第56話 名前のない子
その子は、九歳くらいに見えた。
地下五階の明かりの下で、初めて顔が見えた。
痩せていた。服はぼろぼろで、靴は片方だけだった。
――そして、透けていた。
俺の三年前より、ずっと。
輪郭が、あやふやだった。目を離すと、そこに何がいたか、わからなくなりそうだった。
「――ヰナ」
「はい」
彼女は、階段の上から降りてきた。
その子が、身構えた。
「大丈夫だ」
俺は、両手を上げた。
「こいつは、見える側だ」
「――見える?」
「そうだ」
俺は、ヰナを指した。
「こいつ、あんたのこと、見える」
◇
ヰナは、その子の前に、膝をついた。
そして、まっすぐに、言った。
「はじめまして。白羽ヰナです」
その子は、動かなかった。
「――あなたが、見えています」
彼女は、はっきり言った。
「輪郭も、髪も、靴が片方ないことも」
子供の目が、見開かれた。
「……みえる?」
「見えます」
「……ほんとに?」
「はい」
その子は、自分の手を見た。
それから、ヰナを見た。
「――どっち? みぎ?」
「左です」
ヰナは、即答した。
「左の靴が、ありません」
◇
その子は、その場に、座り込んだ。
声もなく、口を開けて、それから、泣き出した。
子供の泣き方だった。三年ぶんとか、そういうんじゃない。ただ、今、この瞬間が、耐えられないという泣き方。
俺は、その隣に座った。
何も言わなかった。言うことがなかった。
三年前、俺も、駅前の交差点で同じことをした。
白羽ヰナが「見えます」と言った時、俺は、道の真ん中でしゃがみ込んだ。
◇
落ち着くまで、三十分かかった。
その子は、俺の隣に座って、記録票を握っていた。
二十七番。滝沢イサム。
「――それ、持ってったのか」
「……ごめんなさい」
「怒ってねえよ」
俺は、笑った。
「なんで、それにした」
「……やきゅう」
その子は、小さく言った。
「ぼく、やきゅう、すきだった」
――だった。
過去形だった。
「今は?」
「……わかんない」
その子は、膝を抱えた。
「すきだったのは、おぼえてる。でも、なにがすきだったのか、わかんない」
◇
俺は、その紙を、覗き込んだ。
『滝沢イサム 十四歳 野球部 二年 球拾い 毎日一番に来てグラウンドに水を撒いた』
「――この人、球拾いだったんだ」
「……たまひろい」
「レギュラーじゃない。試合にも出られない。……でも、毎日一番に来て、グラウンドに水撒いてた」
俺は、言った。
「消える三日前に、初めて試合に出た。ライトで、一球も飛んでこなかった」
その子が、顔を上げた。
「……それでも、めちゃくちゃ喜んでた」
俺は、笑った。
「『出た』って」
◇
その子は、しばらく、その紙を見ていた。
それから、小さく言った。
「……ぼくも、たまひろいだった」
「そうか」
「レギュラー、なれなかった」
「そうか」
「――でも、まいにち、いってた」
その子は、紙を握りしめた。
「まいにち、いってた。……なんでか、わかんないけど、まいにち、いってた」
俺は、その頭に、手を置いた。
――触れた。
存在値八・〇の俺と、たぶんゼロのこの子。
触れた。
「――名前、思い出そうぜ」
俺は、言った。
「思い出せるのか」
「わかんね」
俺は、正直に言った。
「でも、俺は忘れなかった。あんたは忘れた。……その違いが、何なのかは、調べればわかるかもしれない」
◇
俺は、鞄からノートを出した。
七冊目。もう、最後の数ページだった。
「――とりあえず、書くぞ」
「かく?」
「そう」
俺は、ページを開いた。
そして、書いた。
『九歳くらい。男。野球部で球拾い。毎日行っていた。靴が左だけない』
書いて、その子に見せた。
「――これが、今わかってる、あんたの全部だ」
その子は、その字を、じっと見た。
「これ、ぼく?」
「そうだ」
「……すくない」
「少ないな」
俺は、笑った。
「これから、増やす」
◇
その子は、ノートに、そっと手を伸ばした。
指で、字をなぞった。
「……ぼく、ここにいる?」
「いる」
俺は、はっきり言った。
「紙に、書いてある。……消えねえよ、これ」
その子は、しばらく、その一行を見ていた。
それから、言った。
「――なまえ、ないけど」
「今はな」
俺は、ノートを閉じた。
「――だから、俺が呼ぶ」
「え?」
「名前が思い出せるまでの、仮の名だ」
俺は、少し考えた。
それから、言った。
「――イチ」
「いち?」
「一番だ」
俺は、言った。
「毎日、一番に来てたんだろ」




