第57話 イチ
九条シキは、報告書を読んで、五分、黙っていた。
読み終わって、彼女は眼鏡を外した。
「――存在値ゼロの、二人目」
「はい」
「九歳前後、男児、氏名不詳」
「はい」
「――保護したのか」
「してません」
俺は、正直に言った。
「保護って、書類がいるでしょう。あいつ、名前がないです」
「そうだな」
「だから、置いてます」
「置いている?」
「図書館の地下五階に」
俺は、言った。
「――俺も、そこに住んでます」
◇
「――白羽」
「はい」
「君が申請した『施設保全のための泊まり込み調査』は、一週間だけの許可だ」
「はい」
「三週間目だ」
「――延長申請を、三回出しました」
「私が三回とも判を押したことは、忘れてくれ」
支部長は、額を押さえた。
「灰島くん」
「はい」
「あの子供を、どうするつもりだ」
俺は、答えを用意していた。
「――名前を、取り戻します」
「方法は」
「ありません」
「ないのか」
「ないです」
俺は、頷いた。
「でも、俺は自分の名前を忘れなかった。あいつは忘れた。……違いを調べれば、何かわかるはずです」
◇
「――違いなら、一つ、わかっている」
支部長は、書類を出した。
『存在値ゼロ症例比較 第七支部』
「君は、ノートを書いていた」
俺は、顔を上げた。
「三年間、七冊。……誰にも読まれないノートを、毎日」
彼女は、書類を指した。
「あの子は、書いていない」
彼女は、俺を見た。
「九歳だ。……三年前は、六歳だぞ」
――ああ。
「字が、まともに書けない年齢で、消えた」
支部長は、静かに言った。
「自分で自分を記録する手段を、持っていなかった」
◇
俺は、拳を握った。
「――じゃあ」
「そうだ」
彼女は、頷いた。
「君が助かったのは、君が偉かったからじゃない。……**字が書けたから**だ」
彼女は、椅子にもたれた。
「六歳で消えた子は、助からない。八十年、灯守はそれを見てきた」
部屋が、静かになった。
「二百三十六人のうち、十四人が、十歳未満だ」
◇
俺は、その日、図書館に戻った。
地下五階の閲覧室で、イチは、記録票を読んでいた。
――読めていない。
あいつは、字が読めない。
紙を持って、眺めているだけだ。
「――イチ」
「あ」
その子が、顔を上げた。
三週間で、この子は、俺を「一拍」で認識するようになった。最初は五秒かかっていた。
「なんか、書いてやろうか」
「かく?」
「そう。……あんたの、記録だ」
俺は、机に座った。
「今日、何した」
「――ねてた」
「他には」
「……これ、みてた」
あいつは、紙を掲げた。二十七番の記録票だ。もう、三週間ずっと持っている。
「他には」
「……おなか、すいた」
「そりゃ、記録じゃねえな」
「――え」
「いや」
俺は、ペンを止めた。
――違う。
「――記録だ」
俺は、書いた。
『十二月三十日 イチは、寝て、二十七番を見て、腹が減った』
◇
書いて、見せた。
「これが、今日のあんただ」
イチは、その字を、じっと見た。
「……これ、ぼく?」
「そうだ」
「……たいしたこと、してない」
「してねえな」
俺は、笑った。
「――でも、いたろ」
◇
その子は、しばらく、その一行を見ていた。
それから、言った。
「――ぼくも、かきたい」
「字、書けるか」
「……かけない」
「じゃあ、教える」
俺は、ノートを新しく買ってきていた。八冊目だ。
それを、イチの前に置いた。
「今日から、あんたのノートだ」
「――ぼくの?」
「そう」
俺は、ペンを渡した。
「毎日、一行でいい。何した、って書け」
「かけないよ」
「――絵でもいい」
俺は、言った。
「読めなくてもいい。俺が読む」
◇
その夜、イチは、初めてペンを持った。
ノートの一ページ目に、ぐちゃぐちゃの線を引いた。
なんの絵かは、わからなかった。
「――なんだ、これ」
「やきゅう」
「野球には見えねえな」
「やきゅうだもん!」
「そうか」
俺は、笑った。
「じゃあ、野球だ」
俺は、その線の下に、小さく書き足した。
『十二月三十日 イチが、野球の絵を描いた』




