでください」
ヰナは真顔だった。冗談にでもしなきゃやってられない、という俺の高等技術は、この生真面目少女には通じないらしい。
◇
俺は全部話した。
路地の口。喰われた夜。母さんの「どちらさま」。三十九人の教室。白紙の学生証。役所。写真機。素通りする化け物ども。そして、さっきの捕食。
ヰナは手帳を開いて、一言も聞き漏らすまいと書き取っていた。字が、定規で引いたみたいに真っ直ぐだった。
「……整理します」
書き終えた彼女は、手帳を俺に向けた。
「存在喰いに存在値を全て喰われた人間は、肉体ごと消滅する。これが原則です。例外は確認されていない――今夜までは」
「俺が例外第一号ってわけだ。ラッキーなんだか、なんなんだか」
「わたしは灯守の観測員で、討伐者です。灯守は存在喰いの被害を『観測』できる特異体質者の組織。……ただ」
ヰナはそこで少し言いよどんだ。
「観測できるのは、普通は『痕跡』だけなんです。喰われた場所に残る歪みとか、消えた人の残響とか。存在値ゼロの人間そのものを、こうして見て、話して、覚えていられるのは――」
「あんただけ?」
「……確認されている限り、わたしだけ、です」
彼女は自分の言葉の重さを、ちゃんと分かっている顔をしていた。
「灯守の中でも、わたしの観測は『視えすぎる』と言われてきました。ずっと、ただの計測係でした。この目が誰かの役に立ったことなんて、なかった。でも」
ヰナは顔を上げて、俺を見た。逸れない目で。
「今夜、初めて分かりました。わたしの目は、あなたのためにあったのかもしれない」
「……重いなあ、おい」
「事実を言っただけです」
やめてくれ。そういうのに慣れてないんだ、こっちは。五日間、誰にも見られなかった人間に、その目は効きすぎる。
「なあ、白羽」
「ヰナでいいです。白羽だと、灯守では父と被るので」
「じゃあヰナ。……一個だけ、確認させてくれ」
俺はテーブルの一点を見ながら言った。彼女の目を見て言う勇気は、まだなかった。
「あんたがもし、俺を忘れたら。あんたの目が、明日の朝、俺の上を素通りするようになったら――俺は今度こそ、本当に消えるんだよな。誰の世界にもいなくなる」
沈黙があった。
やがてヰナは、手帳の新しいページを開いて、何かを書いて、俺に向けた。
定規みたいに真っ直ぐな字で、こう書いてあった。
――観測対象:灰島トワ。観測者:白羽ヰナ。観測期間:無期限。
「灯守の観測記録は、記憶じゃなく書式で残します。書いたものは、消えません」
彼女は手帳を胸に戻して、直角に頭を下げた。
「白羽ヰナは、灰島トワを観測し続けます。世界で、わたしだけでも」
……ずるいだろ、そういうの。
俺は水を一口飲んで、窓の外を見るふりをして、目の奥の熱をやり過ごした。泣くもんか。まだ泣かない。泣くのはもっと、取り返してからだ。
「……で? 観測対象としては、これから何をすればいいんですかね、観測者どの」
「明日、全部教えます。位階のこと。灯守のこと。あなたの体に起きていること」
ヰナは伝票を取りながら、初めて、ほんの少しだけ笑った。
「あなたはたぶん、この世界の誰も知らない『答え』です。灰島トワさん」




